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第1141回 ANDDINING株式会社 代表取締役 桜井仁天氏

update 26/03/03
ANDDINING株式会社
桜井仁天氏
ANDDINING株式会社 代表取締役 桜井仁天氏
生年月日 1982年1月13日
プロフィール 幼少期より家族のために料理を作り、中国放浪を経て飲食の道へ。大手外食企業で統括店長やSVとして上場に貢献後、2019年に同社を設立。2020年のコロナ禍での開業危機を柔軟な発想と行動力で乗り越える。現在は飲食店経営、鮮魚卸、開業支援に加え、亡き姉への想いを原点とした障がい者福祉事業を展開。「幸せの鐘」を鳴らすべく、食と福祉で地域社会に貢献している。
主な業態 「大衆酒場 HANEGAKI」「魚と肴 魚天」
企業HP https://anddining.co.jp/

得意料理は、野菜炒め。

キャベツとたまねぎを切る。熱したフライパンに放り込むと、音が弾む。
晩飯は、手が空いた者がつくるのが暗黙のルールだった。母と、おばあちゃんと姉ふたりとの暮らし。桜井さんが、手が空いたときにつくるのは、決まって簡単な野菜炒めだった。
「やっぱり、母の料理がいちばん旨かったですね」と笑う。
朝は食パン。ただ焼いてバターを塗るだけ。ジャムがあるときは、ジャムが加わる。姉たちの朝飯を真似て、小学一年生からパンとコーヒー。年間365日、かわらずそのメニューだった。
今回、ご登場いただいたのはANDDININGの代表、桜井 仁天さん。現在、ANDDININGは幅広い事業を行っている。飲食店経営はもちろん、鮮魚の卸と小売、加工食品の販売、飲食起業家の開業支援まで、まさに飲食のオールラウンドプレイヤーである。
ANDグループでは、高級仕出し弁当の販売会社や障がい者福祉事業会社なども運営し、地域・社会とともに歩む姿勢を鮮明に打ち出している。
「父と母は、19歳で結婚して20歳で長女を産んでいます。私の小さな頃は、両親は鉄板焼店を経営していました」。
姉が3人。
「長女とは10歳離れていて、次女が年子。少し離れて、三女と私。両親は、私が小学1年生のときに離婚します」。
飲食店は、知らないうちに閉店していた。
「長女は父と暮らし、私と姉ふたりは母と一緒に夜逃げのようにして、母の実家に移りました。6年間はおばあちゃんも一緒に暮らしていたと思います」。
まったく裕福ではなかった。
母は、仕事。年が離れた次女が母親代わりだった。冒頭に記載した通り、桜井さんも料理をした。小学1年生がフライパンをふり、野菜炒めをつくっている。今思えば、料理人、桜井の原点でもある。
「当時『料理の鉄人』がテレビでやっていて。好きで、よく観ていたんです。なんだかんだいって、小学1年生から料理と付き合っています。今は、仕事ということもあるんですが、たぶん、鉄人たちもそうなんでしょうが、私も食や料理が好きなんだと思います」。
もちろん、料理だけじゃない。地元のクラブチームでサッカーに熱中した。高学年からは、スケートボード。
中学生になってからは、サッカーはやめて、スケボーに没頭。
ストリートで、スケボーに乗る。車輪が路面をかむ音が響き渡る。アスファルトの細かな凹凸がダイレクトな振動となって伝わってくる。
その時間は、なにもかもから、自由だった。
そこには、ご両親のお店でかき氷を食べていた少年の姿はもうなかった。

バイトと料理と。学業、少々。

中学卒業後、桜井さんは高校に進学する。だが、すぐに中退。定時制高校に編入する。
「高校に上がったときから『仕出し弁当店』や『居酒屋』『バー』等で朝も夜もバイトをしていたんです」。
「だから、学校どころじゃなかった」。
定時制に移ったことで仕事と学業が両立した。もっとも、授業にはでていたが、好きな歴史以外は決まって爆睡していた。
「仕出し弁当店で仕事をはじめると、学校より、そっちが楽しくて。高校を中退、そして、定時制に編入。和洋中の職人さん達がいて、調理のアルバイトは僕だけ。毎日色々な事を教えてもらいとにかく楽しかった。朝からバイトをして、学校で爆睡して、そのあとはバーで」。
「朝5時までのときもあった」と桜井さん。
バイト代だけが目的ではなく、「働くこと」が好きだったし、性に合っていた。
ピュアでまだ幼い桜井さんを職人たちは可愛がった。定時制の4年間で、桜井さんは料理の基礎を教えてもらっていた。Barでは大人に混じってカクテルを覚え、大人の世界を少しみた。
当時を思い浮かべて「あの頃が最初ですね。食の世界へ進もうと思ったのは」といった。
「ただね」と笑う。
「ただ、すぐには食の世界へ進まず、最初に日本一周の旅にでようと思ったんです」。

こつ然と消えた400ccと日本一周。

日本一周、長旅にでるため就職することなく、バイトをつづけた。バイト代が高いコンビニエンスストアの深夜バイト。
マット交換の営業も1年間つづけた。
準備万端。
「笑い話にもならないんですが」と言って桜井さんは、日本一周の顛末を話す。
「明日出発ってとき、整備しようとガレージに行くんです。そしたら、盗まれていました」。
嘘のような本当の話。日本一周の相棒、YAMAHA SR400が跡形もなかった。
「参りました」と桜井さん。バイクはみつからない。
思わずどうしたんですか?と聞くと、桜井さんらしい、痛快な答えが返ってきた。
「バイクは盗まれたんですが、旅行するためのお金は残っています。それで、中国に渡りました」。
中国ですか? 
「ええ、そうです。ただ、特別な理由はないんです。本当に適当に、文化大革命とか、毛沢東とか、なんとなく授業で聞きかじっていたのを思い出して。じゃあ、行ってみるか、と」。

北京の夜と、万里の長城。

中国は、北京。
「12月だったので、そりゃそうなんですが、北京の夜が、あんなに寒いって知らなくて。路上で寝るつもりだったから、とにかくデパートに行って寝袋を買ったんです」。
すると、ひと騒動が起こる。
「日本円で1万円くらいだったと思います。たぶん、むちゃくちゃふっかけられたんでしょうね。『あいつ1万円で寝袋を買ったぞ』って。フロア中が大騒ぎになったんです」。
あちこちで、声があがる。もちろん、なにを言っているかはわからない。小走りでデパートをあとにした。
「たぶん、24~5年前だった当時のレートで1万円というと、中国では相当な額だったんでしょうね」。
もっとも、せっかく買った高価な寝袋も、北京の冬には役立たなかった。
日本一周では、経験できないことばかりだった。
最初の宿は、中国人の労働者と相部屋。途中から北京大学に留学していた日本人学生と知り合い、日本人や韓国人が暮らす学生寮に潜り込み、自転車も購入。毎日色々な国の留学生と、色々な場所へ出かけた。 万里の長城には、中国人の女性と出かけた。
「友人の彼女がガイド役を買ってでてくれたんです」。会話はできないので身振り手振りでなんとかコミュニケーションをとった。
歴史的な建造物や悠久の歴史をみて、刺激的な経験や食文化と出会い桜井さんは心を決める。
「戻ったら食の世界へ進もう。そして、必ず自分の店を持とう」。

レインズインターナショナルと、ベッドのうえと。

ふらふらと3ヵ月ちかい中国での暮らしを経て、改めて「飲食に進む」ことを決意した桜井さんは帰国後すぐにパソコンに向かう。
出会ったのは一本のキャッチフレーズ。「起業家輩出企業」。レインズインターナショナルが掲載していた求人広告のキャッチフレーズだった。
ここだと思い、さっそく、応募ボタンをクリックした。
水が合った。すぐに店長に昇格。1年目には統括店長に抜擢された。
「当時のレインズは飛ぶ鳥を落とす勢いでした。私は一般社員から店長に。すぐに数店舗を統括する立場も頂きバリバリ働いていたのですが、ある日、バイク通勤の途中で大きな事故にあってしまって。幸い、命には別状なかったんですが、1ヵ月程度、入院を強いられました」。
レインズインターナショナルに就職してから仕事を追われつづけていた。仕事は何より大好きだったから、長時間労働も苦にならなかった。
「仕事はむちゃくちゃ楽しかったし、飲食店を経営するうえでのロジックを学ぶこともできました。ただ、病院のベッドで、天井を見上げながらふと思うんです。『オレがしたかったのは、なんだっけ?』って」。

トイレ掃除とオペレーション。

立ち止まることで、みえてきたものは、命を受けた桜井さん自身がやるべきことだった。
「改めて料理の世界へ!自分の店を出す為!と思って、転職活動を開始しました」。
ふたたび、パソコンに向き合った。料理ができること、飲食をさらに深く学べること。
「レインズは、経営のパッケージが一級品でした。だから、あれだけのフランチャイズの展開が可能でした。肉も、野菜もカットされたものがくる。職人いらずで、再現性を極限まで高めたオペレーションは極めてシンプル。だけど、私がやりたかったこと、やるべきことは、手造りの温もりがある飲食だったんです」。
「そのとき出会ったのが、手羽先唐揚げや鳥料理の専門店を運営している会社でした」。
ちなみに、広告のキャッチがふるっていた。
「『昼はサーフィン、夜は仕事、メリハリ付けてはたらいています』。面白い会社だなって。本店にも食べに行って料理のレベルも確認しました。当時は、料理は出汁から引いて作り、店長になれる人材が育ったら出店をしますと謳っており、料理長候補も募集していましたから言うことはなかったです」。
調理スタッフで入ったものの、すぐにフロアも兼任するようになった。
レインズインターナショナルのときは、イメージ先行だったが、今回は、慎重だった。
「一番落ち着いてなくて忙しい店にして下さい。と人事担当者へ伝え、配属先へ。幸いなことに、私が思い描いていたやり甲斐のある環境で、いい上司にもめぐまれました。1人は、最初の担当スーパーバイザーです。ある日、店に来て私が清掃したばかりのトイレで『もう少しきれいにしたほうがいいな』っていいながら、スーツ姿で便器を磨き始めました。しかも素手で。すみません代わりますと伝えても、決して怒らず笑いながら『お客様が素肌で利用するとこだからな〜。ここで生活できるくらい綺麗にしないとな〜』と掃除を続け、やらせてくれないんです。とにかく衝撃を受けた出会いでした。色々と仕事のチャンスをくれた人で、私にとって社会人として必要な事はこの方から全て教わったように思います」。
「もう一人は最初の店長で、伸びてたつもりはありませんでしたが、鼻っ柱をバキバキに折られました(笑)。その方と出会うまで、オペレーションや指示指導、店舗のコントロールなら負けないと思っていたんです。実際、前職でも高い評価をいただいていました。でも、大間違いでした」。
今まで経験してきた50〜100席程度の店とは桁違いの大箱。300席以上はあった。
「その人は、かげになっている部分までイメージして指示を出しお店を動かしていくんです。起こる事に対処するのではなく、想定して先回りして、何が起こっても対処できるように、時間の貯金を作るような営業スタイルでした。当時の私では、何がどうなっているのか、イメージもついておらず。その人は何を見ていて、何を考えているのか、当初は全くわからなかったんです」。
この人からは、飲食店における分業、各職責における責任の範疇、仕事の棚卸から優先順位等を教わり、飲食店運営における考え方に多大に影響をもらった。
今でも心から尊敬する2人だそうだ。
当時、桜井さんは20代前半。2人は若い桜井さんを可愛がり、同時にきびしく指導してくれた。その結果、桜井さんは20代で店長に抜擢されている。
30代、40代が主流だった当時では考えられない抜擢人事だった。自分で経営しているつもりで1店舗1店舗を担当していった。会社の期待に応えるように、業績をあげる桜井さんは貴重な人材に育っていった。
   しかし、その一方で、会社が大きく変化する。

「HANEGAKI」オープンとコロナ。

「私はバイアウトも上場も、その会社で働かせてもらっていた時に経験しています。上場のときは、鮮魚料理専門店のスーパーバイザーでした。色々な経験を経て、少しずつ飲食に対する考え方もかわってきました。もともとは両親のように小さな店をやれればいいと思っていたんですが、一国一城の小さな商売ではなく、会社組織として規模を拡大していくフードビジネスに惹かれていくんです」。
決定的なのは上場の「鐘」と桜井さん。
「私も東証内で五穀豊穣の鐘をつくセレモニーの場にいました。役員達が上場の鐘をつく様子をみて、鐘が響く音を聞き、単純に、ほんとに単純に、自分も鐘を鳴らしてみたいと思うんです」。
会社での出世欲はない。もともと独立するつもりだった。
仕事が楽しくて、ずるずると長く勤めてしまったが、会社が上場し気持ちも一区切りつき次へ向かう。
「会社を辞めて、別の法人設立に関わります。私も役員になって3名で会社を立ち上げました。そちらに3年ほど勤め、晴れて、私1人でANDDINING株式会社を設立。起業します」。
資金も用意した。準備万端。
2019年、ANDDINING設立。2020年、38歳のときに自身の初の飲食店「HANEGAKI」をオープンする。
すぐに、緊急事態宣言が発出された。
「ドン底ですね。もともとためていたお金と資金調達でなんとかオープンできたんですが、すぐに営業もままならなくなったわけですから」。
様々な業態を経験したことが活きてくる。
当時の様子をもう少し詳細にうかがった。2020年3月4日にオープン。その月の25日、緊急事態宣言が発出される。あの桜井さんが、凍りついた。
「コロナ禍初期は、前年度の実績がないと、支援金も、補助金もまったく受け取れない。家賃補助も前年の実績がないと出ない。当初なんの支援もありませんでした。もちろん、資金も潤沢にありません」。
「地獄だった(笑)」と桜井さん。
それでも、政府のいうことは聞いた。時短を守り、8時以降はお酒もださなかった。できる範囲で、桜井さんもコロナと戦った。
SNSをつかって、弁当の注文を取った。
「高校時代の仕出し弁当のときのノウハウが活きました」。
どこでもデリバリーした。川口の夜、ひたすら自転車をこぐ、桜井さんの姿があった。
「しばらくしてコロナの借入をする事が出来、なんとか運転資金は用意できました。しかしコロナ禍は長く、2年ちかく、もう、夜も寝られない日がつづきました。ただ、2年もするとコロナという未知のウイルスの正体がわかり、ワクチンの接種も進みます。私自身も、冷静になっていって。私がオープンしたのは埼玉の川口ですが、都内に行くと、ふつうに営業している店が少なくない。川口でもバレないようにカーテンをしたりして営業している飲食店があったり、お酒を持ち込みで営業している店があったりしました」。
頭のなかで正義のバランスが崩れる。
「冷静になってみると、飲食店ばかりが悪役で。おかしいと思うようになるんです。でも、隠れて営業すると、ほんとうの悪役になる気がして。だから、賛否両論頂くのは覚悟の上で、弁護士に相談し陳情書を作成、役所にもっていくんです。これこれの事情で営業しますという内容です」。
読んだ役人たちが、陳情書をみてかたまっていた。
陳情書の内容はもっともだったし、やめさせる権利まではなかったからだ。
桜井さんがオープンしたのは決して大きな店ではない。しかし、こぞってお客様がいらっしゃった。今も創業店舗はその時のお客様がいらしてくださっている。
「あのときは、ありがとう」
その言葉を聞くたび、桜井さんはあのときの決断が間違っていなかった、と確信する。

桜井さんと、ANDDININGがならす鐘。

もう一つと桜井さんは、話しだした。
「じつは、2つ上の姉を、姉が20歳のときに亡くしています。後天的な障がいがありました」。
一緒に暮らすなかで、桜井さんも障がいに向き合った。
だから今、桜井さんは障がい者福祉事業も行っている。
「コロナのときにはじめた仕出し弁当は今、別会社を設立し障がいのある人に就業の機会をと思い、箱詰めなどを手伝ってもらっています」。
「皆一般就労へ向けて、一生懸命、働いています。友人に頼み、1年程前からお弁当の作業が苦手な人用にと、エンジニア育成研修をしてもらいました。今は仕事を受注し始め、ホームページ作成やアプリ作成、システム開発なども行なっています。毎日、福祉事業社員と利用者さんがデザイン等分業してホームページ作成等行なっております。私は専門的な事は一切わからず、コードを書く事等も全く出来ないので『すごいな〜、すごいな〜』と感心しかできていないので、福祉事業会社では完全に戦力外です(笑)」。
桜井さんの話しぶりを聞くとむしろこちらが、本業に聞こえる。
「エンジニア業務の注文をとってきたり、お弁当のオーダーが増えればそのぶん、利用者さんが体験できる仕事が増え、人数も増やす事ができます」。
その一言からも桜井さんが障がい者福祉事業に注ぐ想いがわかる。
「小さなこと、できることから」と桜井さん。
しかし、その一言が重い。
いずれ、桜井さんが、そして、本業のANDDININGが念願かなって上場の鐘をならすことができれば、日本はもっと豊かになる気がする。
そのときの鐘は、私利私欲でもなく、権力の象徴でもなく、たからかに鳴らす、幸せの鐘。その鐘はどんな音色を響かせるのだろう。

思い出のアルバム

 

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