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第1156回 株式会社Buzz Foods 代表取締役 鈴木康平氏

update 26/06/30
株式会社Buzz Foods
鈴木康平氏
株式会社Buzz Foods 代表取締役 鈴木康平氏
生年月日 1995年10月14日
プロフィール 埼玉県久喜市出身。高校時代は野球の名門・聖望学園で寮生活をしながら3年間白球を追う。大学時代に居酒屋のキャッチとして頭角を現し、23歳で独立。津田沼で創業し錦糸町を中心に、おでん、うどん、ビストロなど多角的な展開を行う、飲食業界の次世代を担う若手リーダーとして注目を集める。
主な業態 「おでんと釜たき飯 あおちょ」「石臼挽きうどん しゅはり」「洋食堂 オレん家」「焼肉ホルモンたけ田」他

手がとどかなかったプロの世界。

畑に電線が走る田舎町。
今回、ご登場いただいた鈴木さんが、その田舎町、山梨県の身延町に生まれたのは1995年。
猪注意の看板があったというから、山間の町だったんだろう。そのあと、戸塚に移り、幼稚園からは埼玉県久喜市で暮らしている。
小学生から体格に恵まれた鈴木さんはスポーツが好きで、なかでも野球が大の得意だった。
キャッチャーで5番。
中学に上がるとクラブチームに入り、上級生にまじって全国大会にも出場している。
今度は、6番でファースト。
高校は、名門の聖望学園へ野球推薦で進学。聖望学園は、阪神の名ショートだった鳥谷敬選手の母校である。
<どうでした?>と聞くと、「たまげた」と鈴木さんは笑う。
「特待生が20人くらいいて、中学時代から知っている選手も少なくなかったんですが、グラウンドにでるまでは、背丈でいうと負けてなかったですから『案外、オレもいけるんじゃないか』って思っていたんです」。
ところが、練習をはじめると、想像の世界とちがった。
「ちっちゃいのがカツーンとホームランを打つわ、遠投をズバーンって投げるわ。デブが、めっちゃ速いわで(笑)」。
一般試験で入学してきた選手のなかにも、もと日本代表がいたりしたそうだ。 
「最終的にはメンバーに入りましたが、人生最初の挫折だった気がします」。
野球の一方で、寮生活がスタートする。
「だから、挫折したといっても、ふてくされている時間はなかったです。先輩の洗濯でしょ。課題でしょ」。
自身の勉強どころでもなかった。じつは、野球にも熱が入らなかった。
「2年生になって、寮生活も慣れ、ちょくちょく試合にだしてもらうようになって。それからですね。このぶんなら、メンバーに入れるんじゃないかって欲がでて、もう一度まじめに練習をするようになりました」。
といっても、プロの道は「たまげた」ときからもうあきらめていた。

大学1年、冬、居酒屋のキャッチに出会う。

大学に入ってからは、小学生の時からやっていた野球がなくなり、心にぽっかり穴が空いたような感覚で惰性で学校に行ってました。1年生のときは、ちゃんと通っていました。行かなくなったのは、2年生からです」。
<なんで?>と聞くと、『飲食店のキャッチのバイトを始めたから』と鈴木さん。
「1年生の11月くらいからですね。最初はパチンコ店のバイトとかけもちでやっていたんですが、そのうちキャッチ1本になって」。
<面白かったですか?>
「キャッチのバイトってフルコミッションなんです。だいたい40万円くらい儲けていました。時給のバイトでは、いかに楽をするか、そればかり考えていたんですが、キャッチは別人で、1ミリもさぼりませんでした」。
お金はもちろんだが、楽しみはそれだけではなかった。
「ターゲットをみつけるでしょ。トークもマニュアルがあるわけじゃなく、自分のアイデアで語りかけ、お客様をキャッチする。それが、面白くて」。
儲けたお金は親に渡していたそう。
「特別、使うこともなかったし、『管理しといて』くらいの感覚でした」。
<飲食が好きになった?>
「『好き』という気持ちはなかったですね。プレイヤーのときは、数字に追いかけられていましたし、21歳で部下をもってからはマネジメントに奔走していたって感じです」。
プロ野球選手を目指していた田舎育ちの少年が21歳で立っていたのは、思ってもいなかった世界だった。

飲食店、オープン。キャッチをすればなんとかなる。

けっきょく、キャッチは4年。キャッチのグループをつくり、21歳のときから、中国人といっしょに儲けた。
「大学は、1年休学していたんですが、キャッチの世界が楽しすぎて、3年目くらいに退学します」。
「中国人が店をオープンして、うちのグループがお客様をキャッチするというイーブンの関係で事業をスタートしました。ただ、経営がザルすぎたというか、23歳のとき、そのオーナーと別れ、私自身が飲食店をオープンします。これも、まったく想像していなかった世界ですね(笑)」。
<創業店は津田沼ですね?>
「当時、西船橋に住んでいたこともあって、津田沼でスタートしました。津田沼じゃなきゃだめだったわけではなく、たまたまいい物件があったんです」。
「飲食は簡単だと思い込んでいた」と鈴木さん。
「中国人のオーナーの店も、儲かっていましたし、私が仕込みをやって、キャッチをしたらまずいけるだろうと」。
初期費用1000万円。40坪 家賃と返済合わせて110万円。
闇金みたいな金利だったが、なんとかお金を集めてスタートさせた。
<いかがでしたか?>
「飲食をなめてました。業績は2ヵ月で黒字になって、まぁまぁいいスタートを切ったんですが、アルバイトのマネジメントはうまくいかなかったです」。
鈴木さんは自走するタイプだったし、キャッチのメンバーも、おなじ人種だった。しかし、飲食店のアルバイトはそうじゃなかった。
<指示待ちの人は、鈴木さんからすれば異邦人だった?>
「そうなんですよね。ただ、私も高校時代、キッチンのバイトをするんですが、そのときは、つまみ食いの日々で、どうサボるかばかり考えていましたから、彼らのことも、わからなくはなかったんです」。
<とはいえ、経営するほうになったらそうはいかない?>
鈴木さんは頷き、「だから、『どうしてできない?』『なんでやらない?』って詰めてしまうんです」と苦笑した。
それでも、なんとか、業績を維持したまま数ヵ月経った10月。
今度は、消費税増税。
「マネジメントはきつかったですが、業績は想定通りだったんで、悪くはなかった。ただ、10月に消費税が上がると、急にブレーキがかかりました」。
客が、来ない。キャッチもできない。赤字になった。
「それでも、12月になれば盛り返せるとは思っていたんです」。
<どうでした?>
「12月に入ると、思っていた通り、お客様はもどってきて。宴会需要もあって900万円〜1000万円になって、マイナスぶんをカバーできました」。
これが、2019年の年末と、翌年の年始の話。
ただし、2020年、コロナ禍がスタートする。

コロナの大逆転。

「人生、どうしよう」。
コロナ禍になって、創業店をオープンした津田沼にも人がいなくなった。協力金もでなかった。
「あのときは、ため息をつくばかりでした。マイナス思考になって、『2019年にギリギリのお金で独立開業した人は、いい店だろうが、悪い店だろうが、終わりだな』って」。
キャッチができない、というよりキャッチする人がいない。魚のいない池に、釣り糸をたらすことに似ていた。
「退店も検討しました。でも、原状回復に600万円かかることがわかって、まさに進むも退くも地獄という状況でした」。
赤字、赤字とつづく。ご両親から200万円を借りる。業者に頭を下げ待ってもらう。
「どうしようもないなかで、1日も休まなかったのが、ある意味、功を奏したというか。毎日、外をみていると、ふと、あれ、いつもとちがうな、と。恐る恐るなんですが、だんだんと、人が流れだしたのがわかったんです」。
<よくなると思った?>
「お客様の『我慢できない』が、うちにとっては光明でした。実際、最悪の数ヶ月が過ぎ、お客様がいらっしゃるようになりました」。
<ただ、コロナ禍はつづく>
「つぎの転機は、8月に2店舗目をオープンしたことです」。
<2020年の?>
「そうです。キャッチ時代、2社目に勤めた会社の会長から『80坪で家賃100万円だが、どうだ?』って言われて。たまたまですが、5月に緊急融資があって、若干、キャッシュもあったもんですから、『やります』と」。
これが2店舗。
「幸い、店長もいい人が採用できて。なんとかかんとか2号店をスタートすることができたんですが、これが大きな転機となります」。
1号店も、わずかだったが、利益がでるようになっていた。2号店はスケールが大きいぶん、ハイリスク・ハイリターンだったが、コロナ禍でも針はハイリターンに傾いた。
「今思うと、よく決断できたなと。会長と話をしたのが、7月15日。8月から私が運営することになるんですが、その期間は2週間しかない(笑)。『やります』といった時点では店長も決まってませんでしたから、ギリギリ。コロナ禍だったから、ある意味、一か八かという部分もあったかと思います」。
8月にスタートした新店は、コロナ禍でも順調に業績をあげていく。600万円からスタートした業績は、すぐに900万円をオーバーする。
「翌年の2021年にはオープンした店はなかったですが、年末には2つの出店が決まっていました」。
1月に千葉駅前。そして、3月にもう1店舗。8月に、アクセルを踏んだことで、すべてが好転する。
「事実と解釈はちがう」と、鈴木さんはいう。
「事実は変えられない。だけど、それを『ピンチ』と捉えるか『チャンス』と捉えるかは、自分の解釈次第」というのである。
「けっきょくはどう解釈するかで、私は、コロナ禍をチャンスと解釈して、オープンを重ねていきました」。
3号店は千葉駅前。4号店は人気FCの「ホルモンたけ田」だった。この「ホルモンたけ田」がもう一つの転機となる。

居酒屋甲子園。

「キャッチとの決別」と鈴木さんはいう。
「将来、自社ブランドでFC展開をしようとしたら、キャッチに頼らないブランドづくりが大事だと思いました。店を運営するスタッフとキャッチの間にはどうしても齟齬が生まれるんです。閉店ギリギリに10人とか連れて来られたら、そりゃ店のスタッフは堪りませんよね(笑)」。
たしかに、そうだ。
「そういうこともあって、はじめてキャッチには頼らない『ホルモンたけ田』のFCをオープンします」。
その一方、ナンバー2のスタッフが独立するなど、組織の運営は、そううまくはいかなかった。
「そんなとき、ある人から『居酒屋甲子園』の勉強会を紹介していただいて、全社員で参加します」。
鈴木さんは、いう。
「初めて、居酒屋甲子園の勉強会を聞きにいったとき、また、居酒屋甲子園決勝での熱いプレゼンを見たとき、『飲食店ってこんなにも凄いんだ』って衝撃を受けたんです。登場するスタッフの熱い思いが、言葉の端々や表情から溢れでていたんです。居酒屋甲子園の理念である『共に学び、共に成長し、共に勝つ』勝ち負けだけで生きていた私にとってとても心に響いた。そこで、飲食にのめり込んだっていうか」。
「オレも居酒屋甲子園だ!ってね」。
球児だったとき同様、エンジンがかかる。飲食の本質が、鈴木さんを虜にする。
2025年10月には錦糸町のうどんの名店「石臼挽きうどん しゅはり 錦糸町」を事業承継し運営を始める。
そして、2026年6月現在、12店舗経営(FC含む)グルメサイトをみると、いずれも高得点である。
ざっと店名だけ挙げると「おでんと釜たき飯 あおちょ 錦糸町店」「おでんと原始焼き あおちょ 赤羽店」「石臼挽きうどん しゅはり 錦糸町」「洋食堂 オレん家゛錦糸町」「焼肉ホルモンたけ田 赤羽店」「おでんと炉端 あおちょ 柏店・千葉駅前店・ほぼ新宿店」「餃子酒場 肉汁とっつぁん 上野御徒町店」「おでんと酒 傳八 津田沼店」他BAR 2店舗となる。
「3店舗くらい展開するのがちょうどいいかな」と思っていた鈴木さんはもういない。
飲食の力を知ったからだ。
それにしても、人生はわからない。学生時代は1ミリも想像していなかった飲食の世界で、今、鈴木さんは戦っている。
飲食が人を魅了する、その力を、鈴木さんのインタビューを通して改めて感じた。
「野球」という2文字に負けない魅力が「飲食」という2文字には、間違いなく備わっている。
そして、プロ野球選手になって多くの人の憧れになる夢は叶わなかったが、確実に多くの人の人生に影響を与えている。
「世界一の日本の外食産業を憧れの職業にする」
「飲食業は尊い仕事」
「俺らが業界を盛り上げる」
鈴木さんは、そうスタッフに語りかける。

思い出のアルバム

 

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