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第1158回 株式会社KayaGroup 代表取締役 小山 裕氏

update 26/07/14
株式会社KayaGroup
小山 裕氏
株式会社KayaGroup 代表取締役 小山 裕氏
生年月日 1974年11月10日
プロフィール 神戸市出身。工業高校卒業後、高卒技術者として三菱重工業に入社するも、音楽の道を志し4年で退職。バンド「KAYA」のボーカルとしてメジャーデビューを果たす。引退後、音楽事務所社長の依頼を機に飲食業界へ転身。FC店店長、エリアマネージャー、焼肉店経営会社社長を経て独立。三宮の高架下市場を皮切りに、業界初の「199円ビール」など独創的な戦略で全国展開を果たす。
主な業態 「産直市場」「韓辛DELI」「魚秀 UOHIDE」他
企業HP https://kayagroup.jp/

父の軌跡と、幼少期に育まれた「食」の原体験。

小山氏のルーツを辿ると、戦時中の満州へと行き着く。満州で商売を営んでいた小山氏の祖父は、神戸に本妻を残しながらも、現地で山口県出身の女性との間に一子をもうけた。それが小山氏の父だ。
祖母は現地で他界。終戦に合わせ、父はわずか3歳という幼さで祖父と共に日本へ引き揚げた。祖父は、満州生まれの息子を本妻に任せることを躊躇したのだろう。幼い父は、実母の故郷である山口の親類のもとで育てられることになった。
高校1年の春、山口を離れ、神戸に住む祖父のもとに身を寄せた父を待っていたのは、階段の踊り場にカーテンを引いただけの、およそ部屋とは呼べない寝床だけ。
父は勉学に励み、神戸大学に進学。卒業後は丸紅系列の商社マンとして頭角を現し、役員にまで上り詰めた。社内恋愛で結ばれた妻との間に授かった二人の息子のうち、次男として産声を上げたのが小山氏である。
父は仕事柄、出張や単身赴任が多かったが、帰宅する日には一家の食卓が一変したという。
「若い頃の反動か、父はとにかく旨いものが好きでした。それに、母も非常に料理が上手でしたね」。
幼少期に形成された豊かな味覚が、後に小山氏が飲食業界という荒波で舵を取る際、何物にも代えがたい指針となったのは言うまでもない。

躍動する少年時代と、音楽への傾倒。

子どもの頃の小山氏は、勉強よりも外遊びに夢中な「わんぱく坊主」そのものだった。得意科目は体育、技術、音楽といった副教科。虫取りや山遊びに熱中し、直感的に「やりたい」と思ったことには迷わず飛び込む性格だった。小学校では野球、中学校ではサッカーに没頭。コーチの推薦もあり、サッカーの名門・御影工業高校へと進学する。
しかし、彼のアンテナは常に新しい刺激を求めていた。サッカー強豪校に入学したにもかかわらず、友人と共に突然ボクシングジムへ通い始める。だが、プロボクサーとして生計を立てる厳しさを知ると、潔くその道を諦めた。そんな中、唯一彼の心を支配し続けたのが「音楽」だった。
中学2年の頃、祖父の家にあったギターを手にしたことをきっかけに、フォークソングの世界に魅了されていく。自ら曲を書き弾き語る傍ら、デモテープを音楽事務所へと送り続け、ミュージシャンとして生きる未来を描き始めた。

三菱重工業で出会った「人生の師匠」。

高校在学中には電気工事士の資格を取得。周囲から大学への進学を期待されていた小山氏に、転機が訪れる。神戸に造船所を構える三菱重工業が、その年初めて高卒・高専卒技術職の採用を開始。小山氏は見事試験に合格し、安定と高待遇が約束された巨大企業で働くことになった。
巨大企業での歳月。そこでは、小山氏の価値観を塗り替える二つ出来事があった。ひとつは20歳で遭遇した阪神淡路大震災。成人式の翌日に街は一変し、同級生3人を失うという過酷な現実に直面した。
もうひとつは、社内の指導員制度を通じて出会った10歳年上の先輩社員の存在だ。小山氏は今もその先輩を「人生の師匠」と呼び、深く親交を育んでいる。音楽への未練を捨てきれず、焦燥感を抱えていた18歳の小山氏に対し、先輩はこう説いた。
「技術を磨きたければ、優れた人間が集まる輪の中に飛び込め。そして3年間はここで経験を積め。それでもまだ音楽をやりたければ、そこから進めばいい」。
師の教えに従い、論理的思考とプロの姿勢を学んだと明かす小山氏。加えて「高卒ではどれだけ努力しても課長止まり」という組織の壁に直面する。入社4年目を迎えた日、彼はついに退職を決意した。両親からは激しく反対されたが、師匠だけは「行ってこい」と彼の背中を力強く押してくれた。

メジャーデビューと、突きつけられた現実。

音楽の世界へ飛び込んだ小山氏。バンド「KAYA」のリーダー兼ボーカルとしてメジャーデビューを果たすが、現実はそう甘くなかった。一時はスポットライトを浴びるも、月給はわずか7〜8万円。宇多田ヒカルを始め、次々と目の前に現れる圧倒的な才能に戦慄する中、「こんな人たちとは戦えない」という冷静かつ残酷な自己分析がその手からギターを奪う。小山氏は自己否定のスパイラルに陥り、27歳で音楽活動に終止符を打った。
もう一度アマチュアからやり直そうと考えていた彼に、音楽事務所の社長から「飲食FC店の店長をやってみないか」と声がかかる。恩義もあり、「1年だけ」という条件で未知の業界へと足を踏み入れた。

未経験からの店長就任と、最優秀店長への飛躍。

配属先は兵庫県西脇市の居酒屋「とりあえず吾平」。店長という肩書きこそあれ、小山氏は接客も飲食も全くの素人だった。赤字続きの現実を目の当たりにした彼は、飲食店としては異例の「法人営業」に乗り出す。周囲の会社を一軒々々地道に訪問し、必死に店の存在をアピールした。この熱量が町の人々の心を解き、売上げは爆発的に上昇。全国40店におよぶFC店の中で、2度も最優秀店長に選ばれる快挙を成し遂げた。
「音楽制作と飲食店経営の構造って似てるんですよ」。
ターゲットを定め、アレンジを加え、空間を演出する――音楽を作る流れが、そのまま飲食店経営に転用できる。小山氏のこの着想は、さらなる成長へとつながっていく。

荒波の中での武者修行と、決意の独立。

約束の1年が経過し、退職を申し出た小山氏のもとには、その手腕を聞きつけた各地の企業からオファーが殺到した。大阪の「餃子計画」では得意の営業スキルで売上を大幅に伸ばし、前月比160%という驚異的な数字を初月に叩き出す。エリアマネージャーへの昇進を果たす一方、会社側の経営悪化を受け「リストラ部長」という辛い役目を担うことになった。断腸の思いで組織を立て直した後、自らも責任を取る形で退職した。
次に選択したのは、焼肉店を経営する企業での、雇われ社長としての道だった。そこでも飛躍的に業績を伸ばしたが、会長との価値観の相違から、わずか1年半で袂を分かつことになる。小山氏の決断で路頭に迷いそうになった元同僚や後輩たちのため、辞職後もなお奔走し続ける彼の「義理堅さ」が、次の扉を開く鍵となった。

34歳、三宮高架下での「旗揚げ」。

そんなある日、昔のバンド仲間からある人物を紹介された。三宮高架下の物件をうまく活用できる借主を探しているという。
「僕はまだ直営店すら持っていませんが、これだ!と思う構想はあります」。
彼の熱意に打たれたその人物は、「思い出のあるこの場所を、若い力で復活させてほしい」とFC契約を了承。2008年、小山氏は神戸で初めて自分の旗を揚げた。
わずか15坪、高架下の2階という、決して好条件とは言えない立地。そこで彼が放った「199円ビール」、この一手が業界を震撼させることになる。まずは店を知ってもらい、足を運んでもらうための強烈なフックだった。
果たして「199円ビール」は大きな反響を呼んだ。もともと神戸には昼飲み文化が根付いている。夜勤明けの面々が午前中から喉を潤し笑い合える、憩いの場が高架下に誕生した。ここから株式会社KayaGroupの快進撃が始まったのである。

強みは論理的思考と創造性、生き方はフーテンの寅。

「これはどこがどう良くて、なぜこうしたのかっていうプロセスをロジックに変えて話せるか話せないか。相手が腹落ちできるように解説できるかっていう『社長力』って大事だと思うんですよね」。
「エンジニアの理系脳と、ミュージシャンが持つ右脳のクリエイティヴィティをうまく使いこなすこと」が自身の成功の秘訣だと説く小山氏。
そんな彼の憧れは、意外にも「男はつらいよ」の車寅次郎。不器用ながらも人情を何よりも重んじる、あの「寅さん」だという。
「有名になりたいわけでも、金持ちになりたいわけでもないんです。仲間と美味いもんを食って、それなりの贅沢をして、笑って過ごせればそれでいいかなって」 。
その言葉は、ガード下の仄かな灯りのように、彼のこれまでの歩みを優しく、そして穏やかに照らし出していた。

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