


| 株式会社Numbers 代表取締役 達川京平氏 | |
| 生年月日 | 1999年2月27日 |
| プロフィール | 京都府福知山市生まれ。実家は北近畿を中心に展開する外食グループ。高校3年時(17歳)に起業。父が経営する店舗を業務委託で引き受け、運営を開始する。福知山で4店舗をオープンした後、事業を父に託して上京。2022年4月、下北沢に東京1号店『下北沢の零や』をオープンする。 |
| 主な業態 | 「下北沢の零や」「焼野菜 銀河団」「焼鳥とお野菜 一等星」 |
| 店舗HP | 焼野菜 銀河団 串焼きと煮野菜 下北沢の零や 焼鳥とお野菜 一等星 |
父にも母にも敬語を使っていた。弟たちからは「京平さん」と言われていた。曽祖父が起こした達川グループは、地元の京都府福知山では有名な企業グループだった。
「ただし、うちは富豪でもなんでもなかった」と断った後、「それでも、父には『お父さん』じゃなく、『社長』。母には『母』でも『達川』でもなく、旧姓で話しかけていました」という。
ちょっと変わった話が、始まった。
「兄弟は私を筆頭に男4人。弟たちも私には『京平さん』でした」。
「父は私が2歳の時に、祖母が経営していたお好み焼き店を継承して、飲食業を本格的にスタートします」。
お父様が飲食を開業したのは、やはり、福知山。
その福知山が、今回、ご登場いただいた、株式会社Numbersの代表取締役、達川 京平さんの生まれ故郷。
生まれは1999年。2026年のこのインタビュー時点で、まだ27歳。この年齢も少し頭に入れて読み進めて欲しい。
「父の飲食業は、福知山から北近畿に広がります。私が高校生の時には20店舗ありました」。
息子たちと、一緒に会社も育っていった。
父の教えは「兄弟全員、船主になれ」だった。船主はもちろん1人。「兄弟で、おなじ会社を経営するな」という教えである。この教えを小学生の兄弟は、頷きながら聞いていた。
「私は、小学校から水泳やバスケットボールをやって、勉強もそれなりにやって、福知山のなかでは進学校に進みます」。
<将来、船主ですもんね?>
「そうです、そうです。ただ、高校生の時には、起業とかそういうことじゃなくって、田舎者だから東京に憧れて。大学は『青山か、明治か』なんて考えていました。実は、東京の大学に進むために、中学生の時からバイトでお金を貯めていたんです」。
4人兄弟だから、高校も公立。父母の言うことは、絶対。反対されても行けるよう資金を準備した。その額、300万円。
「父のカバン持ちもしていて、飲食の経営者にもお会いしました。こちらは将来の起業のためですが、父の会社の書庫にあった『日経レストラン』や『月刊食堂』など、外食の経営本を片っ端から読んでいました」。
<大学進学と起業。まずは大学進学ですね?>
「ふつうなら、そうなんですよね」と、達川さんは笑う。
「小さな頃から父の仕事をみていましたし、店でアルバイトもしていたんで、飲食だったらだいたいわかるんです。高校生くらいになると独学の効果もあって、解像度が上がってきます。すると、父の店の問題点にも気づいて『オレなら』という気持ちになっていくんです」。
「根拠はまったくないですが、自信だけあって。実は、高校3年生に進級した春、父を説得して、業務委託で飲食事業をスタートするんです」。
<高校3年の春? 学校は?>
「高校は続けました。もともと禁止されていたアルバイトも、私だけ特別にOKだったんです。その延長で(笑)」。
「居酒屋を経営します」と聞かされた先生は、さぞ目を丸くされたことだろう。
「うちの社長は、高校生」。
やはり、おかしい。
「お酒を飲めないのに、お酒を勧める高校生だった」と言って、笑う。
創業メンバーはご近所さんの幼馴染。今もナンバー2として、達川さんをサポートされているが、当時は2人とも高校生。
「さすがに、高校生2人ですから、父のところからサポートで、スタッフさんに来ていただいていました」。
家賃は15万円。父には月60万円を支払った。
しかし、どうして、進路が大きくかわったんだろう?
出向で来られていた方は、達川さんを「社長」と呼んだのだろうか?
それにしても、大学に通いながら社長になった経営者にはインタビューで度々、出会ったが、高校生で社長になったのは、今回の達川さんが初めてかもしれない。
果たして、高校生社長はどんな結果を残すのか。経営は空想のなかで、経験したのみ。店の業績は、下降気味で、月商100万円前後で推移。駅から徒歩30分のロケーション。
常連さんは、少年の店主を受け入れてくれたのだろうか?
話を急ごう。
「実は、その店は父の会社の創業店で、さっき言った祖母が経営していたお好み焼屋だったお店です。突然、店長が姿を消し、月商も下がって100万円程度だったので、『倉庫にするか』『社員に譲るか』という話があって、それが私の耳にも入るんです」。
<思い出のあるお店だった?>
「創業店といっても、私が2歳のときですから、思い出うんぬんじゃなく、『やってみたい。オレなら業績をあげられる』って。眼の前にニンジンをぶら下げられた馬の気分で、もう、大学どころじゃなくなったんです(笑)」。
<高校生によくお父様もOKをだされましたね?>
「簡単じゃなかったです。父からは『社員に委託するよりハードルを上げる』と言われました。社内で、独立希望者も少なくなかったから、当然ですね。それで、月商100万円程度の店で、家賃15万円、使用料で月60万円です」。
<固定費75万円?>
「当然、赤字です(笑)」。
社員の給料もある。大学に進学するために貯めていた300万円を運転資金に回した。それが、みるみる減っていく。
「でも、ぜんぜんビビってなかったです。父がバックにいるとか、そういうんじゃないですよ。実際、バックにいたわけではないですし。オレなら、絶対、いけるって」。
高校生が、赤ら顔の大人たちに料理をだし、酒を勧める。福知山、ローカルなエリアだ。なかには、おなじ高校出身のお客様もいて、盛り上がったかもしれない。交わされたのは、部活の話か、未来の話か、酒の話か。
<お店に来たら、お客様も若返ったんじゃないですか?>
「15坪の小さな店です。お客さんとの距離はめちゃくちゃちかいです。影響は、あったかもしれませんね(笑)」。
おっさんと高校生がカウンター越しにキャッチボールする。
「当時の福知山ですから口コミです。いけるかどうかは、カウンターの向こうにいるおじさんたち次第です。まさか、高校のともだちに来てもらうわけにもいきません(笑)」。
<業績は上がりましたか?>
「なかなか上がらなかったですね。半年くらいで貯金が底をつき、首が回らなくなりました。でも、タイミングを測ったかのように、その頃から、ぐっと業績がアップしていくんです」。
高校生、実践にもとづいた戦略、戦術はない。
「週イチだったお休みをやめて、毎日17時〜24時までフルタイムで働きました。父のところから出向で来ていただいていたんで補助輪付きですが、なんとか、かんとか、軌道に乗り始めます」。
「月商は350万円になった」という。
自身は給料もとらずに資金をプールして、出店を重ねた。
「未成年ですから銀行が貸してくれない。だから、3店舗目までは自己資金でオープンしていきます」。
<4店舗になったときは、さすがに高校を卒業されていますよね?>
「ええ、そこは、当然」。
<改めて、大学に進むという考えはなかったですか?>
「ないですね。ますます飲食に惹かれて、有名な飲食の経営者のブログを読み漁っていました」。
友達も、お酒を飲める年齢になっている。飲食店の若きオーナーを、友達は、どういう目で見ていたんだろう?
「福知山の居酒屋のマーケットは、父が大部分を握っています。シェアを広げるにも限界がありました。もともと東京への憧れがあったという話をしましたよね」。
<ひょっとして福知山と東京を天秤にかけた?>
「そう。福知山では、結果を残してきました。しかし、小さなマーケットで伸び代がない。それと比較すれば、東京のマーケットは桁違いです」。
<大都会と、福知山と言っても地方の街ですからね?>
「勝負するなら、東京です。福知山で十分、準備運動を済ませたと言っていいかもしれない。そう思うと、もうとまらない。私とナンバー2と、もう1人、3人で、東京へ向かいました」。
<勝算は?>
「ちょうどコロナ禍です。タイミングが悪いという人もいますが、私は、逆に、このタイミングだと。今なら、東京初進出の若造にだって、チャンスがあると思ったんです」。
<いかがでした?>
「半分思い通りで、半分、あてがはずれたというか(笑)。コロナだったので、上京後、まもなく、いい物件に出会います。ただ、オーナーさんの事情でダメになって」。
<それは、きつい。スタートダッシュで躓いた格好ですね?>
「いえ、そうとも言えないんです。そのおかげで東京を知る、新たな準備運動ができたんですからね」。
<東京で、準備運動?>
「オープンできないから仕方ありません。上京した3人でボロアパートをシェアしながら、東京の『これだ!』と思った飲食店でアルバイトを開始します」。
「およそ1年。東京のマーケットを知り、オペレーションを東京バージョンにアップデートできたのは、この1年の経験が大きいと思います」。
福知山の店は4店舗ともお父様に引き取ってもらった。
「だから、もう東京しかなかったんです。そういうあとがないぞっていう覚悟もプラスに働いたかもしれません」。
1号店は、下北沢にオープンする。
「アルバイトをしながら、週イチのペースで東京中をリサーチしまくっていたんですが、最終的に下北沢に決定しました」。
「ピンときた」と達川さん。達川さんはブランドコンセプトのデザインはもちろん、内装もデザインする。そのクリエイターの視点からみたとき「ピンときた」というのだ。
「40年つづけて来られたお店の居抜きだったんです。2Fで、専用階段がなく、動線にはやや難ありでしたが、それ以外は問題がなく、むしろ、コンセプトやデザインによって、高いパフォーマンスが生み出せると、前回のこともあったんで、スグに契約を進めました」。
高校3年生のときの元手は300万円だった。
今度はちがう。手元資金は1000万円。6000万円借り入れて、東京に来た。
「資金的な準備も整っていましたし、我々の経験も、オペレーションも最高潮です」。
本人が言うように、はからずも東京で1年間、修業をすることになったが、それもまたプラス材料だった。
「絶対、いける!」。達川さんは、憧れていた東京で、初めて一歩を踏み出した。
高校3年、17歳の春から数えて、6年目の春。達川さん23歳。東京は、達川さんに微笑むんだろうか?
2022年4月に『下北沢の零や』をオープン。
15坪40席。
串焼きと煮野菜。
ブランドサイトのURLをクリックすると、和テイストの料理と、若いスタッフ、そして、イタリアンバルのようなオシャレな空間が現れた。
コンセプトも、デザインも、ぜんぶ達川さんによるもの。当時、23歳。
煮野菜を看板メニューにした切り口が斬新。
サイトには、<オーナーの地元京都を中心に10名の契約農家さんのお野菜を丁寧に仕込み、自慢の大鍋で、コトコト煮たり、サッと茹でたり、お肉で巻いたり、串に刺したり、衣で揚げたり>とある。
ドリンクは、国産島レモンを使ったサワーや京都のお茶屋さんの茶割り、厳選した食材で作る果実酒、クラフトビールも楽しめる。
「福知山で手がけていた『大衆串屋台 ぜろや』が業態の下地になっている」と達川さん。その下地が、見事に東京バージョンにアップデートされている。
契約農家もすべて達川さんが、開拓した仕入先。
「絶対、いける!」。
<強がりの一言じゃなかったですね?>
「おかげさまで、15坪ですが、月商は600万円をオーバーするなど弾みがつき、4年で下北沢に3店舗をオープンさせていただきました」。
<目標は?>と聞くと「10店舗で売上10億円を指標にかかげています。できたら10年でと思っていましたので、あと6年で7店舗オープンできたらいいなと」。
ただし、あくまで想定で、「そうなれば」という話。
「大家さんから話があって、それがいい物件だったらという条件付きです。お金を出して勢いよく出していこうとは思ってないんです。とくに今の争奪戦には加わりたくない」とキッパリと言う。
これは、アメブロで読み漁った経営者の、戦略を相当意識している証だろう。
<福知山にいたときと、東京にでた今とかわったところはありますか?>という最後の質問に達川さんは次のように回答してくれた。
「福知山時代は、正直、お店の質よりも、スピーディーな出店に重きを置いていました。でも、東京にきて、今思うのは、規模じゃなくって、クオリティです。魅力があり、価値が高く、会社としても20%以上の営業利益を取れるお店をつくる。そこに軸を置いています。そんなお店を直営で10店舗オープンする。それが今の目標なんです」。
だから、急がない。
規模を追うとすれば、「その後だ」という。
27歳。
まだまだ化ける年齢だ。
経営理念は「おいしいを、人の力で、にっこりにつなげる」。
達川さんの感性と熱量に、東京はたしかににっこり微笑んだ。そして、今があり、新たな未来が広がっている。
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