


| 青木フルーツ株式会社 代表取締役会長 青木信博氏 | |
| 生年月日 | 1947年11月11日 |
| プロフィール | 1947年郡山市生まれ。青木商店の3代目として家業を継ぎ、売上を大幅に拡大。東京出店の失敗やショッピングセンターへの出店や退店を繰り返すなど、試練を糧にしてビジネスモデルをつくりあげる。経営哲学は「世の中への恩返し」。現在は「フルーツ文化」の普及に情熱を注ぐ。 |
| 主な業態 | 「果汁工房果琳」「フルーツピークス」「フルーツショップ青木」他 |
| 企業HP | https://aokifruit.jp/ |
今回ご登場いただいたのは、青木フルーツ株式会社の青木会長。1947年生まれ。ご実家は福島県郡山市。創業は1924年(大正13年)。初代から数えて3代目。なんでも、青木家60年ぶりの男子だったそう。
会長に言わせると、「中学生になるまで一貫して引っ込み思案だった」とのこと。
―――意外ですねというと、「アルキメデスのおかげ」と笑う。
聞けば、小学6年生の時「アルキメデスの原理」をすぐに理解できたことで、先生にかわいがってもらい自信がついたそう。
「もう一つ勲章のような話をするとね。高校生でソフトテニスをはじめて3年生の時にインターハイに出場しているんです」。
結果は惜しくも、3回戦敗退。でも、勲章はそのあとの話。
「高校から始めてインターハイに出場できたんですから、それで十分なんですが悔しくて、納得できない。だから、受験もあったし、ふつうはその大会で引退するんですが、私は勉強もそっちのけで、10月10日開催の次の大会をめざします」。
―――結果はいかがでしたか?
「今度は、最後までコートに立っていた」とニコッと笑われた。
「ただ、優勝したのは喝采ものなんですが、気づいた時には大学受験がもうそこで(笑)」。
戦略を練り、勉強方法、今風にいえば独自のメソッドをつくり、難関大学の受験を突破。目標だった東北大学の経済学部に進学する。
「おそらくですが今まで経済学部に進んだ先輩はいなかったのに、私が合格した翌年からはつぎつぎと受験するんです。たぶん『あいつが受かったんだから、案外ハードルが低いんじゃないか』って。先生たちが、そう思い始めたんでしょうね」。
そう言ってこちらを笑わせてくれる。
―――いい指標になったってわけですね、というと、会長は「そうそう」と言って大笑いされた。
世界一周の旅にでたのは、大学3年生の11月。
「当時はドル/円が360円。外貨持ち出しは500ドル=18万円まで。シベリア鉄道で北欧に行って、それから南下。エジプトからスペインのマドリード。アメリカには大西洋を渡ってニューヨークでしょ。そして、西海岸からハワイに寄って帰国です」。
「これはね。岡崎って、ちょっとかわった奴がいて、そいつと途中までいっしょだったんですが、途中で別れて。お金がないから宿泊はユースホステルや夜行列車です。そうそう、ローマのテルミニ駅でその岡崎と待ち合わせをしていたんですが来なくて、その旨を日本への手紙に書いたら、心配した母親によって行方不明騒ぎが起きたこともありました。バルセロナの近郊じゃ、不審な2人組にホテルに連れて行かれて。机3台でドアを押さえて一夜を過ごした。北欧のおばさんは親切だった(笑)」。
―――当時、アメリカやヨーロッパは、今よりずっと遠かったんじゃないですか?
「そうだけど、行くか行かないかは、今もいっしょ。出発前の準備なんて、英語学校に2週間行っただけ」。
文字通り世界一周。異文化や異邦人との交流。東洋の小さな島国は、まだ世界に知られていなかった頃の話である。
その頃、青木フルーツも、大きな冒険を開始する。
「私が大学を卒業する1970年。万博があった年です。父が新しく整備された郡山市中央卸売市場に入場を決断するんです。青果卸業への挑戦です。フルーツショップを開業したのは祖父で、父は2代目。勤勉で、実直な人でした」。
初代のお祖父様は、郡山駅前・柳町商店街の会長として尽力された方で、東北初の天蓋式アーケードの建設計画を主導された方だったそうである。
さて、その青木フルーツと3代目の会長の話のつづき。
大学を卒業した会長は、業界では有名な『水信』に就職し、修行を開始する。水信は、1915年創業、横浜の老舗果物店であり、伝統あるバナナ加工卸売業者だ。
「ちょうど関西で勢いをつけていたスーパーマーケットが関東に進出してくるタイミング。私は運良くそのスーパーの担当になります」。
立川と八王子に巨大なスーパーがオープンする。会長が担当するスーパーだ。
「私の担当はバナナです。『関東の店舗のバナナはすべて水信で』という契約が交わされていたんです」。
―――当時、バナナは高級品でしたね?
「そう、高価なフルーツだったんですが、そのスーパーはほかより3割安く販売されていました。ちょうど自由化が進んだ頃で、スーパーのなかでも目玉商品だったんです」。
土曜に5トン、日曜には10トン。
「運ぶのも、たいへんだった」と笑われる。
その後もスーパーの出店はつづき、2年間の間に合計15店舗、そのすべてを会長が担当していたそうである。
会長も、土日となれば店にでた。まだ20代前半。あらゆるものを吸収する。「実体験で、小売のノウハウを勉強できた」とおっしゃっている。
「それでね。担当していたスーパーとの関係を軌道に乗せて、昭和47年の2月、24歳で水信を退社して実家に戻ります」。
会長がもどってからの30年。青木フルーツの業績は拡大をつづけ、8000万円だった年商が30年目には60億円になった。ただし、会長は満足されてはいなかったようだ。
「たしかに大きな成長なんですが、いっても60億でしょ」と会長。
「それに気になることもあったんです」。
「その30年で、昭和は平成になって、人々のライフスタイルも変化をつづけているんです。そんななかで、農水省がフルーツの流通量を発表するようになって、それをウォッチしていたんですが、その資料だと年々、流通量が減っているんです」。
「人口が減っているわけじゃないのに、毎年、減っている。『なんでかな?』って、頭をフル回転させて、考えました。答えはね…」。
話は飛ぶが、2026年9月現在、青木フルーツはフルーツショップを5店舗、生搾りジューススタンドを190店舗、フルーツタルト&カフェを19店舗、オープンしている。
この成長は、当時の会長の疑問がスタートライン。
回答が気になる。
「私の回答は、こうでした」と説明してくださった。
「流通量が減っているのは、家庭で時間をかけて調理する時代から、すぐ食べられるものを買う時代に変化したからなんです。魚で想像してみるとわかりやすいんだけど、下処理がたいへんで時間がかかる。だから、刺身を買ってきて、パッパと食卓に並べるほうが楽で速い。パックの魚を買う人をみて、『そうか』って。当時、フルーツのパック詰めなんてパイナップルやメロンぐらい。だから、切ったり、皮を剥いたり。そういう時間がもったいないから手がのびないんだって」。
「要するに、魚じゃないけど『フルーツを食べやすく加工すればいい』って。発見ですよね。でも、どうすればいいか思案している時に『ジュースがいいんじゃない?』って、天の声が聞こえてきたんです」。
「それを聞いて。これ、じつはうちの妻の一言なんですが、いいアイデアだって思って。縮小するBtoBから、拡大するBtoCへ。そんな思いで『ジューススタンド』をオープンしたんです」。
「最初にオープンしたのは郡山のうすい百貨店。2002年6月1日の土曜日です。今でも忘れないです。オープン初日、レジを閉めたら170杯、5万4000円だったんです。これには驚きました。だって、よくいって50〜60杯だろうって計算していましたから。その後も売上があがって、2号店は郡山のショッピングセンターに出店するんですが、そちらは日曜日には20万円。店員さんも目を回しただろうけど、経営者の私も目を回しました(笑)」。
「これでいける」と確信した会長は、一大勝負にでる。東京への出店だ。
「ショッピングセンターのバイヤーにね。『青木さん、郡山でこれだったら東京だともっとすごいことになりますよ』って一言に背中を押されてね」。
都内に複数のスタンドを次々とオープンさせた。
1杯400円。缶コーヒーの4倍。それでも、飛ぶように売れていくはずだった。
「商売っていうのは、ほんと難しいよね。ぜんぶだめだった(笑)」。
ふたたび「なんで?」と頭を抱えたそう。
郡山や仙台は計算通りだった。しかし、東京は、まったく計算外。
「なにがいけないんだろう。なにがちがうんだろうって。ところが、そんな時も出店のオファーがあって、つくばに『駐車場4000台の大型ショッピングセンターをオープンするから、出店しませんか』って。東京でお金を使いはたしていましたから、とてもじゃないが無理だって最初は断っていたんです。でもね、担当者が熱心に誘ってくれてさ。それで、出店を決めるんです」。
「また、お金をかき集めた」と会長は笑う。
300億円の大型ショッピングセンター、その一角に、ジューススタンドがオープンしたのは2008年11月3日。
「そりゃもうシーズンはとっくの昔に終わってます。だって、寒いんです。凍えて買物に来たお客さんは冷たいジュースを飲まないでしょ」。
―――「だめだ」と思っていたんですね。
「そうです。春にならないと売れないと思っていました。ところが、本社に電話をかけてきた担当者が興奮気味なんです」。
「会長、たいへんだって。『50万円売れた』っていうんです。『悪い冗談はやめてくれ』っていうと、『ほんとに、1700杯いったんです』って」。
「『よくやった』って言いたいでしょ。でも、また計算外で、余計にわからなくなった。それに『なんで東京はダメだったのに』って」。
―――答えはみつけられたんですよね?
「はい、答えはロケーションだったんです。東京は、駅前です。1人で買物に来て終わって、ジュースをのんびり飲んでいる時間なんてないんです。こっちは無料の駐車場があって、車に乗ってきた家族全員で買物を楽しめます。そこに、美味しいフルーツジュースがあったらどうです?」。
―――ちょっと飲んでみたくなります。
「そうでしょ」。
会長は、つぎつぎと難問を紐解いていく。
「それから、広域の商圏をもつイオンモールなどに出店を重ねていきます。ただね。全店がうまくいったわけじゃない。今はスクラップアンドビルドを繰り返していて。190店舗くらいになっています」。
その一方で、もう一つの柱になっている「フルーツタルト」の話も聞いた。
「こっちはね、逆転の発想なんです。たとえば、ショートケーキって、苺がのっかっているけど、苺がメインじゃないでしょ」。
「ショートケーキが悪いとは言わないけど、私らからしたら、そりゃ、フルーツをメインにしてほしいよね。だから、逆転の発想で、『フルーツメインのケーキをつくろう』ってスタートしたんです」。
「こっちも色々あったんですが、2010年11月3日に郡山郊外にフルーツショップとフルーツタルト&カフェの複合店をオープンしたら、これがうまくいったんです」。
「ジュースは衝動買い」だけど、「タルトは目的買い」だと、会長はいう。フルーツメインのケーキのカフェとショップの複合店。
「フルーツショップやカフェが一体となった世界観。行列をみて、『これだったんだ』って」。
会話がつづく。
会長の頭はまるで一つのデータベースだ。年表も業績も正確だ。そして、話は会長の哲学に及んだ。
もっとも伺いたかったことの一つである。
一つ、仕事の第一義的目的は「世の中への恩返し」である。
一つ、お金は「世の中からの預かりもの」である。
そして、青木フルーツの経営理念を「フルーツ文化の創造」と明確に位置づけておられた。
最後にその「フルーツ文化」についてもお話いただいた。
「一つはね、『適熟』です。どういうことかっていうと、『追熟』ってあるでしょ。フルーツはね、糖にかわるタイミングがいちばんなんです」。
「『適熟』したタイミングで食べれば、感動ものですよ。ただ、スーパーなんかでは、『適熟』までおいておけないんです」
「だって、ギリギリのタイミングですから。ヘタをすれば売れ残っちゃうから、適熟のギリギリのラインを攻められないんです」。
「こういうことを伝えていくのが、私たちのミッションかな、と今は思っています」。
フルーツの感動的な食べ方レシピ。
「でも、それだけじゃないんです。いやそれ以上に、『フルーツで健康になる』って事実を広めていきたいんです」。
「フルーツが健康にいい」のは、学術的にも証明されているそうだ。
フルーツを食べて健康になる。これもまた、会長のいう「世の中への恩返し」である。
「今、日本人のフルーツの摂取量は1人1日78.1グラム※なんです。これを200グラムにしていきたい。これが我々の運動、つまり仕事の原理なんです」。
※出典:国民健康・栄養調査(令和6年)
「ジュース1杯、タルト1つ」が小さな一歩になればいい。
「この原理はもう従業員に浸透しています。毎日、口を酸っぱくして言い続けています」。
掛け声だけじゃない。教育にも取り組まれている。
「フルーツスペシャリスト/マイスター制度」を策定し、マイスター100人構想を立てているのはその一例。
「うちの、ジュースでなくても、フルーツでなくてもいいんです。フルーツを食べてほしい。だからね。マイスターは単なる資格じゃなくって、そういううちの原理を伝達する『伝道師』なんです。保育園や、小・中学校、シニアクラブとかにもね、どんどん出ていってもらいたいですね」。
最後に会長みずから、「もっとも言いたいこと」と言って、つぎの言葉を託された。
社員や職人向けに語り継がれている、会長の最も大切なメッセージである。
「人の命には限りがある。でも、描いた夢・志・目標は、志が高ければ高いほど、誰かが引き継いで世の中に広めていくんだ」。
「私たちはまだ、人々に果物を届けるための小さな土台にすぎません。しかし、私たちの思いを世の中の人に広めていくことで、その志を受け継ぐ人たちが次々と現れ、日本人あるいは人類の健康を守っていけるようにしたい。これが我々の仕事の目的なんです」。
フルーツは、甘いだけじゃない。酸っぱくて、甘い。この絶妙なバランスがいい。そして、何よりからだにいい。
すべての家庭の、すべての食卓にフルーツを。会長が思い描く未来で、これが、会長の志。
| ポスト |
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