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第358回 株式会社やぶやグループ 代表取締役社長 横瀬武夫氏
update 13/04/23
株式会社やぶやグループ
横瀬武夫氏
株式会社やぶやグループ 代表取締役社長 横瀬武夫氏
生年月日 1965年12月27日
プロフィール 名古屋市中区栄に生まれる。中学卒業後は、高校の卒業資格を得ることができる料理の専門学校に進んだが、しばらくして、中退。父の店を手伝いはじめたのは16歳の頃。そして4年後の20歳で晴れて独立。波乱万丈の人生が幕を開ける。「やぶ屋 今池本店」のオープンは1994年6月。翌年、「有限会社オフィス横瀬」設立。2006年10月に「オフィス横瀬」を現在の「株式会社やぶやグループ」に社名変更。2013年3月現在、「やぶ屋」「フライの一八」などを名古屋と東京中心に23店舗展開している。
主な業態 「やぶ屋」「フライの一八」「すしの哲也」 「尾毛多セコ代」「ウマナミナノネ」
企業HP http://www.yabuya.com/

23歳のギブアップ。

「望んでいたわけではないが、ぼくはこれでよかったと思っている」、父はそういって息子の横瀬に店を閉めるよう促した。
「あれは、店をはじめて3年目のことです。私は、16歳から飲食の世界に入りました。父の店を2年、手伝いました。親子ということもあったし、私もまだ若かったから衝突もあって、何度か店を飛び出しました。18、19歳の2年間は親許を離れ、東京の焼鳥店で働いていました。20歳の時に名古屋に戻り、店をだしてもらいます。それが『鉄板焼き居酒屋 SHINOJIMA』です」。
最初の2年間は快調だった。
「オープン初月からお客様がつき、2年目になると電気代もガス代も、家賃も、材料費も、スタッフの給与も含め必要な経費をぜんぶ払っても100万円、残るんです」。
手元に残ったお金を数え、有頂天になった。
20代前半といっても経験は豊富。自信もある。人柄もいい。客にも従業員にも慕われていた。だが、経営はザル。原価30%だけがインプットされていた数字だった。そんな経営者にはきまって落とし穴があいている。
「3年目に入ってからです。いろんな人に誘われて、ゴルフはもちろん、外車も買って。夜な夜な遊びに繰り出します。そうなるともう店はダメですよね。私一人が、好き勝手な方向に突っ走って、振り返ってみたらもう誰もいませんでした」。
横瀬を慕っていたスタッフもいなくなった。常連客の足も遠のいた。代わりに店には、連日、閑古鳥が鳴いた。
父が訪れてきたのは、そんな時だった。
「あの時、兄にも大学に行かせるのに1000万円使った。だから、もういい。もういいから、ギブアップしなさいと言われたんです。ほんとうは私にも兄とおなじように大学に進んでほしかったんです。だけど、私は勝手に、この道を選択しました。それなのに、私の生き方も肯定してくれている父でした。だから、あの一言はよけいに心に響きました」。
人生最初の挫折。
まだ若い。まだ23歳。だから再起は図れる。いうのは簡単だが、当事者になればどうだろう。結婚も控えていたから、尚更、暗澹とした気持ちになったのではないか。
23歳、横瀬はギブアップし、天を仰いだ。

ラッキーのかけら。

「トラックに乗ろうと思った」と横瀬は当時を振り返っている。仕事をすることは、キライじゃない。小学4年生から新聞配達に明け暮れてきた。高校を卒業し、専門学校に進んだが、その学校もアルバイトに精を出しすぎ退学することになったほどだ。トラックに乗ればリスクもない。横瀬には、それしか道がないように思えたのだろう。
しかし、幸運のかけらは残っていた。
「新婚旅行だけは行こうと思って。店を売りに出したまま旅行に行ったんです。もともと600万円だったところを1200万円で出していました。もちろんダメもとです。でも、帰ってきてビックリ! 留守番電話が満杯なんです。不動産屋もダメだと思っていたのが、売れてしまったんです。立地が良かったからなんですが、思いも寄らないことでした」。
思わぬ、幸運。いったん閉ざされた道が、ふたたび開けたのは、この時である。

1965年、昭和40年生まれ。

横瀬が生まれたのは、1965年12月27日。通称「女子大小路」という名古屋の歓楽街のど真ん中だった。父も、母も飲食店を経営していた。ビルを借り、1Fが母の料理屋、2Fが父のお好み焼き屋。
父も、母も仕事をしていたので横瀬の面倒は、祖母や8歳離れた兄がみてくれた。
父親は新潟の出身。もともとは裕福な家庭で、幼い頃からピアノやバイオリンを習っていたそうだ。しかし、戦争がすべてを奪った。戦後、横瀬家は、新潟の山奥で暮らすようになる。
そこから名古屋に移り住み、母と結婚。一方、母は、南知多半島の沖合にぽっかり浮かんだ篠島出身。いまでは観光スポットだが、当時は漁村の町。素潜りで魚を獲り生計を立てていた。母もまた小さな頃から仕事をしている。名古屋に出てきてからは、飲食の仕事も経験した。それが料理屋を開く下地になっている。
両親ともに商売をしていたこともあって横瀬家は、どちらかといえば裕福だった。休みの日になると決まって外食し、旨い料理に舌鼓を打った。
まだ横瀬が小さな頃の話なので、店を継がせようという思いではなかったはずだが、結果的に、この外食のおかげで横瀬の舌は肥えた。のちに料理の専門学校に進むのだが、その背景の一つはこんなところにもあるのだろう。

新聞配達と横瀬。

すでに書いた通り、横瀬は小学4年生から新聞配達をしている。
「最初は、友人の兄の一人が新聞配達をやっていまして、『やってみるか』って誘われたんですね。言われた通り配ると10円くれたり、飴玉をくれたりするんです。うれしかったですよ」。
10円がうれしかったわけではなく、飴玉がほしかったわけでもない。きっと誰かの役に立てていることがうれしかった。横瀬にはそういうところがある。
次第に公団住宅が横瀬の担当になる。上から下まで駆け降りること何十回。いちばんしんどいルートを任されたことになる。悪い言い方をすれば、いいように使われていたといえるのだが、いま振り返っても横瀬はそういう風には言わない。「子どもだから平気だった」と笑うだけだ。6年生の頃には、バイトとして正式に採用してもらった。それから中学を卒業するまで、新聞配達をつづけている。
「お金じゃないんですね。なんというか、仕事が終わったあとのそう快感。あれにハマってしまったんですね」と横瀬。まるで楽しいゲームをしていたかのように言うのだが、眠い日もあったろうし、雨の日も、嵐の日も、凍てつく日もあったにちがいない。
真冬の朝3時。まだ眠ったままの町のなかを駆けていた。何年間も。あきずに、めげずに。横瀬はそういう男でもあるのだ。
もちろん、仕事をしている分、収入もあった。小学生の頃も平気で喫茶店に入り、定食を食べたりもしていた。
だが、新聞配達を通して得たのは、いくばくかのお金だけではなかったはず。大人顔負けの仕事観が、この数年間に養われた気がするからだ。いずれにせよ、横瀬の基礎はこの時に鍛え上げられている。

高校進学、辞退す。

バイトには精を出したが学業はおろそかだった。というか、中学になると学校に寄り付かなくなっている。「上の学年が絵に描いたように悪かったんですね。学校に行くたびに目を付けられるんです。だから、学校に行くのも昼からこっそりとか(笑)」。
たしかに当時の中学は荒れていた。同年代の経営者の取材でもよくそう言われる。なかでも横瀬が進んだ中学は名古屋でもイチニを争う不良のたまり場だったそうだ。
けっして早熟だったわけではないが、早くからバイトで稼ぎ、仕事のおもしろさも子どもながらに理解していた。だからだろう。社会にでることにも抵抗がなかった。
高校卒業の資格ももらえる料理の専門学校に進んだのも、その角度から見れば大いに頷ける話である。もっとも両親は「兄同様、大学まで進学してほしかったと思っていたはず」と横瀬。だが、いったんこうだと決めればぶれないのは親譲りである。
ところが、入った専門学校もしばらくして辞めてしまう。バイトに明け暮れ、学校に行く時間がなかったからだ。「6時から朝6時まで2つのバイトを掛け持ちしていました。こうなると学校に行くべき時間は睡眠です(笑)。それで学校を辞めた時に父が声をかけてくれたんです。今度、焼肉屋をやるんだが、いっしょにしないかと」。正確にいえば、これが横瀬の飲食人生の始まりである。

義理、人情でつながる。

2013年現在、横瀬は、47歳になる。業界には、彼を兄貴と慕う人間も少なくない。父の店で飲食人生を踏み出した横瀬は、すでに記した通り20歳で独立。成功もしたし、失敗もした。いったん飲食の道は閉ざされたかに思えたが、幸運が重なり、再起を図る。
25歳、父の店を手伝いつつパブ開業。店は好調だったが、からだが持たず28歳で惜しまれて、閉店。しかし、飲食への思いは断ち切れず、息の長い店をコンセプトに同年、「やぶ屋」をオープン。
煙りがもうもうとたちこめる「とんちゃん居酒屋」という、時代に逆行するような店だったが、逆に人を惹きつけた。
2ヵ月を過ぎた頃には、もう軌道に乗っている。それからも出店は順調につづいた。2000年半ばからは東京にも進出。全国展開の一歩を踏み出していった。業績も極めて順調。義理人情居酒屋「やぶ屋」のファンは、年を経るごとに確実に増えていった。
余談だが、ある小説で、仁義の話を読んだことがある。いずれも紀元前の中国に生まれた言葉だそうだ。「仁」とは、当時、おなじ血族だけがあつまって暮らしていた時の親や肉親を慕う考えだそうだ。「義」とはそれから時代が進み、他の族とも交わるようになったことで生まれた考えであるらしい。
多少、間違っているかもしれないが、私の記憶ではそうなる。
そのとき、「仁」も「義」の意味も、実は人と人をむすびつけている接着剤のようなものだという気がした。
 「義理、人情」、昭和に生まれた言葉は、平成に入りいささか色褪せた。しかし、義理も、人情もなくなれば人は、何を接着剤につながっていればいいのだろう。お金? 時間? 打算?…、いずれもつまらないものばかりだ。
そう考えると、義理人情居酒屋「やぶ屋」に人が集まってくる理由がわかる。人はきっとどこかで、義理人情でつながっていたいのだ。
それを大事にし、実践したこと。それ自体は咎められることではないと、店の繁盛と喧騒は横瀬にいま、そう語りかけているのではあるまいか。

思い出のアルバム
 

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