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第195回 株式会社D.F.C. 代表取締役 阪田浩子氏

update 11/01/04
株式会社D.F.C.
阪田浩子氏
株式会社D.F.C. 代表取締役 阪田浩子氏
生年月日 1963年、東京の深川に生まれる。
プロフィール 実家は、水道工事業を営んでおり、幼い頃から大人たちに囲まれて育った。2歳年下の妹がいる。学生時代に早くも友人たちと起業。その後、ホテルなどでコンパニオンの仕事を行い、「接客・サービス」の研鑽を積む。1991年、大阪の著名なホテルのオーナーに誘われ、来阪。1993年、ホテルの新規開業にオープニングスタッフとして参加。1995年、外食企業に転職し、マネージャー、スーパーバイザー、また店舗開発、商品開発、人財能力開発などさまざまな職務・業務を経験する。その後、東京に戻り、2003年に(株)D.F.C.を創業。代表取締役に就任する。(株)D.F.C.は現在、飲食店の経営はもちろんのこと飲食店の開業支援やプロデュースをはじめ各種セミナーの企画、調理器具・厨房備品の販売など多岐に渡る事業を展開している。
企業HP http://www.e-dfc.com/
インターネットで「阪田浩子」と打ち込めば、ズラリと彼女に関する項目が並ぶ。それだけ有名人だ。早稲田大学で経営セミナーを行ったこともある。その時のタイトルは「新橋ガード下の串かつ屋がデパレスへ進出するまで/〜江戸っ子女社長、夢の実現の途中〜」だ。徳光アナ司会の「TheサンデーNEXT」にも登場している(2009年6月7日放送)。彼女の半生をTVで特集されたことも少なくない。そんな有名人でもある「阪田浩子」を改めて紹介するにはどうすればいいか。いくぶん迷ったが、起業家、阪田浩子ではなく、「飲食の戦士」らしく、人間、阪田浩子にスポットを当て、生い立ちから追いかけてみることにした。

チャキチャキの江戸っ子。

1963年、東京、深川で阪田は産声を上げた。父は水道工事業を営んでいた。もともと祖父の代から始まったようだが、彼女が生まれた頃には祖母が引き継ぎ、父がその跡を継いだ。物心がついた彼女は、父が運転する車の助手席にちょこんと乗り、父が仕事をしている間は、近くの公園で遊んだ。人見知りせず、誰とも仲良くなれるような、そんな活発な少女時代だった。

胸が大きくなると言われて始めたハンドボール。

「すっかり騙されましたね」、といって阪田は笑う。「ハンドボールは胸を反って投げるから、胸が大きくなるんだよ」。高校時代、友人の一言を信じて入部したハンドボールは、熱血マンガそのもの。「当時は、まだ水を飲むなでしょ。相当、きつかった。それでも都大会でベストエイト程度でしたが」。キーパーに選ばれた彼女は、ヘトヘトになりながら、強烈なシュートを食い止め続けた。期待通りに、胸は大きくならなかったが、けっして根を上げない根性が育った。汗にまみれながら、屈託なく笑う彼女の姿が浮かび上がる。

学生時代に友人と起業。その後のコンパニオン時代まで。

「明星大学人文学部心理教育学科中退」、これが阪田の履歴だ。大学2年時に、友人たちと並行輸入の会社を興し、その後、コンパニオンのアルバイトに精を出すようになる。「300万円で株式会社がつくれる最後の年だったのです(注:その後、1000万円に引き上げられる)。300万円なら、なんとかなると会社を興したのですが、結局、設立が目的だったので、スグに空中分解してしまいました。私といえば、ホテルのコンパニオンのアルバイトがたのしくて、そちらに没頭してしまいます。政治家や芸能人のパーティーはもちろん新商品の発表もみんなホテルで開かれていましたから、まるで時代の動きを見ているような感じでした。お客様も錚々たる顔ぶれでした。政財界を動かしておられるような方々のお話を目の前でお聞きできるのですから勉強にならないはずがありません」。結局、彼女は大学を中退し、コンパニオンの仕事に傾倒していくことになる。時代はバブルに向かって真っすぐ突き進んでいた頃。阪田は、女性として最高に輝いていた。ところで、著名な人たちとも出会ってきた彼女に、「成功する人に共通していることは何か」と聞いてみた。すると2つの答えが返ってきた。「どんな小さな約束も破らないこと」「どんな目上の人にでもちゃんと気遣いができること」。どちらも単純なようで、これほど難しいことがないのも事実だ。

「マネージャー」として大阪に赴任。

「26歳になったくらいの時でしょうか。ちょっと首を傾げたくなったんです。当時は、何をやっても上手くいく。私の友人たちも雇われでしたが、次々、社長になっていく。私にもお誘いがありました。でも、これって普通じゃないな、って思うようになったんです。一方、いつまでもアルバイトを続けていけないし、そろそろ生業となる仕事をしなければと思うようにもなりました」。そんな彼女に手を差し伸べてくれたのが、あるホテルのオーナーだった。「大阪にあるホテルでレストランのマネージャーをしてみないか」と。「『食』に興味があったんです。フレンチをはじめとする様々なレストランに行くたびに『食』の奥深さに触れ、感動していたものですから。一方で、妹に子どもが生まれたのもこの頃で、その子が凄いアトピーだったのです。もう、ミルクを飲ませただけでたいへんなことになるような。それで、改めて『食』の大事さを知るようにもなるんです」。ちなみに、D.F.C.のホームページを覗くと「今日、食べたものが、明日の身体を作ります」という一文が目につく。これは、この頃、彼女のなかで明確に言語化された一言ではないだろうか。さて、オーナーに誘われた彼女は、「家を出てひとり立ちをしたいという気持ちもあり、また大阪ならもっと商売の勉強ができるはず」と、申し出を受けることになる。そんな彼女の思いを受け止めてくれるはずの、また初めての就職先だった、そのホテルでは、東京から社長が連れてくる女性マネージャーに対し、ベテランシェフやホテルマンたちが眉をひそめていた。そんなことも露知らず、彼女は3年間、勉強するつもりで、意気揚々、新幹線に乗り込んだ。それが、10年以上の旅になるとは思いもせずに。

1ヵ月で6キロ痩せた。

阪田が「1ヵ月で6キロ痩せた」というのは、この頃のこと。寝る暇もないほどの激務に加え、周りとの軋轢。「従業員食堂に足を踏み込むことさえできなかった」というほど冷ややかな目で見られていた。ここで、「もし、彼女が、男性だったら」という疑問が浮かび上がった。仮に男性が、これほどの扱いを受けたなら、さっさと職を辞したのではないか。何しろマネジメントの経験もなく、あるのは接客に対する自信だけ。プライドを傷つけられることもない。だが、彼女は踏み止まり、逆境を乗り越えた。時代はまだ、女性の社会進出に懐疑的な頃。それが、逆に彼女の「負けてなるか」という気持ちを生み、原動力にもなったといえば言い過ぎだろうか。いずれにしても彼女は間違いなく、この時代の女性たちが、また社会が模索した、女性の社会進出をリアルに追いかけた一人と言えそうだ。彼女の真摯で、熱心な仕事ぶりをみて、徐々に従業員との距離が縮まる。総料理長が、彼女に一目置き、原価を、人件費を、店舗の数字を教えてくれるようになる。「その時の総料理長から経営という視点を初めて教えていただいた」と彼女は、当時を振り返っている。

震災。結婚。そして東京へ。

ようやく従業員と打ちとけあった頃、今度は逆にオーナーとの溝が深まった。それがもとで、ホテルを辞めた。「そんな時、総料理長がニューオータニ系列のホテルに、オープングスタッフとして紹介してくださったんです」。次の就職先は、尼崎市にあるアルカイックホテルだった。先を急ごう。彼女はここで震災に合う。車に駆け込み、ホテルについた頃には、上階のプールから零れ落ちた水でフロントが水浸しの状況だったという。このホテルを退職し次に入社したのが、ある外食企業だ。ここで彼女は、マネージャー、スーパーバイザーから店舗開発、商品開発、人財能力開発まで、あらゆるジャンルの仕事を担当することになる。そして、この会社で一人の男性と出会い、結婚。女の子をもうけた。その後、男性といっしょに一つの店を開業する。育児に追われつつも、彼女も店を手伝った。店のほうは、順調に育っていった。「この頃、父のからだが悪くなって、何度も電話をかけてくるようになったんです。もう、いたたまれなくなって、大阪の店は後輩に譲り、東京に戻ることにしました。たまたま、店を手伝ってくれないかというお誘いがあって」。ところが、この誘いがもう一度、彼女を試練に追いこんでいく。「契約」に対して、あいまいな知識しかなかった。それで、「莫大な借金。といっても、いま考えれば、けっして大金ではないんですが、当時の私たちにすれば当面の生活費もなくなったうえでの借金ですから、生活することもままならない状態になりました。ウィークリーのマンションを借りていましたから、もうどうすることもできなくなって。それで、彼が大阪に戻って、私と娘が、こちらに残ることになるんです」。それがもとで、男性とは離婚することになった。父が他界したことも重なり、彼女は途方に暮れる。小さな手を引いて、前に向かって歩くことさえ覚束なかった頃の話だ。

親子2人の、その日暮らしが始まる。

40歳を前にして日雇いの派遣を始めた。スーパーでのデモンストレーション。20代の女性に「笑顔が足りない」と注意されながら、ウインナーを販売する日が2ヵ月は続いた。それでも日々の生活費と小さなアパート代をまかなうのが精一杯だった。娘は3歳になっていた。親子2人だけのその日暮らし。かつて、有名ホテルのレストランのマネージャーとしてTVの取材も何度も受けたビジネスウーマンの面影はどこにもなかった。「くすんでいた」と彼女はそう表現する。最愛の父に、なにもしてやれなかった後悔が精気を奪った。目をつぶれば、涙が零れ落ちそうになった。だが、いつまでも、立ち止まっているわけにはいかない。「ちゃんとした定職につこう」とある会社の面接に行った。しかし「たしかに昔の君は、ぴかぴかだったね」。衝撃的な一言を言われた。まっすぐに面接官の社長を見つめつつ、歯を食いしばった。そして精一杯の返事をした。「いつかぴかぴかになってもう一度、面接を受けにきますから」。それが一つの引き金になった。女として、また一人の社会人としてのプライドがあったから。この一言が、彼女を過去から決別させたといっていい。

娘のための起業。

彼女のなかで改めて、「起業」の二文字が鮮明に浮かび上がったのは、この時だ。人脈も、大事と、彼女は、銀座のふぐの名店に就職する。狂いかけていた歯車が、もう一度、回り出す。だが、かつてのように大小の歯車がかみあうまでにはまだ時間がかかった。「名刺を500枚単位で刷って、配るんです」。そういう日々が続く。店の業績は、彼女の手によって上向いていく。1ヶ月で女将に抜擢されているのだから、評価もちゃんとしてもらえた。だが、一方で、娘との暮らしぶりは、かわらない。仕事に熱中するほど、むしろ距離は離れていく。「仕事が終わって、娘を迎えにいきます。託児所から彼女を引き取り、連れて帰る。お金がないから、家までの3キロの道を、父が使っていた浴衣の紐で娘を背中にくくりつけて歩きました」。1年と何ヵ月を過ぎた頃だったろうか。娘がある夜、母に語りかけた。「ママは、ぜんぜん早く戻ってこない。私のこと好きじゃないの?」。「そんなことはない。片時もあなたのことを忘れたことはない。でも、いまは仕事が、いそがしくて」。そういうのが精一杯だった。仕事など、子どもに対して、何のいいわけにならないことも知っている。娘はただ、母との会話を、ふれあいを望んでいるだけ。それも痛いほどわかっていた。

最後に。

「45歳で起業しようと思っていたんです。でも、この娘の一言で、いますぐにでも起業しようと。雇われていては自由が利かない。娘のためにできることはそれしかなかったから。それから私にできることを一つひとつ紙に書き込みました。私を売り込むための企画書です(笑)。それを持ってスポンサー探しを始めました」。彼女は39歳。40歳目前になっていた。この後も彼女の人生は紆余曲折を続けていくことになる。ある店を立ち上げるが、業績が上向くと、スポンサーだった会社に店を取り上げられてしまう。残ったのは、請求書の山と4人のスタッフだけ。だが、この時、残ってくれたスタッフたちのおかげもあり、D.F.C.の記念すべき1号店<くし家「新橋一号店」>がオープンする運びとなる。4ヵ月も給料を待ってくれた仲間たちだ。その日は、そんな仲間たちにとっても、大切な記念日になっている。その後も阪田は、懸命に働き、「くし家」の経営はもちろんのこと、冒頭に表記した通り、マルチな活躍を行うようになっていくのだが、「飲食の戦士」では、この40歳を目前にしたところでいったん幕を閉じたい。すでに十分に彼女の生き様を見てきた気がするからだ。そこには、一人の女性として、また、時代を先駆けたキャリアウーマンの姿も鮮明に見て取れる。そしてもう一つ、母としての決断も、生き様もご紹介できたように思う。その母の姿にこそ、私たちは尽きない拍手を送りたくなる。これからの時代、性別を超えて、大事な生き方のお手本にもなるからだ。インタビューの途中、彼女は娘が生まれた頃の話をしてくれた。「仕事でなら、私のいうことは誰もが聞いてくれた。動かせない部下もなかった。けれど、あかちゃんは日本語を話しませんから。私にとって唯一、どうしようもできなかったのが、わが子だったんです」。いつの日か、バリバリのキャリアウーマンを唯一悩ませた娘が、母の偉大さを実感し、彼女に尽きない感謝の気持ちを伝える日を楽しみにして終わりにしよう。ちなみに、娘の彼女はいま小学6年生。かわいくもあり、生意気な最中だ。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
20歳 お祭りにて 大学3年生 企業した頃 33歳 レストランマネージャー
思い出のアルバム4 思い出のアルバム5 思い出のアルバム6
36歳 出産し、退職。大阪で居酒屋を始めた頃 娘の入学式 神田店OPEN

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