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第1087回 オフィス しょくの達人/おせっかい食堂 阪田浩子氏

update 25/02/18
しょくの達人/おせっかい食堂
阪田浩子氏
オフィス しょくの達人/おせっかい食堂 阪田浩子氏
生年月日 1963年2月23日
プロフィール 1963年、東京に生まれる。20代、ホテルのコンパニオンの仕事を通し、接客業に惹かれていく。ホテルのレストランマネージャーを皮切りに、飲食店でスーパーバイザー、店舗開発、商品開発など様々な職務・業務を経験。のちに起業し、敏腕のオーナーとして注目を浴びる。しかし、2011年、8店舗経営していた店をたたみ、フードビジネスプロデューサーとして独り立ちする。その後、様々な飲食店のオープンにかかわり、自身も、2019年6月、葉山に「おせっかい食堂」をオープンする。
主な業態 「おせっかい食堂KAINA〜海菜」
企業HP https://osekkai-shokudo.com/

新橋のガード下と、葉山に生まれた「おせっかい食堂」と。

10数年前に、一度この「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。
「たしか東武デパートに新店をオープンした時ですね」。
<あの頃は、メディアに何度も取り上げられていましたね?>
「そうですね。ワイドショーの密着取材をうけて、特集を組んでいただいたりして。私の絶頂期の一つ。じつは、早稲田大学でも講演させていただいているんです」。
当時、バリバリの経営者といったイメージでインタビューに臨んだが、テンポのいいお話と、素敵な笑い声を聴くうちにイメージが反転した。あれから十数年。あの時よりも深みがまし、笑顔が素敵になられた阪田さんに改めて、お話を聞くことができた。
現在、阪田さんは葉山の森戸海岸近くに「カラダが喜ぶごはん。ココロに優しい食堂」をコンセプトにした「おせっかい食堂〜KAINA 海菜〜」を運営。前回とはちがう切り口で、マスコミにも再登場されている。
メインメニューは「究極の鯵フライ」「海鮮丼」「地魚お刺身」といった定番中の定番。定番だが、葉山の新鮮な食材とこだわって選んだ調味料をもちいた、特別な定食である。
定食には手作り惣菜の2つの小鉢と、阪田さんがイチオシの「龍の瞳®提供の玄米つやみがき」と「具だくさん味噌汁」が付く。
アクセスはJR「逗子駅」、京急「逗子・葉山駅」からバス約10分。「森戸海岸」or「森戸神社」から徒歩1分。都会にはない、風光明媚な抜群のロケーション。
かつての新橋のガード下とは、まるで正反対のロケーションにいま彼女は立っている。
「オープンは2019年6月です。以前の会社をたたみ、今はこちらが拠点です」。
<娘さんがいらっしゃいましたよね?>
「娘ですか? あの時、小学6年生だった娘はもう成人して、先日、ついに彼氏をつれてきました」。
嬉しげな声が響く。

大阪で知った人のねたみと、フードビジネスプロデューサーへの道と。

阪田さんは1963年、東京の深川に生まれている。実家は水道工事業を営んでいた。本人いわく「チャキチャキの江戸っ子」。高校時代はハンドボール部で活躍。大学2年の時、友人と輸入会社を設立。大学そっちのけで始めた仕事だったが、阪田さんはアルバイトで始めたホテルのコンパニオンに魅了されて、その道を進みはじめることになる。
「当時は、政治家や芸能人のパーティー、新商品の発表もみんなホテルでしたから、まるで日本の縮図、時代の動きを見ているようでした」と阪田さん。
この仕事を通して、接客・サービスのスキルを手にした阪田さんは、28歳で、大阪のラグジュアリーなホテルに移り、レストランのマネージャーに就任。
「初めて実家を離れ、初めて人との軋轢を知った」と笑う。
「気に食わなかったんでしょうね。私は、江戸っ子でしょ。みなさんは関西弁。水と油(笑)」。
<想像もしていなかった?>
「ええ、なんなら歓迎されるくらいに思っていましたから(笑)」。
激務と、周りとの軋轢。
「1か月で6キロ痩せた。」と、阪田さんは笑っていたが、じつは、「従業員食堂に足を踏み入れることさえできなかった」らしい。
むろん、それで終わる阪田さんではない。のちにだれよりも信頼が厚いマネージャーになり、1995年、外食企業に転職。マネージャー、スーパーバイザー、また店舗開発、商品開発、人財能力開発など様々な職務・業務を経験する。
現在、阪田さんはメディアで「フードビジネスプロデューサーとして200店以上の店舗に関わってきた」と紹介されているが、その数は、阪田さんの波乱万丈な人生を語っているようにも映る。1995年には、阪神・淡路大震災も体験し、人間の本質を見た阪田さんはさらに企業戦士として、キャリアを積んだ。
「これ以上できない!というくらい、とことん働きました。それこそ1年366日」。 そして2001年「都に錦を飾ろう」と東京へ戻った。

たった7円からの再スタートと、20代の女性からの叱責と。

前職で知り合った男性と結婚し、女の子を授かる。東京に戻り、新生活を始めた阪田さんだったが、莫大な借金を抱えることになる。
「私がプロデューサー的な仕事をしたかったのをご存知だった方が、チェーン店の立て直しを依頼してくださったんです」。
<うまくいかなかったんですか?>
「V字回復とはいかなかったですね。でもね。たった3ヵ月じゃなにもできない」。
<たった3ヵ月ですか?>
「そうなの。わずか3ヵ月。魔法使いじゃないんだから、できっこない(笑)。着任した時には、すでに赤字が重なっていた。それを3ヵ月で契約を打ち切って、『赤字を補填しろ』って」。
額を聞いて驚いた。900万円。
「『君のキャリアを応援したい』って、いっていた人なのに」。
「契約書には、最後に、何かあれば相談しあいましょう。と書いてあった。
だから、信じてたんですけど、甘かったんですね〜。」と、今は笑う。
財布だけじゃない、心までカラッポになる。
「あてにしていた仕事がなくなり、借金だけになって、とても家族3人で生活ができる状態じゃなかった。それが引き金になって、夫は大阪に返して、私は娘と二人で、東京で暮らします」。
娘さん、2歳の時。阪田家は「一文無し」になる。正確にいうと、財布のなかに1円玉が7枚だけあった。
夫と別れ、闘病中だった大好きな父親が、このタイミングで亡くなり、まさに「どん底でした。歩いていても、勝手に涙が落ちてくる」。
でも「子どもを食べさせなきゃいけないから」日雇いのアルバイトを始める。スーパーでのデモンストレーション。「20代の主任に『笑顔が足りない』と注意された」と苦笑する。
有名ホテルのレストランのマネージャーとしてTVの取材を何度も受けたキャリアウーマンに、笑顔が足りないといった20代の女性もすごいが、黙って頷いた彼女もすごい。
「くすんでいた」と彼女はそう表現する。
その頃の話。
「日雇いでは生活ができないから、ちゃんとした仕事に就こうと決意します。それで、とある会社の面接に行ったんです。その時に、衝撃的な一言を言われたんです」。
気になって、<その一言って?>と聞くと、「昔の私をご存知だったんでしょうね。『たしかに、昔の君は、ぴかぴかだったね』って」。
阪田さんは、まっすぐにその社長を見つめ、歯を食いしばった。そして精一杯の返事をしたそうだ。
「いつかぴかぴかになってもう一度、帰ってきます」。
その言葉とともに阪田さんのなかにある、なにかが起動した。もう、遠慮するものは、なにもない。頼るものも、ない。ただ、今のままじゃ自分を許せない。

4歳の娘から言われた一言と、起業と。

「それでね。銀座にある、ふぐ屋さんに面接に伺います」。なんでも、銀座のふぐの店に来る人たちにあやかろうとしたそうだ。
「ついている人についていけ!って言葉があるじゃないですか」と笑う。
戦略家の阪田さんらしい。
「大阪で有名な会社が銀座にオープンした革命的なお店だったんです。その店に飛び込んで雇ってくださいって。ありがたいことに、私のキャリアやスキルを評価いただいて採用していただいたばかりか、1週間で、おかみに抜擢いただいたんです」。
ただ、店での華やかな立ち振舞の裏っかわで途方に暮れることになる。「この仕事について2年経った頃かな。4歳になった娘から衝撃的な一言を言われるんです」。
<どんな一言?>
「『ママは私が好きじゃないの?』って」。
大好きな娘の一言。
娘のことが大好きだから、この一言は、たまらなくショックだった。
「でもね。娘にすれば、自然な一言です。保育園に預けていたんですが、彼女1人、朝から深夜まで、365日、預けられていたんです。どうして、私だけ? 4歳になってわかるようになったんでしょうね。どうして、私だけ、いつも保育園にいるんだろうかって」。
娘さんに、そう言われた彼女は、必死で弁明する。
「そうじゃないの、そうじゃない。あなたと一緒にいたいから、一緒に生きていくために、ママ、頑張って働いていたの」。
「ママが頑張ってくれてるのに、ごめんね。と娘も言ってくれて…一晩中、親子で泣きつづけて…」話しながら、その時を思い出したんだろう、阪田さんは目頭をぬぐった。
ひょっとすれば、もっと上手な付き合い方があったかもしれない。仕事にも、娘さんにも。阪田さんは、あまりにまっすぐだ。だから、この娘さんの一言にもまっすぐ向き合った。
「どうすれば、娘を1人にすることなく、生活を続けていけていけるだろうか。もう、起業しかないって」。
阪田さんは、もう一度、自身の帆を張る。これが、のちにTVでも紹介された「新橋ガード下の串かつ屋がデパレスへ進出するまで」につながる。
一言で片付けてはいけないと思うが、いい言葉が浮かばない。母はつよし。同時に、阪田さん、つよし、である。

串カツ店で大逆転。だが、ふたたび。

阪田さんは、知人に投資してもらって、新橋に4.5坪の立ち飲みをオープンする。メインは串カツ。「大阪時代に親しくなった大将から、串カツを少しだけ教えてもらっていた時があるんです。そして『串カツは儲かるぞ』って。それを思い出して(笑)」。
4.5坪、じつは、離婚した元ご主人を東京に呼び、2人して店に立った。阪田さんいわく、「仕事では頼れるパートナー」なんだそう。
「大阪の串カツって、二度漬け禁止で有名ですよね。ドンとソースの缶がおいてあって。二度漬け禁止で配慮しているんでしょうけど、それでも女性からみたら、ほら、ソースのなかにつばがとんでるかもしれないでしょ。言葉を選ばずにいうとすごくきたない(笑)」。
「だからね、」と阪田さん。
「私は、大阪の串カツ文化を取り入れながら、大阪とはちがうアプローチをします。東京という都市にアップデートした串カツです」。
「簡単にいうとね。ヘルシーな串カツです。ソースもお一人ずつ。キャベツも、シャキッとしたものを席におつきになってから、その人専用でおだしする」。
新橋のガード下。小さな立ち飲み屋に入ると、きれいな女店主が現れる。油ギトギトというイメージもない。おまけにヘルシー。
「当時、串カツも東京では珍しかったし、女性が一人で入れる立ち飲み屋なんてなかったんです。でも、社長の私が女だし、女性が立ち寄る店にしたかった」。
<ニュース性もバリバリありますね>
「そう、それで、マスコミも殺到して。」あれよあれよという間に、業績がアップしていく。「2011年、震災の時に、事業譲渡するんですが、合計8店舗まで出店しました」。
<ここから先が新たにお聞きするお話です>
「そうですね。私は、そのあとフードビジネスプロデューサーとして独立します」。「フードビジネスプロデューサー」という響きは、格好いいが、阪田さんは「事業をぜんぶ、譲渡して、みたび無一文になった」という。
<山と谷の人生ですね?>
「そう、ジェットコースター人生!(笑)でもね。おなじ無一文といっても、このときはきつかったなぁ。もともとリーマン・ショックで体力が弱っているところに、東日本大震災が起こったでしょ。当時、月商はだいたい3000万円くらい。うち人件費が1000万円、食材費が1000万円。光熱費と家賃と引くと、残るのは、返済ギリギリの利益が実情」。
阪田さんいわく、日商100万円が経営を継続するうえで、ギリギリのラインだった。
「でも、夜の新橋から人はいなくなったでしょ。川口店は計画停電でオープンもできない、東武デパートは18時で閉店。余震が続く毎日。いつになったら、日常に戻るかわからない。1ヵ月つづけば2000万円の赤字です」。
<それはきついですね?>
「体力があればちがっていたんでしょうけど。借り入れが少なくなかったから。3月15日には、弁護士と相談して、事業を譲渡することにしました。もと旦那も、スタッフも、行き先を決めて…生き残れる店と、スタッフは救命ボートに載せて、本体を沈めることにしたんです。だから、『タイタニック倒産』って、名付けてます(笑)。そして私はまた娘と2人」。
<ふたたび、無一文?>
「正確には、3度目ね」と、阪田さんは指を3本立てて笑う。起き上がるたびに強くなる。それが阪田さん。果たして今度は。先を急ごう。

無一文からの復活。おせっかいで始める、素敵な人生。

お金はなくなったが、今度は、業界内外から高く評価されたスキルがある。
「おかげで、こ゜縁があって、いくつかの飲食のプロデューサーをさせていただきます」。「フードビジネスプロデューサーとして200店以上」と紹介されているのは、この時も含まれている。
<今回の葉山のお店も、当然、プロデュースされたんですよね?>
「葉山は、私にとって原風景なんです」。
<どういうことですか?>
「20代の頃、コンパニオンの仕事をしていたでしょ。あの頃は、バブル真っ只中です。私も連日、政財界のお偉いさんや芸能人の方々とお話をさせていただいて。毎週のように、逗子マリーナからクルーザーに乗せていただいて、葉山を見ていたんです」。
沖から望む葉山は、最高だろう。
「それで、私も、いつか葉山に別荘を建てよう。お店もオープンして、東京と、ヘリで行き来する。なんてバブリーなことをのたまわっていたんです(笑)」。
<だから、葉山! 一つは実現したってことですね?>
「でも、ヘリはないし、別荘があるわけでもない(笑)」。そう言いながらも、阪田さんは20代の時に思い描いた以上に、今の暮らしを満喫している、そんな気がした。
「からだにいいものを食べて、うちのお店をハブにして、だれかと心と心でつながることができれば、心身ともに幸せになっていただけると思うんです。おせっかいだけど、そういうコミュニティをつくるのが『おせっかい食堂』です」。
<ガード下のお店とはコンセプトがまったくちがいますね?>
「それがね、ガード下の店の名前は「くし家」。その時から、みんなが安心して帰ってこれる場所、居場所になりたいっていう思いがあったんですね」。
「今は、おせっかいを焼くのも難しい時代。だから、あえて、おせっかいを広げていきたいなって思って。2019年に、こちらをオープンしました」。
今回のインタビューから遡って、5年前の話。
じつは、それより以前、そう新橋のガード下の時。
最初にオープンした店は、繁盛しすぎたからだろう。出資した会社にまんまと取り上げられてしまっている。そのとき、手を差し伸べてくれたのは縁のない一人のおばあちゃんだった。
「私の仕事をみていてくれたんでしょうね。新橋のガード下の10坪で、新たにオープンしないかって、お話をくださったんです」。
たまらなくありがたい、「おせっかい」。
人はだれかの「おせっかい」で、救われる。そう、そういう時代が、昭和にはたしかにあった。
「私が今思い描いているのは、日本中が一昔の前のように『おせっかい』でいっぱいになる世界なんです。『おせっかい食堂』が、その幸せのネットワークのプラットフォームになればいいと思っています」。
これ自体、おせっかいと言われれば、究極のおせっかいだが、阪田さんは、ますます「おせっかいを焼く」気でいるにちがいない。
そう言えば「おせっかい」って言葉を、いつしか使わなくなった。「おせっかい」という、言葉の復活も期待したいところだ。

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