第197回 株式会社どん 代表取締役社長 南 慎一郎氏
update 11/01/11
株式会社どん
南 慎一郎氏
株式会社どん 代表取締役社長 南 慎一郎氏
生年月日 1958年 兵庫県宝塚市生まれ
プロフィール 寝ても覚めても野球のことしか頭になかった小学生時代。中学になり、強引に誘われて始めたテニスは中・高・大と続けている。カリーナ2000GTで六甲の峠を駆け抜けたのは大学時代。どちらかといえば大人しい性格だった少年が、活発で元気な青年に育っていく。大学卒業後はファミリーレストランの「サト」を経営するサト レストランシステムズ株式会社に入社。3年後、いったん建築・不動産関連の事業会社に転職したが、39歳になり再び飲食に。それが、「株式会社どん」との出会い。創業社長籾山氏の片腕として敏腕をふるい現在、社長に。「飲食には、敗者はいない」というのが持論だ。
主な業態 「ステーキのどん」「ステーキハウスフォルクス」「しゃぶしゃぶどん亭」「don・イタリアーノ」
企業HP http://www.steak-don.co.jp/

戦後の高度成長期と育つ。

1958年といえば、戦後の傷跡が癒え、ようやく日本が経済成長に目覚め始めた頃。この時代を起点に、日本は奇跡的な復興を果たしていくのだが、当時はまだ、TVはあっても白黒、むろんエアコンなどもなかった。男の子の遊びは、もっぱら野球で、大きな木の枝を拾ってはバット代わりに振り回した。長嶋や王といったヒーローに憧れたのもこの当時の少年たちの共通項だ。今回、ご紹介する「株式会社どん」の代表取締役社長 南 慎一郎も、そんな少年の一人。寝ても、覚めても野球のことばかり考えていたそうだ。南の父は、終戦と共に帰国し、友人5人と輸入関連の事業を興す。経済成長の波に乗り事業は大きくなるが、仕事が忙しく家庭を振り返る余裕はあまりなかったようだ。一人っ子の南は、母といっしょにデパートのレストランで食事をするのが楽しみの一つだった。とはいえ、父にも何度か巨人・阪神戦を観に甲子園に連れてもらった記憶がある。仕事の合間を縫った家族サービスだったに違いない。

私立中学入学。

勉強もできた。経済的にも恵まれていたのだろう。当時、私立の中学に進学する生徒は限られていたが、南は関西の有名私立中学に進学。「野球をやりたかったんです。でも、最初にテニス部の先輩に誘われ、もう逃げられなくなって(笑)」。それがテニスを始めるきっかけ。当時、テニスは女子にも人気のスポーツだったが、この中学のテニス部は硬派な部類に入っていたようだ。それも南には肌にあった。その後、テニスに没頭し、結局、大学まで続けている。だが、大学生になると興味の対象がテニスから、クルマやバイトに移る。特にクルマにはハマり、ガソリンスタンドをバイト先に選んだのもクルマ好きが高じてのことだった。カリーナ2000GTが南の愛車。タイヤも替え、キャブレターもいじり、チューニングも楽しんだ。「暴走族でも、走り屋というほどでもなかったけれど、当時はクルマがほんとに好きでしたね」と南。人と群れることが好きではなかった。「バイトでも、チャラチャラしたのがイヤで黙々と仕事をするタイプでした」。このとき南の仕事ぶりをしっかり観ていた人がいた。

「人に動かされる人間ではなく、人を動かす人間になりたい」

きっかけは、ホテルマンを描いた一冊の本だった。その本に南は引き寄せられる。就職活動の最中だった。「それで、単純にホテルマンになろうと思って」。ホテルを受け、内定までもらうが、その後、調べていくうちに思い描いていたことと現実の違いに気づき始める。「ホテルの場合、下積みがかなり長いんです。いろいろな職種を経験しなければなりませんから。これはちょっと主人公のようになるにはたいへんだな、と。それで、ほかに同じ可能性があるような仕事はないだろうか、と探し始めたんです。4年生最後の年が明け、卒業まであと少しの頃です」。ここで少し説明がいるかもしれない。南が大学を卒業した1980年は、外食産業の黎明期だった。チェーンオペレーションという言葉が使われだしたのもこの頃。「外食産業」という言葉も一般化し、飲食業が一つの産業と認知されつつあった時代でもある。その産業の先頭を走っていたのが、ファミリーレストランである。しかし、就職先としてはまだまだ敬遠されていた。そのため慢性的な人不足に陥っていた。「一人でも多くの学生を採用したい」と人事担当者はシャカリキになっていたはず。南は、関西で有名なファミリーレストラン「サト」の扉を叩くのだが、もちろん即合格の判定が出た。「外食産業がこれから伸びそうだ」と気づき、「人に動かされる人間ではなく、人を動かす人間になりたい」と考えていた南にとっては朗報以外何者でもなかった。

もう一つの現実とのギャップ。

「外食産業がこれから伸びそうだ」。このときの南の判断はまったく間違っていなかった。その後の成長ぶりをみれば明らかである。日本人が豊かになるにしたがって、日本人の旺盛な食欲が、外食産業を数十兆産業に育てていくのだから。とはいえ、日々の業務は多忙を極めた。同期で入社した大卒5人のうち2名が3ヵ月で脱落。高卒25名も半年で半分になった。「人が続かないから、それでまた忙しくなる。残業代はすべて支給されていたのでお金には不自由しませんでしたが、休みもなく、残業だけで月に200時間を超えていましたから、肉体的には相当きつかったというのが正直なところです」。「経営うんぬん、売上うんぬんの時代じゃなかったですね。チェーンオペレーションという言葉はありましたが、それを勉強する暇もありませんでした」。次第に、疑問を持ち始める。思い描いていた将来と現実とのギャップ。「ちょうど3年過ぎた頃でしょうか。店にひょっこり学生時代にアルバイトをしていた頃の社長さんがお見えになったんです。それで、『いつまでこの仕事を続ける気でいるんだ?』って」。ガソリンスタンドだけではなく、建築・不動産の事業も手広く行っていた社長は、学生時代の南の仕事ぶりを高く評価していたのだろう。どうやら、ヘッドハンティングのつもりで店を訪れたようだ。

建築・不動産事業への転職。新たな道が、ふたたび飲食と交差する時。

この転職の時、南は25歳。まったく畑違いの建築・不動産事業に進んだが、柔軟に対応でき、社長の期待通りの人材に育っていく。このときから数えて14年後に、南はふたたび飲食の世界に戻るのだが、この転職先で学んだ知識が財産になる。それだけではない。「サトでは仕事の厳しさを、この会社では結果の大事さを教えてもらいました」と振り返っている。話を14年先に進めよう。すでに南は39歳になっている。「紹介会社を通じて『どん』を紹介してもらいました。ほかにもいくつか紹介をもらい内定もいただいたんですが、当時の籾山社長に惹かれ、『どん』に入社することにしました」。「どん」はまさに伸び盛り。群馬から埼玉に進出。コストパフォーマンスの高いステーキレストランとして人気を博していた。「入社半年で店長になり、その後、本部に行くまでの1年ぐらい務めました。周りからすればなんなんだ、あのおっさんは、という感じだったんじゃないですかね(笑)。何しろいきなり毎月、トップ3に入る成績を収めたんですから」。

個人商店から株式会社への脱皮。そして、社長から託されたこと。

本部に行き、建築課の課長として、新店の建設・開発、用地の仕入れ、店舗のメンテナンスを任され頭角を現す南に、当時の社長籾山氏は、高い評価を与えると共に、権限も委譲する。店舗は40店舗を超え、多店舗化を一気に加速させる時期に入る。「これから先はちゃんとしたオペレーションが必要になる」と判断した南は、仲間を巻き込み、100店舗以上の体制でも運営できる組織づくりを先頭に立って行っていく。さて、その後、「どん」は、「フォルクス」の株を譲り受け、一躍、全国的に。それで、上場も果たした。「どん」の理念とオペレーションを移植することで、芳しくなかった「フォルクス」の業績も上向き、2008年の春には上方修正するまでになった。しかし、BSE問題が襲うなど苦しい状況に追い込まれてしまう。そのとき、社長の籾山氏が取ったのは、大手の資本である「吉野家グループ」への株式譲渡だった。「このときの決断が結局、会社を救うことになります。吉野家グループに入っていなければリーマンショックにどれだけ耐えられたかわかりませんから」。そして、経営は南に託されることになった。新たな改革も行いつつ、「どん」らしさもちゃんと引き継いでいる。「お客様に嘘をつかない」「一定の原価率を保つ」「品質のこだわり」がそれだ。南は長い飲食人生を振り返り、次のように言っている。「ふつうは勝者がいれば、敗者もいる。ただし飲食には敗者はいないんです。お客様も、我々もみんなが幸せになれるんですから」。勝者も、敗者もいない世界。南は、30年前とは異なる巨大な外食産業をこれからどのように次のステージに導いていくのだろう。いずれにせよ、私たちはそこに、飲食事業の未来を見ることができるのではないだろうか。

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