飲食業界をリードする社長の歴史を紹介します。 第1回 株式会社ガッツフードサービス 代表取締役社長 鬼塚純二
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■名監督のスカウトがきっかけでサッカーに転向した中学時代
update 09/09/01
社長写真僕、野球少年だったんです。アメリカ方式のリトルリーグに所属してサードで4番。大庄北中学でも野球をしていたんですがサッカー部の名物監督に再三口説かれて、僕のサッカー人生が始まったんです(笑)。ポジションは守りの要、スイーパー。体も大きかったしね。県大会でずっと優勝して全国大会で3位にもなった強豪校のレギュラーだったから高校進学には北陽、報徳など名だたる学校からお誘いをいただいて。でも、自宅から通える範囲の県立高校に越境入学を決めました。決めたけど、受験資格である成績上位5%に入っていなくて・・・地元の高校へ進学したんです。サッカーを明確に志した時期だったからダメージというか、複雑だったかな。年子の兄がサッカーで報徳に通っていましたからね。でも、めげなかったのは、一緒に越境するはずだったチームメイトも同じ高校へ進学したからだと思います。
■ゆるい部から、ベスト8のチームへ
社長写真いい指導者から多くを学んだ中学とは正反対だった高校のサッカー部。コーチどころか監督がいない。え?ここは同好会?って感じだった(笑)。強いチームと弱いチームの差ってね勝敗だけじゃないんですよ。強いチームは着替えも早い。これ、ホントなの。ぱぱっと着替えて10分後には全員グラウンドに整列してる。それに引き換えうちはダラダラ30分も着替えてる。そのゆるゆる加減が情けなくてね。だけど、負けん気だけは強いから、学校は変えられなくても所属するチームを変えることはできる。ここで終わってたまるか!やってやるって(笑)。僕がキャプテンになった2年のとき、改革を始めました。監督が不在ゆえにちゃらけてると思われたくないから全員スポーツ刈り(笑)。動くときは機敏にグラウンドではきっちり整列、そして挨拶。「中学のときと何が違うんやろう」って考えて、中学時代当たり前にやっていたことをやり始めたら部員もついてきてくれて。目指す方向が見えてからの変化は早かったですよ。指導者がいなくて困ってたら中学時代の知り合いのコーチが週3回も来てくれたり、試合の申し込みに応えてくれる学校も多かった。兄のいる報徳ともやりましたね。強い学校との試合を繰り返すことでレベルは上がるし、負ける悔しさも覚えてチームに力がついて、キャプテンになった年の県大会でベスト8に入るまでになってた。周囲に助けてもらいながらも、ゆるゆる同好会をてきぱきチーム変えることができたことは貴重な経験でした。僕自身は2年連続で兵庫選抜30名に選ばれ全国合宿に参加して技術的にずいぶん伸びました。全国レベルの技術、戦術を学べたし覚えたことをチームに持って帰ったし。2年のときは国体の兵庫選抜30名まで残ったし、3年のときも選ばれたけど膝のケガでね・・・。高校時代は入学から卒業まで壁と楽しいことの繰り返しでした。
■自らの意思で選んだ大学。アルバイトを通じて飲食業に出会う
社長写真幾つもの大学からお誘いをいただき、京都産業大学へセレクション入学しました。ここを選んだ理由は、一般学生と同じように単位取得しないといけない文武両道だったから。西日本地域からの学生が多く、部員は80名位。入学当初は、高校時代のケガのリハビリ後で体力がなく、練習についていけなかった。同級生でレギュラーもいたんで悔しかったけど体力が回復した2年の春には補欠、冬にはレギュラーになってた(笑)。選手の抜擢は監督の好みや実力もあるけど、僕にはヘディングやロングスローイング、フリーキックという人にはない武器があった。体格や技術が同じでも人にはない武器があれば生き残っていける。強い所をいっそう強くすることが、自分をより輝かせるんだって学びました。周囲の人に言われて気づいたけど、この経験があるからか、人の強いところ、弱いところを見抜く力が僕は強いみたいですね。大学3年の春季リーグまではバリバリやっていたんですが、夏くらいからアルバイトとサーフィンに没頭。そしたら一気にレギュラー落ち(笑)。でも、この頃のバイト経験が今の自分の出発点でもあるので、必要なことだったんだと思います。飲食と、休みの日に体が作れてお金ももらえる建設作業員のバイトをかけ持ちしてました。
でも、サッカーがあるので飲食のバイトは2〜3日の短期でラーメン屋、焼肉屋、スナック、クラブ、料理旅館、受験生相手の旅館でのふとんの上げ下ろしと配膳とかあらゆる業態で働きました。高級料亭の職人さんの仕事が見れたり、本当にいろんなものが見れるから面白くて。深夜作業をしたスーパーの店長に気に入られて新店の立ち上げもやりましたし、車に乗りたい一心で肉の配達もしましたよ(笑)。一生懸命働くから「大学辞めてうちに来ないか?」なんてしょっちゅう。だから余計に楽しかった。ほかにも、飲食チェーンの女将さんに、「うちは京都白川通りの掃除をしているから見にいらっしゃい」って言われて、社会への貢献も目の当たりにして飲食業ってこういう世界なんだ、と思いましたね。そうこうしてるうちに進路を・・・という段階にきちゃいましてね。当時はJリーグもなかったから卒業後の選択肢は実業団かサラリーマン。実業団にいる先輩に聞くと、現役中はまともな仕事は任せてもらえない。ケガしたら終わりだし、順調にプレーしても選手生命は長くて35歳くらい。サラリーマンだったら会社の中核を担ってる35歳から人生の建て直しをするのは無謀かなと。だから、卒業したら違うことに没頭しようと決めました。それが分岐点だったと思います。その後は迷うことなく就職先は飲食、流通業。学生時代に「この世界は、人柄と商売観で大成する」と感じてたからと、ちょうどダイエーがアメフトに力を入れ始めた時期でもあって、アメフト部のあるダイエーパシフィックスポーツに入社しました。入社動機、アメフトはかっこええし、もてるし(笑)。アメフトやったおかげか、社員の中から選ばれて創業者の中内功さんと語ったりもした。選ばれた理由ですか?目立ってたからかなぁ(笑)。
体や声が大きいというのもあるけど、兄の存在も含めて小さい頃から目立ってた。
<兄の存在とは?>
兄貴ね。年子やったから、越えたいって思ってたけど超えられないライバルでした。だってね、あっちは超健康優良児で全国2位。生まれたときから違うんですよ(笑)。大きくなったら足は速いし、体を痛めてコーチの薦めでキーパーに転向して2ヶ月で全国ベストイレブン。たった2ヶ月で。僕が学年1番なら兄貴は地域で1番。なんで何もせいへんとあんなできんの?“天性”って言葉の意味を思い知らされる存在。そんな兄がいたら周囲は僕にも期待するけどあっちは天性、こっちは普通。だけどね、普通でも頑張るからレベルが上がるの。だから他より目立ってたんじゃないかな(笑)。京都の大学に進んだ理由の一つには“鬼塚の弟”じゃない場所で勝負したかったからっていうのもあるんですよ。その京都での経験が今につながってるんだから、兄の存在が影の立役者だったのかも知れないですね。(後編へ続く)