株式会社プロントコーポレーション 代表取締役社長 竹村典彦氏 | |
生年月日 | 1958年12月26日 |
プロフィール | 奈良県に生まれる。勉学も長け、スポーツも万能。中学生時代は卓球部に所属し、奈良県ベスト16入りを果たしている。高校は同志社付属の高校へ。同志社大学に進み、サントリーに就職。営業からスタートし、後に業態開発部に異動。花博、筑波博覧会、横浜博覧会など、政治案件を手がけるようになる。その後、いったん独立を志向し、社内ベンチャーとして「株式会社ミュープランニングアンドオペレーターズ」を吉本氏と共に設立。その後時期を同じくして、3つ星のフランチレストランの総支配人に。本格的な料理も研鑽した後、プロントコーポレーション社長に就任する。 |
主な業態 | 「PRONTO」「CAFFE SOLARE」「PRONTO IL BAR」「espressamente illy」「Di PUNTO」 |
企業HP | http://www.pronto.co.jp/ |
東大、京大出身者が大半を占める。父の兄弟たちの話。7人の兄弟のうち、5人がいずれかの大学を卒業しているというのだから驚かされる。叔父の一人は、NHKの教育テレビに出演もしたことがある数学の教授。一方、母方は、祖父の代から雑貨屋を経営するなど、商売の家系。竹村が子どもの頃には、叔母が30人ぐらいお針子さんを雇うほどの洋服店を経営しており、母も、その店を手伝っていた。竹村には7つ年の離れた兄と、5つ上の姉がいる。「父はどちらかといえば寡黙な人でした。父が帰ってくるとTVも観せてもらえないんです」。「一方、母の方は商売をしていますから、いろんなお客様が来られる。お針子さんもたくさんいて賑やかでした」。どちらに似ていますかと質問すると、「母親」という答え。たしかにいまの竹村をみていると、気さくな性格も、商売上手なところも母親譲りのように思える。では、竹村自身は、どんな少年だったのだろう。
「正義の味方だった」というが、どうなのだろう。転校生が来るとまっさきに仲間たちのルールを教え込んだ。生徒会会長だったが、ガキ大将でもあった。学校が終わると叔母の店に直行した。そこで、母や叔母が業者とやり取りし、生地の選定などをしている様子を眺める。それが楽しかった。2階には、お針子さんがいて生地を縫っている。服が、次々、出来上がる。それもまた、少年には楽しそうに思えた。お針子さんのなかには耳や口が不自由な人もいた。だが、ハンディキャップを負った、それらの人たちも笑顔で働いている。竹村の広く平等な人格は、こうした時代に最初のコアを形成していったのではないだろうか。一方、勉学もでき、スポーツも万能だった。中学時代には卓球で奈良県ベスト16入り。高校では少林寺拳法に明け暮れた。そして同志社大学法学部合格。父方の優秀な頭脳もしっかり受け継いでいた。
弁護士になろうと思ったこともあった。その一方で、バイトに明け暮れた。家庭教師に始まり、カセットテープの製造、ガードマン、「王将の餃子」でバイトしたこともある。レストンの出前もやった。そんななかで一番、長く勤めたのがブライダル関連の引越し作業だった。朝早くから新妻宅に行き、紅白の水引をかけ午前中までに新居に届ける。日当に加え、ご祝儀が貰えた。あっという間に100万円が貯まり、その資金を持ってアメリカへ3ヵ月の旅にでた。音楽も映画も大好きだった。幼稚園の頃に観たのは、オードリーヘップバーン主演のマイ・フェア・レディ。映画との付き合いは長い。ここまでなら、どこにでもいそうな大学生といえなくもない。就職活動では、朝日放送や読売テレビ、博報堂などを受験。朝日放送の面接は一番でクリアした。「面接は良かったものの、後日、筆記のテストがあるんです。マスコミ対策の勉強なんてしていなかったから自信がない。そんなとき、友人からサントリーの話を聞いたんです。そうか、メーカーでも宣伝部という手があったか、と」。小さな頃、生地をみて遊んだ青年は、クリエイティブな仕事に惹かれるようになっていたのだろう。結局、サントリーの内定式とマスコミの試験が重なり、サントリーを選択することになる。目標は、サントリー宣伝部。
「君は口から生まれたような男だ」、ほめ言葉かどうかも怪しい。ともかく宣伝部を希望していた竹村だったが、「口から生まれた」という評価を得て「営業はどうか」と打診された。なるほど、それも修行と快諾する。だが、条件も付けた。「東京配属にしてくれ。じゃなきゃ辞める」と。1ヵ月後、希望が通り、東京エリア配属の辞令が下りる。花の東京、憧れの東京。心が弾む。「とにかく初台に寮があるから、そこに行けという指示でした。新宿に出て京王新線を探して、なんとか甲州街道沿いの寮に着きました。寮の部屋からは、新宿の高層ビル群が見えました。摩天楼だなんて、最初からテンションが上がりまくりです」。ところが、翌日、連れて行ってくれるという先輩が、なかなか帰宅しない。ノックをしても応答なし。「で、結局帰ってこられたのが、午前1時過ぎでした。酒臭い息で、『あぁ、君かぁ』と。なんだか、ちょっと違うぞって思い始めました」。とはいえ、花の東京。翌日、その先輩とともに、電車に乗る。御茶ノ水駅を通過。「あ、御茶ノ水博士!」。両国駅、通過。「あ、国技館だ!」。錦糸町駅、通過。「あ、あれ」。亀戸駅、到着。「…」。「なんとなくビルの丈が低くなっていくような気はしていたんです。徐々にイメージしていた東京から離れていくような。もちろん亀戸なんて街、知りません。東京っていえば、摩天楼みたいなビル群ばかりだと思っていましたから。着いたのは、5階建てのビルです。先輩にここですか?って。もう、泣きたくなって」。花の東京勤務は、亀戸という下町からのスタートだった。エリアは江東区、葛飾区、墨田区。「どこも、下町でしょ。夜は、夜で、いろんな人がいる。オレ、こんなところで酒、売るのかって。腹が減って、立ち食いそば屋に入ると汁は真っ黒。なんで、こんなところに来てしもたんやろか。涙が出てきました」。ただ、これがバネになる。「いつまでも、下町ばっかりにいてられへん」。
酒を売るにはどうしたらいいか、竹村は、地を這いつつ方法を模索する。当時のサントリーといえばオールド全盛期。洋酒は黙っても売れたが、ビールはダメ。特に、竹村が担当するエリアでは、ライバル企業のビールばかりが売れていた。その牙城をどう崩すのか。知恵を絞り切る。自動販売機に目をつけたのは、そんなとき。「自販機を置けば補充のために商品も買わなきゃいけない。よし、これだと、酒屋の会合で目星を付けた発言権の強い人の店に売りに行くんです。もちろん、すぐにOKなんて返事はもらえない。朝がけ、夜がけの連続攻撃です。で、ようやく、OKがもらえて設置ができた。勝負はここからです。ラジカセを担いで、インタビューするんです。設置してどうでしたかって。悪くは言わないですよね、普通は。で、そのテープを持って周囲の酒屋さんを回るんです。すると、発言権のある、みんなに慕われている人のいうことですから、それならうちも、と」。怖い思いもした。「日本刀を抜かれたり」。辛い思いもした。「そんなにビールが好きならと、次々、飲まされたり」。バーにジンを売りに行ったときのこと。「いまからドライマティーニをつくってやる、どれがおまえところのジンかあててみろって」。飲んでるうちに、ぶっ倒れた。だが一方で、人情にも触れた。下町特有のあったかさ。竹村をぶっ倒したバーテンダーは、それから何度も注文をくれた。だが、そういうあたたかさを感じ始めた頃、異動が待っていた。仕事の合間に書いたレポートが評価されたからだ。今度は正真正銘、花の東京。銀座、赤坂、六本木を担当する。若い女の子たちの生活習慣などをリサーチ。評価され、有名なディスコのメニューづくりも任された。人脈も一気に広がった。奈良の青年が、六本木をねぐらにするようになる。バドワイザーのイベントもした。トライアングル・バーの設計もした。営業に、マーケティングの経験が加味されていく。宣伝部には所属していなかったが、まるで「一人、宣伝部」。ある意味、営業、竹村の絶頂期。日経ベンチャー「日本のトップセールスマン500人(酒部門)」に選出されたのもこの頃だ。
亀戸からスタートした営業人生が一つなら、六本木を経て、異動となった業態開発部は、新たな人生を竹村に与えた気がする。業態開発部に異動した竹村は、政治マターともいえる、大阪で開催された国際花と緑の博覧会や筑波博覧会、横浜博覧会などを手がけていくことになる。ちなみに、当時、この業態開発部のなかに「PRONTO」や「ジガーバー」などの開発部隊があった。(すでに、この部、出身の2人の経営者を取材している。井筒まい泉株式会社 代表取締役社長 岡本 猛氏と、株式会社ミュープランニングアンドオペレーターズ 代表取締役社長 吉本隆彦氏である。ぜひ、参照いただきたい)。さて、同僚や先輩たちにも刺激を受けた竹村は、いつしか独立しようと思うようになる。その後のテーマとなる「0.5歩先」、このときは、その「0.5歩先を行くようなプランニング会社」を設立しようと思いつくのだ。結局、社内ベンチャーとしてスタート。佐治敬三氏にプレゼン。「出資するからやってみろ」とOKがでた。この時、設立したのが「株式会社ミュープランニングアンドオペレーターズ」。吉本氏と共に立ち上げた。竹村、28歳の頃である。
社内ベンチャーとして起業し、新たな仕事をスタートしようとしている竹村を、ある人物が引き戻した。現サントリーホールディングス代表取締役社長、佐治信忠氏である。「業績の良くないフランチレストランがありましてね。その総支配人になれって。でも、こっちは立ち上げた会社がある。そんなの知りませんよっていうと、よし、わかったって、人事部長を呼びつけるんです。それで目の前で人事異動が決まりました(笑)」。このフランチレストランの総支配人時代、竹村は、いままでとは異なるさまざまな経験をする。料理も、むろん勉強した。高級店のサービスも経験した。それらがいまの財産になっている。そんな竹村に次の指令が飛んできたのは、8年前。「株式会社プロントコーポレーションを経営しろ」だった。すでに述べた通りメイン業態の「PRONTO」は、昼はカフェ、夜はバーに変身する「二毛作」。経営のかじ取りはたいへんだ。だが、竹村は、そのたいへんさを楽しんでいるようにもみえる。「いま、OLなどの若い女の子にターゲットを変えているんです。パスタも充実させている。あまりご存じないと思いますが、冷凍めん市場で第二位なんです。45万食を売っています。お酒はもちろんコーヒー豆にもこだわっています。ブラジルで作った豆です。新業態も開発しています。『E PRONTO』もその一つ。駅前周辺から離れても、成立する郊外型のPRONTOです」。口調も、滑らかだ。
さて、ここまで竹村の半生を追ってきた。秀才だった少年が、人との触れ合いのなかで、逞しいチカラを手に入れてきたことは、理解いただけただろう。そんな竹村がたどり着いたといえるのが「0.5歩先」というテーマである。1歩だと、たぶん早すぎる。だから、0.5歩先。この微妙な距離感に竹村の経験の深さとセンスの良さを感じてならない。だが、その先にあるものはなんだろう。今後の発展のカギになるものなのだろうか。次の食文化なのだろうか。いずれにしても、その先にあるものを感じ取り、0.5歩先を進むのは、竹村にとって、何よりたのしいことなのは事実なのだろう。ついでにいえば、このわずかな差が大きな違いを生むことも付け加えておこう。プロントコーポレーションの今後についても聞いてみた。「中国などのアジアへ進出したいですね。サービスというのを輸出していきたいと思います」。個人的には、どうですかと水を向けてみた。「そうですね、私、自身は大学の教授とかになって、食文化を語っていたいです」という答え。人間、年を取ると、娘は母に、息子は父に似てくるという。母親似だった竹村が、いつのまにか父親似になってきたとしても、不思議ではない。
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