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第260回〜前編〜 株式会社オーシャンシステム 代表取締役社長 樋口 勤氏
update 12/01/10
株式会社オーシャンシステム
樋口 勤氏
株式会社オーシャンシステム 代表取締役社長 樋口 勤氏
生年月日 1950年6月25日
プロフィール 新潟県三条市神明町に樋口家の三男として生まれる。幼少の頃から絵を描くのが好きで、高校卒業後、デザイナーになるべく東京の服飾学院に進む決心をするが、母のたっての願いを聞き入れ、2人の兄たちと共に家業を継ぐことになる。その後、兄たちが新事業を立ち上げ、その事業に専念する一方で、母と2人、既存の弁当事業を育て1979年に初めて新潟市に進出する。その後もコーヒー宅配事業など時流を読んだ新事業を興し、注目を集める。1987年には事業所向け配達弁当のFC本部「株式会社サンキューオールジャパン」を設立。わずか5年間で全国180店舗のネットワークを構築。1日40万食を販売し、日本一を達成。その後も貪欲に新事業を立案し、1998年、兄たちの会社と合併し、株式会社オーシャンシステムを設立する。2008年、ジャスダック市場に上場。2009年、同社代表取締役社長に就任する。
主な業態 「チャレンジャー」「業務スーパー」「フレッシュランチ39」「ぐるめし本舗」「魚沼産こしひかり弁当」「ヨシケイ新潟」「ヨシケイ群馬」「ヨシケイ北海道」「海風亭寺泊日本海」「丸源ラーメン紫竹山店」他
企業HP http://www.ocean-system.com/

戦後の混乱期を抜け出した頃、長兄が「ひぐち食品」を開業する

取材時に一枚の写真を見せてもらった。世辞にもキレイとも、広いともいえない住まい。これが、今回ご登場いただく樋口勤の生家であり、樋口家の出発点でもある。戦後、復員した樋口の父は、金物の行商を始め、その後、食品小売業に転業する。樋口は1950年、昭和25年生まれだから戦後しばらくしてから生を受けたことになる。三人兄弟の三男で、長兄とは8つ、次兄とは3つ年が離れている。
樋口が小学2年生になった頃だろうか。15歳になった長兄は長岡市の精肉店に修行に出る。丁稚奉公である。この兄が3年後に実家に戻り、1961年、三条市で精肉店を開業する。その後、惣菜の販売を開始し、のちに屋号を「ひぐち食品」とする。この店が「株式会社ひぐち食品」の創業店となり、「株式会社オーシャンシステム」のルーツをたどれば、この店に行き着く。
さて、1961年といえば、戦後の復興が第一幕目を終え、いよいよ右肩上がりの高度成長期がスタートする頃だ。「ひぐち食品」も時流に乗り、順調に成長していくかにみえた。
「1963年、いわゆる『38豪雪』が新潟を襲い、苦境に立たされます。1月22日から降り始めた雪は、1週間で7メートル以上にもなり、「ひぐち食品」も雪のなかに埋もれてしまいました。自衛隊が火炎放射器を雪に向かって放射するんですが、穴が開くだけで役立ちません。物流も完全にストップしました。」
豪雪がやんで、ホット一息すると、今度は百貨店と大型のスーパーが三条市に進出。たちまち経営状況が暗転する。よくある『大資本が地方の商店を飲み込む』という図式である、だが、樋口家は、簡単に白旗を挙げなかった。「苦肉の策というんでしょうね。惣菜にご飯を入れた弁当の販売を開始しました。この弁当がたちまち人気になるんです。」いったん業績が回復するが、翌1964年には新潟大地震が発生。軌道に乗りかけた樋口家の事業はふたたび暗礁に乗り上げた。
2つの災害の影響を受けつつも「ひぐち食品」がかろうじて事業をつづけることができたのは、家族のキズナがあったからだろう。「食べるだけには困らなかった。それで十分だった。」と樋口も回顧している。
しかし、追い打ちをかけるように、1965年に父が他界する。東京オリンピックが開催された翌年のことである。

デザイナーになればいい、父の言葉

「ひぐち食品」が樋口家の生計を支え、長兄、次兄が従事する、その一方で、樋口自身は家業ではなくデザイナーを志望していたようである。「小さい頃から絵を描くのが好きで、父からもよくほめられました。『勤は将来、絵とか、デザイナーの仕事をすればいい』と。それで、私もその気になっていたんです。」
ただ、大黒柱を亡くしたことで、樋口家は主導者を失った。樋口も安穏とはしていられない。経営は母と長兄の手に委ねられたが、もしかすれば、この時、空中分解していたかもしれない。その危機を一つの器が救った。
「父が亡くなる直前、父と母は、本格的に弁当事業を始めようと考えていたらしいのです。そのための容器が、父が亡くなったその日に届きました。その容器の到来が、樋口家の礎となる弁当事業の幕開けとなったんです。」
「母は、父がなくなって3ヶ月ぐらいするとようやくショックから立ち直り一家の先頭に立つようになりました。私もまだ中学3年生と小さかったから、息子たちを守らなければと必死だったんでしょうね。その翌年の1966年に母は200万円の借金をして、15坪程度の土地を購入して、工場を建てました。1階は工場、2階を住宅にしました。それまで父に寄り添うように歩んできた母でしたが、とにかく、そういうことがあって、弁当事業を開始しました。その弁当事業がヒットしました。一方、私は高校に通い、やはりデザイナーの道を進もうと思っていました。ところが、高校を卒業し、東京にある服飾学院に進学することが決まっていたのですが、母に強引に引き止められてしまうんです。母は母で、父が残した事業を、家族誰一人かけることなく引き継いでいこうと思っていたんでしょうね。結局、私は母の熱意に負け、『ひぐち食品』に就職することになりました。それが1969年のことでした。」

三度、天災に襲われる

「私が就職した1969年のことです。今度は、豪雨が新潟を襲いました。私たちが暮らしていた三条市の隣町、加茂市の大水害です。豪雨は、濁流となり加茂市を飲み込み、市内を流れる加茂川の堤防が決壊してしまったんです。幸い、三条市も『ひぐち食品』も無事でした。そればかりか、全国から大勢の救援部隊が現地に入ったもんですから、その部隊からの『炊出し』の注文が殺到したんです。『作れるだけ、作ってほしい』、そういう注文です。朝・昼・晩、復旧にあたってくださっていた隊員たちのために、私たちも家族総出で早朝から夜遅くまで必死で弁当を作りつづけました。気がつけば、『ひぐち食品の弁当があって助かった』と救援部隊の方々の口コミにより、『ひぐち食品』の知名度が上がりました。母48歳、長男26歳、次男22歳、そして私が19歳の頃の話です。」
三度も、災害に見舞われながらも、そのたびに樋口家は結束を強めた。そんな気がする。この大水害後も事業を順調に伸ばし、その年の12月には手狭になった工場を閉鎖。代わりに隣町に165坪の土地を購入し、2階建ての工場を新設した。弁当事業の場合、売上高よりも販売食数という尺度があるのだが、当時、すでに1日600食の大台に乗っていた。ところが母はそれでは満足しなかった。「あとでわかることなんですが、母は『ひぐち食品』を地方の店に終わらせたくなかった。ひぐちグループを日本のひぐちグループにする、そんな志を抱いていたようなのです。」

4000食のミッション

「兄たちは二人とも弁当をつくっていました。でも、私は入社して1年、まだ上手くできません。それを見ていた母が『勤、あなたは営業をして、早く1日の販売食数を4000食にしなさい』というのです。」
伏線がある。新工場を開設した母は、事業拡大の好機とみたのだろう。3000万円かけて、「炊飯自動システム」という当時では画期的な機械を導入する。息子たちは驚きました。ただ、購入したものはどうしようもない。あとは、その生産能力に見合っただけの食数を売るだけである。その食数がおよそ4000食。樋口に与えられた目標数字だった。
「もっとも、母も兄たちも、そう簡単に4000食を達成できるとは思ってなかった。ただ、売らないわけにはいかなった。私は営業するにあたって、一つだけ母に条件をつけました。それまでの弁当箱(通称『赤弁』)のデザインが気に入らなかったのです。これでは、どんなにうまく盛り付けても他社との差別化ができない。だから私は『弁当箱を新しくしたい』と言ったんです。母も、兄たちも快諾してくれました。それならと私は人生初の営業を開始しました。半信半疑ですが、始めてみると、簡単に注文が入ったんです。なんと3ヵ月後には目標の4000食を達成しました。母も、兄たちも喜んでくれて、『おまえは営業の天才だ』なんて言うんです。まんざら悪い気がせず、私もひょっとしたらそうかもと思ってしまうほどの奇跡的な出来事でした。」
樋口はそう言って笑うが、この4000食になったことで、はじめて「ひぐち食品」の一員になった気がしたのではないだろうか。いずれにしても、樋口が20歳になって初めて記した第一歩であることはたしかだ。

ライバル店、乱立

樋口が20歳というから、ちょうど1970年のことだ。1970年といえば大阪で万国博覧会が開催された年。この70年代は、近代的な飲食産業の幕開けの時代でもある。ファストフードが登場する一方で、いわゆるチェーンストア理論が提唱され、ファミリーレストランが急伸。全国チェーン店がまたたくまに誕生していった。
ところが三条市では、様子が少し違ったようで、弁当店が花盛りだった。「うちがドンドン成長するものですから、樋口さんを見習え、ってことになり、肉屋さん、魚屋さん、食堂までが、ぜんぶ弁当屋に衣替えしちゃったんです(笑)。」
人口8万人程度の市である。競争はパイの奪い合いになる。4000食、この数字は落とさなかったものの、それ以上の数字も叩き出すことができなかった。
「そういう時代が数年、続きました。そして、長男が、新事業の話を持ってきたんです。それが夕食材料の宅配『ヨシケイ』でした。ヨシケイのFCになろうとしたんですが、最初は次兄が交渉に行って見事、断られました。覚悟が足りないと言うんです。というのも、弁当事業はお昼には仕事が終わります。配送車も昼以降に使わないのはもったいない。だから、夕食時にも利用しようと、そんな風に考えていたんです。その甘い考えをスパッと見抜かれたんです。ところが長兄はそれを聞いて凄い会社だと、今度は自ら出向いて直談判するんです。『わかりました。ヨシケイの事業をするために、設備も組織もゼロから立ち上げます』とヨシケイ本部に宣言してきたのです。ライバル店が乱立するなかで、業績がなかなか伸びないもどかしさもあったんだと思います。ただ、それ以上に長兄はヨシケイの事業に惹かれていたんではないでしょうか。『100年に1度の商売だ』と言っていたほどですから。」
樋口が4000食を達成してから8年後の1978年のことである。前年には、「ひぐち食品」が法人化し、「株式会社ひぐち食品」となっている。

母と末っ子の弁当店

見捨てられた、そんな気持ちはなかったか。兄2人は「ヨシケイ開発株式会社」とフランチャイズ契約を結び、新事業として「株式会社ヨシケイ新潟」を設立。従来の弁当事業は、母と三男の樋口に任せ、2人はヨシケイの看板とシステムを利用した宅配事業に専念するようになる。この事業がまた大ヒットする。「兄たち、特に次兄をライバルだと思うようになるのはこの頃」と、樋口。残された格好になった樋口は兄たちの事業の急激な伸びを部外者的な立場で観ているしかなかった。
ただ、いつまでも指をくわえているわけにはいかない。「負けてたまるか。」翌年の1979年に、樋口は弁当事業をひっさげて新潟市に進出する。人口40万人。三条市の5倍である。すでに弁当事業の製造もでき、仕入れもわかるようになっていた樋口は、自信を持っていた。ところが、いざふたを開けるとまったく売れない。初出荷はたった149食に過ぎなかった。樋口は知恵を絞り始める。
「もともと新潟市は県内の商業都市で、サラリーマンも、OLもレストランや食堂で食事を取る習慣があったんです。うちのお弁当は、冷めています。アツアツにはおよびません。理由がわかれば、簡単です。アツアツご飯にするため保温ジャーを利用することを思いつきます。更に、ご飯に『新潟県産コシヒカリ』を100%使いました。アツアツの弁当を宣伝するため配送車に『冷や飯食いはサヨウナラ』と書いた看板を取り付け走らせて、配送員には若い元気な女の子を採用しました。この戦略がズバリ的中。爆発的なヒットとなり、数ヵ月もすれば新潟の第一工場が手狭になり、第二工場をつくらなければならなくなったほどです。1年後には、6000食の大台を突破しました。」
これにより、弁当事業は家業の枠を超え、本格的な事業として立ち上がったのである。

後編へ続く
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