株式会社オーシャンシステム 代表取締役社長 樋口 勤氏 | |
生年月日 | 1950年6月25日 |
プロフィール | 新潟県三条市神明町に樋口家の三男として生まれる。幼少の頃から絵を描くのが好きで、高校卒業後、デザイナーになるべく東京の服飾学院に進む決心をするが、母のたっての願いを聞き入れ、2人の兄たちと共に家業を継ぐことになる。その後、兄たちが新事業を立ち上げ、その事業に専念する一方で、母と2人、既存の弁当事業を育て1979年に初めて新潟市に進出する。その後もコーヒー宅配事業など時流を読んだ新事業を興し、注目を集める。1987年には事業所向け配達弁当のFC本部「株式会社サンキューオールジャパン」を設立。わずか5年間で全国180店舗のネットワークを構築。1日40万食を販売し、日本一を達成。その後も貪欲に新事業を立案し、1998年、兄たちの会社と合併し、株式会社オーシャンシステムを設立する。2008年、ジャスダック市場に上場。2009年、同社代表取締役社長に就任する。 |
主な業態 | 「チャレンジャー」「業務スーパー」「フレッシュランチ39」「ぐるめし本舗」「魚沼産こしひかり弁当」「ヨシケイ新潟」「ヨシケイ群馬」「ヨシケイ北海道」「海風亭寺泊日本海」「丸源ラーメン紫竹山店」他 |
企業HP | http://www.ocean-system.com/ |
新潟市での弁当事業が軌道に乗ると、離れた三条市で気をもみ始めたのが母である。すでに60歳。にもかかわらず車の免許を取り、両市を往復するようになった。
「免許を取得した母は、毎朝 三条市から新潟市の工場に来て指導してくれるようになりました。ご飯やおかずの無駄をなくすにはどうすればいいか。母の指導は私たちにとって何より貴重なアドバイスになりました。」
母の奮闘をみて、樋口もより一層、精力を傾けた。新発田市、三条市、長岡市に次々と新規の工場がオープンする。気がつけば1日の販売食数が1万5000食になっていたそうだ。兄二人が半ば見放した事業が、育っていく。樋口が経営者として多彩な才能を発揮し始めるのもこの頃からだ。母が通った数十キロの道は、樋口家の未来にまっすぐにつながっていたといえるだろう。
新潟市に社運を賭けて進出してから約3年が経った1982年。樋口は、新規事業に乗り出した。「この頃、お弁当以外の商売に魅力を感じ始めていたんです。考えるのが好きなほうだから、毎日、いろいろなビジネスモデルを考えていました。そんな時、ふと、弁当を食べたあとにはコーヒーを飲むよな、と。そんなアフターコーヒーのイメージが漠然と頭のなかに広がったんです。」
「モデルは富山の薬売り商法です。弁当の販売先にコーヒーメーカーを貸出し1ケース50パック入りのコーヒー豆を置いてもらいます。1パック50円のレギュラーコーヒーと60円のブルーマウンテンの2種類を用意し、飲んだ分だけ請求するというシステムです。」
いまでは一般的になったオフィスコーヒーの先駆けである。樋口は、この事業のために、株式会社エフシージャパン開発という会社を設立する。たちまち全国からフランチャイズ契約の希望者が殺到するまでになった。ところが…。
コーヒー宅配事業は、先進性もあり、加盟店もまたたく間に増えるヒット事業につながった。しかし、そんな時、母が急性白血病だという知らせがあった。しばらくして、母は入院しました。樋口は看護に明け暮れるようになる。暮れが押し迫った1982年12月14日のことだった。「いつものように母に呼び出された時、1枚の便箋を渡されました。その便箋には、ふるえた文字で『わたしは、ひぐちグループを日本のひぐちグループにしたいのです』と書かれていました。」
その2日後に、母は亡くなりました。
母が60歳にして免許を取り、暗闇も、積雪ももろともせず走りつづけた気迫の理由を知った気がした。「日本のひぐちグループ」へ。それは取りも直さず母が心血を注いだ弁当事業でなすべきことだった。樋口は、ふたたび弁当事業に専念するようになる。
しかし、母が亡くなって2年、蒸し暑い夏のことだった。今度は食中毒が発生してしまう。「2号店から食中毒が出たとの一報を受けたのは、仙台にいた時です。休暇を取り、家族で仙台の七夕祭りに出かけていたんです。列車がなく、帰ることができません。ひたすら電話で報告を受けるばかりです。食中毒はいうまでもなく、私たちの事業には致命的です。患者数は日を追うごとに増え200名に達しました。」
日本のひぐちグループどころか、たった1回の食中毒で終わってしまうのか。「食中毒の原因は、黄色ブドウ球菌。外注先にお願いしていたオムレツから検出されました。事件から1ヵ月が経った9月に、1号店と2号店を統合し、おなじ新潟市内の紫竹に工場を移転しました。すべて振り出しからです。」「そうなると、考えるのは母が言っていた『日本一へのチャレンジ』という言葉でした。日本一。どうすれば、日本一になれるんだろう。戦略を考える日々が始まりました。」
それは、母が残した「1枚の便箋」への、樋口なりの答えを探す旅の始まりだった。
「母が他界して5年が経っていました。私はようやく理想とする弁当システムを完成させることができました。ブルーオーシャン戦略(新しい市場の開拓)です。早速、弁当の勉強会で知り合った全国の仲間に構想を打ち明けました。そして1987年10月、事業所向け配達弁当のFC本部『株式会社サンキューオールジャパン』を設立しました。資本金は1000万円。本社は新潟市に置き、全員の推薦で私が社長に就任することに決まりました。」
「ブランド名を『フレッシュランチ39(サンキュー)』と命名し、記念すべき1号店が群馬県前橋市と神奈川県横浜市に同時開業しました。その後も競うように福島県郡山市、長野県上田市、富山県高岡市と次々に加盟店がオープンしました。」
その後も加盟店は増え続け、会社設立5年後には、全国制覇を成すことになる。1日40万食。600食から、4000食へ。そんな旅から始まった樋口の弁当事業は40万食までたどり着いた。名実共に日本一。樋口を慕う人たちが、樋口も知らないところで「フレッシュランチ39」の宣伝をしてくれていたことが、普及に弾みをつけることになる。「実は、国内は奄美大島にも、海外はハワイのホノルル、そしてタイのアユタヤにもフレッシュランチ39の輪は広がりました。皆があちこちで宣伝してくれたおかげなんです。」1992年のことである。
名実共に、日本一となった樋口は、1996年8月に新たな仕掛けを行う。「21世紀に向けた新たな宅配システムをつくりました。ピザの宅配同様、30分以内のデリバリーシステムです。商品は、とんかつ、カレー、パスタと冷凍弁当です。このために資本金5000万円の『吟シャリ館総本舗株式会社』を設立しました。」1号店オープンから1年で4店舗オープン。その後も事業を拡大していった。
とはいえ、すでにこの時、樋口は副社長の地位にいた。1998年の4月に、兄たちが興した「株式会社ヨシケイ新潟」を存続会社として、関連会社6社を吸収合併。新会社、「株式会社オーシャンシステム」が設立されていたからである。
長兄が会長に、次兄が社長に、そして三男の樋口は副社長に就任していたのである。それからの10年を樋口は、空白の十年という。「私も含め、兄弟全員が代表権を持っていました。私は副社長でしたが、兄たちの性格はいちばん私が知っています。たとえば社長の次兄と私は、ある意味、水と油。経営の方針も異なります。私がでしゃばりすぎると、結局、社員がどちらの指示を聞けばいいのか迷ってしまうわけです。それで私は、副社長という役割でしたが、一歩も、二歩も身を引いたのです。」
樋口にすれば、もどかしいこともあった。ただ事業を円滑に進めるため、社員を惑わすことがないように口を閉ざさなければならないと誓った。その年月が10年続いた。むろん、まったく無為な日々を過ごしたわけではない。前述の「吟シャリ館総本舗株式会社」をはじめ、2002年には、これからはグルメの時代が来ると読み、「ぐるめし本舗」を出店し、プロの料理人が作る本格和風弁当の製造販売を開始。新たな販売スタイルを導入し、献立ソフトを開発した。これは後に「株式会社オーシャンシステム」のイノベーションに役立つのだが、まだ樋口は、その先頭に立っていなかった。
この「株式会社オーシャンシステム」は、2008年にジャスダックに上場する。年表で追えば、1999年10月「株式会社日本海サービス」を吸収合併、11月「株式会社セイフー」から新潟県内8店舗の営業譲受、2000年4月「株式会社サンキューオールジャパン」を100%子会社化、2001年12月新潟県の業務スーパー1号店「業務スーパー燕三条店」を開店、2002年4月「株式会社エルジョイ」を吸収合併、6月福島県の業務スーパー1号店「業務スーパー笹谷店」、2003年4月北海道に「ランチサービス札幌店」、5月茨城県の業務スーパー1号店と「業務スーパー牛久店」、8月群馬県の業務スーパー1号店「業務スーパー高崎江木店」、12月宮城県の業務スーパー1号店と「業務スーパー古川店」、2004年7月茨城県に「ランチサービスつくば店」、2005年1月東京都に「こしひかり弁当」1号店、8月長野県の業務スーパー1号店「業務スーパー川中島店」、2006年9月新潟市東区に「チャレンジャー赤道店」を開店、10月山形県の業務スーパー1号店「業務スーパー鶴岡店」をそれぞれ開店。その後も業務スーパーを次々開店する。そして2008年3月株式をジャスダックに上場という流れだ。
そして、2009年、樋口は次兄の後を受け、代表取締役社長に就任する。いよいよ表舞台に樋口が舞い戻ってきた。そこから、また新たな旅が始まったことはいうまでもない。
弁当から始まったともいえる樋口家の旅は、いよいよ三男の樋口に託された。すでに事業は多岐に渡り、2011年11月現在、小売事業部、ランチサービス事業部、宅配事業部、フードサービス事業部の4事業部門を持ち、さまざまなブランドを持つに至り、雪国に大輪の華を咲かすことになる。ちなみに、「フレッシュランチ39」や「ぐるめし」は、ランチサービス事業部のコアブランドだ。
社長の樋口にとって、いずれの事業もむろん大事なことにかわりはないはず。しかし、一つの推測を許してもらえれば「お弁当」という商品には、とりわけ深い愛情が注がれているのではないか。樋口は、こう言っている。「お弁当は、私の芸術作品。器の中に、ごはんやおかずで自由に絵が描ける、魔法のキャンパスです」と。
この一言に、父や母に対する樋口の思いも込められている気がしてならない。「絵とか、デザイナーの仕事をすればいい」、父の言葉はまんざら間違ってはいなかった。息子は、父と母が残した弁当事業を見事に日本一に育て、新たな事業をいくつもデザインしたのだから。その事業という魔法のキャンパスも、まだまだにぎやかに彩られていきそうだ。
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