Musubu Dining株式会社 代表取締役社長 岡本勇一氏 | |
生年月日 | 1962年、富山県生まれ |
プロフィール | 国立富山工業高専電子工学科を中退後、株式会社喜多川産業、株式会社ロンスターにて、飲食ビジネスの道を進みはじめる。1993年に株式会社ワタミ入社。居酒屋「つぼ八」の「和民」への業態転換を営業管理課長として推進後、取締役営業部長に就任。1998年、株式会社T.G.I. フライデーズ・ジャパンの設立と共に取締役営業部長に就任し、事業を軌道に乗せる。2005年、代表取締役社長に就任し、卓越した経営手腕で同社を更に発展させていくが、2011年4月末を持って退職。Musubu Dining株式会社の前身である株式会社 JCIに転職。同年8月末に現職の社長に就任。「Musubu(結)」をキーワードに飲食ビジネスの「新たな価値」を追求し始める。 |
主な業態 | 「sbarro」「牛角」 |
企業HP | http://musubu-dining.com/ |
もう30年を超える。今回、ご登場いただくMusubu Dining 株式会社、代表取締役社長 岡本勇一の飲食歴である。もともと両親に迷惑をかけられないという気まじめな青年は、中学を卒業すると同時に独り暮らしを始め、アルバイトで生計を立て始めた。そのアルバイトが飲食の一歩である。一歩目は「お好み焼きチェーン店」だった。子どもの頃からの粘り強い性格だったという岡本は、真面目に仕事に取り組み、60代の社長に可愛がられる。
「いずれは日本を支える人間になりなさい。そのために勉強しなさい」。顔を会わせるたび、社長はそう語りかけてくれた。自らが学んだチェーンストア理論なども惜しげなく語って聞かせてくれたそうだ。その社長の口癖は「飲食バカになるな」だった。
社長の指導を仰ぐ一方で、飲食の楽しみにも覚醒する。「ある年配のお客様がいらっしゃいました。そのお客様は6人のスタッフがいるのに、私のまえにしか座らないんです。その方はいつも、『あなたが作ったお好み焼きを私は食べに来ているのよ』と言ってくださるんです」。
この時のことを岡本は次のように語っている。「自分の仕事で喜んでくれる人がいることに感動し、これこそが仕事の原点だと考えるようになった」と。
「飲食バカになるな」という教えと共に、「飲食の面白さ」に感動した岡本は、中退して勤めたお好み焼き屋を退職し、金沢に出て、友人とともに「パブレストラン」を起業することになる。
この後、2005年の株式会社T.G.I.フライデーズ・ジャパン代表取締役社長に就任するまでは、「飲食の戦士」)に詳しく書かれているので、ここでは簡単に時系列を追っていくことにしよう。
友人が父親のサポートで始めるというパブレストランの共同経営者になった岡本だったが、お店は赤字の連続。アルバイトの給料の支払いにも四苦八苦するなか、ついには友人が夜逃げ。借金を抱えることになる。
生きるための糧を得るため、岡本は株式会社ロンスターに入社する。ロンスターは、当時、話題となっていた「つぼ八」を経営する会社だった。入社1年。22歳で店長になった岡本は、金沢でNo.1の売上を上げる「つぼ八」の店長として頭角を現す。
しかし、バブル経済の崩壊を受け、「つぼ八」全店の経営が悪化。ちょうどその頃、岡本は、株式会社ワタミの渡邉美樹社長(当時)に出会い、渡邊氏から「つぼ八を買い取って和民として再生していく。そのメンバーとして一緒にやらないか? 東京に出ておいでよ」と語りかけられたそうだ。当時、26歳だった岡本は、ロンスターを見限ることができず、恩返しと30歳まで同社に留まる決意をする。そして30歳になった誕生日の翌日、渡邊氏に電話を入れ、上京する旨を告げた。
ところが、渡邊氏の言う、「つぼ八」から「和民」への業態転換は、そう簡単にはいかなかったようである。入社半年で営業部長となった岡本は、陣頭指揮を執り、この難しい「和民」への業態転換をリードする。
居酒屋「和民」がブレイクしたのは同店が50店舗近くになった時。山手線沿線を中心に「和民」ブームが巻き起こった。岡本は最前線に立ち、渡邊氏の信念をスタッフの心に落とし込み、次々具現化していくことになる。1998年には、以前からベンチマークしていた米国のカジュアルレストラン「T.G.I.フライデーズ」の経営に携わるチャンスをつかみ、取締役営業部長に就任。2005年からは、同社代表取締役社長に就任することになる。ちなみに「T.G.I.フライデーズ」を経営する会社は、株式会社T.G.I.フライデーズ・ジャパン。言うまでもなく戦う集団、株式会社ワタミの関連会社である。
もう戦う姿を見せられない。岡本が、退職を決意したのは、2010年12月のことである。「障害を持っていた娘が亡くなったんです。それまで私の原動力だったものがなくなってしまいました」。自ら作り上げた戦う集団のなかにあって、戦う意味を失くしてしまった岡本は、潔く身を引くことを決意するのである。翌年4月、何度も引き留められたが、ついに同社を辞した。
しかし、この決断は、違う戦いの始まりだった気もする。何かが、岡本の背中を押し続けた。「未来の子供たちが安心して暮らせる社会にすること。弱い人が平等に暮らせるような社会にすること。未来の子供たちに自信を持って残せるブランドをつくりたいと思った」と岡本は語る。それを気づかせてくれたのは、いうまでもなく一人の尊い命だった。
「人類のなかで飢餓に苦しんでいる人は、現在9億6300万人にのぼると言われています。もちろん紛争や政治などさまざまな問題があるのは分かっていますが、先進国では食べ物が余っているのに、途上国では食べるものがないという現実もあるわけです。これは、先進国が肉中心の食生活を送っているからなんです。たとえば牛肉100gを作るのに、どれだけの穀物がいると思いますか?」。
答えられないインタビュワーに、岡本は笑いかける。「1kgです。単純な計算ですが、先進国が仮に10%牛肉の消費を抑えれば、10倍の穀物が途上国の人々の口に入ることになるんです」。示唆に富んだ話だった。「食」の観点から人類が抱える一つの問題点が浮き彫りにされた気がする。しかし、単純にそれを訴えても、そう簡単に先進国は手に入れた権利を放棄しないだろう。誤解を恐れずにいえば、資本主義は、弱肉強食のうえに成り立っているといえるからだ。もっといえば、人の欲望はそう簡単にリセットされることはないからだ。
しかし、岡本は、一つの解決策まで示してくれた。それが、100%大豆から作る「MANA BUGER」だ。「食べてみてこれを大豆だと思う人はまずいません」と岡本。もともと自然を愛しHawaiiに移住して暮らしていた料理研究家が開発した加工方法だそうだ。「ヘルシー志向でしょ。そういう意味でも大豆100%の無添加バーガーであるこのMANA BUGERは、それと気づかずに、ヘルシーで美味しい料理を口にすることができるんです」とも。MANA BUGERの流通は地球規模の課題を解決する糸口にもなると、いう。とはいえ、一足飛びにはいかない。
新たに戦う意味を手にした岡本は、ワタミ時代に知り合った、株式会社 JCIの創業者浜口 直太氏のもとに訪れた際、「助けてくれないか」と持ちかけられた。退職の挨拶に行ったことが、逆に次の就職のきっかけを生んだ。
浜口氏は、もともとワタミのコンサルタントを行っており、米国の「T.G.I.フライデーズ」と「ワタミ」を提携させたのも、浜口氏の功績だった。その浜口氏は3年前に、株式会社 JCIを設立し、「"Sbarro"(スバーロ)」の1号店をオープンさせていたが、うまく軌道に乗っていなかった。同時に浜口氏は、岡本が始めようとする新たな戦いに共感し、「応援する」とも言ってくれたそうだ。
心が決まった。2011年5月、顧問として入社するが、すでに撤退のカウントダウンが鳴り響いていることを知ると、飲食の戦士である岡本の魂に火が付いた。改革をやるしかない。自ら先頭に立つことを決意する。社名も換え、同年8月に社長に就任。戦う岡本が、戦場にもどってきた。
ところで、新たな舞台となるMusubu Dining 株式会社にいても触れておこう。「Musubu」はいうまでもなく「結」という意味。ホームページで岡本は、その意味について「人とのあらゆる結びつき」と語っている。同社は現在2012年、前述の「"Sbarro"(スバーロ)」を7店舗、レインズインターナショナルの「牛角」を7店舗展開している。当面は、「"Sbarro"(スバーロ)」のテコ入れが中心になる。「ブランドを広めるために、ダウンタウンやターミナル、地方都市に展開していく」とのこと。「スバーロは特別な日や特別な場で食べてほしい」とも語っている。
同時に、「MANA BUGER」の布石も着々と打っている。
こちらは「5年間で50店舗の出店と、全国の家庭への販売」を目指しているそうだ。17歳からスタートした岡本の飲食人生は、2012年で34年目となる。再び、最前線に立った、今度の戦いはいままで以上に厳しい。一つの会社を蘇生させるだけではない。人類を救う、壮大な目標を持つからだ。理想ではない。理念でもない。やるか、やらないか。できるか、できないか。答えは二つに一つ。しかも、その成否は、遠くにいる途上国の子どもたちの表情が下すことになる。
単なるブランティアではないことは明白だ。岡本と共にこの戦いに参加する人の登場が成否のカギを握ることもまた明らかである。
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