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第339回 株式会社はなまる 代表取締役 成P哲也氏
update 12/12/11
株式会社はなまる
成P哲也氏
株式会社はなまる 代表取締役 成P哲也氏
生年月日 1967年7月25日
プロフィール 富山市に生まれる。兄弟は弟が1人。父は銀行員で、母は市役所に勤めていた。背が伸びるからと小学3年生から剣道をはじめ、高校時代には市で優勝もしている。中京大学に進学すると同時に吉野家でアルバイトを開始。2年後、大学を中退し、吉野家に就職。岐阜、名古屋、大阪と異動するなかで業績を上げたのち、居酒屋ブランドの店舗を任され「フルサービス」を経験する。一方、新ブランドである「カレーうどん千吉」の開発を主導。「千吉」で社長を務めたのち、吉野家での常務取締役を経て2012年9月1日、「はなまる」の代表取締役に就任する。
主な業態 「はなまるうどん」「うまげな」「さぬき麺屋」「つるさく」他
企業HP http://www.hanamaruudon.com/

立山を仰ぎみて。

写真でも、爽快さが伝わってくる。「立山」。北アルプスに位置し、立山連峰をつくる。正確には、雄山、大汝山、富士ノ折立の3つの峰があり、それが立山と言われている。
「親父が、山が好きで年に1回は連れて行かれました。歩くだけですから楽しくはない。なんで、こんなしんどい思いをしないといけないのか。まだ子どもですから、そんな風に思っていました」。
成Pが生まれた富山県富山市は、海にも、山にも囲まれていた。立山ともそう離れていなかった。遠くから望む立山は美しい。ただ、登るとなると話が違うということだろうか。

いつも推されて、組長に。

小学生の時には、何故かリーダーに選出された。誰がいうともなく組長は成Pと決まっていた、勉強ができたわけではなかったし、これといって得意なスポーツもない。とはいえ、小学3年生から剣道をはじめ、こちらは高校時代までつづけているから運動がキライだったわけではなさそうだ。
小・中と取り立てて思い出がない一方で、高校には新鮮な思い出が数多くある。
成Pの子ども時代にはマンモス校と言われる学校がいくつもあった。成Pの中学校でも1学年13クラスはあったそうだ。成Pが高校に進学する時、それらを緩和するため3つの高校が新設された。その1校に成Pも進んでいる。

ブレザーに惹かれ。

「偏差値は高くないのに倍率は高かったんです。新設校ということもあったんでしょうが、制服がブレザーだったんです。学ランじゃなく、ブレザーでしょ。私も惹かれた1人です」。制服が進路の判断材料になる。案外、そんなものかもしれない。
「私たちは1期生でしたから先輩がいないのも大きな魅力でした。私は剣道部に入るんですが、1年の時から最上級生です(笑)」。
ブレザーを着た少年たちは徒党を組んで街を歩いた。「俺たち学ランじゃないから、たぶん社会人にみえるで」。
社会人にみられるはずはないのに、堂々とタバコを口にしたこともあった。女の子にも少しモテた。楽しい時間ほど過ぎるのは早い。成Pの3年間もあっという間だった。ちなみに剣道では、この高校時代に市で優勝を経験している。

中退と就職と…。

「推薦で近畿大学を受験したんですが、断られた(笑)。大阪に行きたかったから残念でした。代わりに通してくれたのが中京大学だったんです」。中京大学は名古屋市内にある。
成Pは富山から1人名古屋に向かい、独り暮らしを始める。
入学後すぐにアルバイトも始めた。それが「吉野家」との出会い。1986年のことである。
吉野家の年表で調べてみると、吉野家は1980年に会社更生手続きを申請。3年後の1983年に更生計画が認可されセゾングループが資本参加し、資本金5億円で再スタートを切っている。
1987年には、早くも更生債権の100億円を完全返済するのだが、とりあえず、このような激動期に、成Pと吉野家は出会ったことになる。
成Pのほうも激動期といえなくもなかった。吉野家でバイト漬けの日々を送る成Pは、ついに大学を辞め「吉野家」に就職する。大学2年のことである。翌年には、1度目の結婚もした。
「私が吉野家に入社したのは1988年です。両国にトレーニングセンターができたばかり。私だけではなく、アルバイト経験が豊富な人間も少なくないんですが、とにかく1ヵ月の間は基礎からやり直す研修です。同期は3人だったんですが、そのなかにはアルバイト時代にグランドチャンピオンになった奴もいました。負けるわけにはいなかい。とにかく毎日が勉強です。大学でもぜんぜん勉強したことがないのに」。

配属が決まった日の出来事。

大学中退だから、中途採用である。当時の吉野家は、いまよりも人材不足に悩んでいたはずだ。「飲食」がまだまだ水商売と思われていたからである。中途、新卒も関係なく採用され、育成されていった。
逆に言えば中途だからといって、差別されることもなかったのではないか。一方、当時の吉野家は、まだ近代化されない。「安い、早い、うまい」。それは誰もが認めるところだったが、女性1人ではなかなか入れない店構えだった気がする。
さて、トレーニングを終え、店舗に配属という時に事故を起こしてしまった。
「寮から店までのわずかな間の出来事でした。ご老人をはねてしまったんです。時速は10キロ前後だったんですが、打ち所が悪ければどうなるかわかりません」。幸い、大怪我も、後遺症も残らなかった。それでも一時は「人生が終わった」と思ったそうだ。
事故の報告をした時に、上司に言われた一言はいまでも頭に焼きついている。「さんざんもう駄目だぁ、とか言ってたんでしょうね。そりゃ、そうです。いよいよ明日から店に出てという時でしょ。そんな時に、接触事故を起こして。もうクビになるかもしれない。そればかりが思い浮かぶんです」。
「そんな私に上司が、『さっきから話を聞いていれば、お前は自分のことばっかりで、相手のことを何一つ考えてないじゃないか』というんです。頭をガツンと殴られた気がしました。幸い、相手の方には後遺症も残らず、最後には『よくやってくれた』と感謝までされるんですが、あの出来事はいまも忘れられません。特に上司の一言は、それ以降、私の信念の一つになりました。相手のことを考えるのは、飲食にとって大事なことだからです」。
「相手のこと、つまりお客様を第一に考える」。上司の言葉は成Pに、反省と同時に、一つの信念を植え付けたことになる。スタートダッシュに躓いたが、言葉を選ばずにいえば、いい勉強にもなった。その日の出来事も、先輩の一言も生涯忘れられないことだろう。ともかく、こうして成Pの吉野家人生は、スタートした。

成P、神話と化す。

「あみだかぶり」とも言った。「バックかぶり」とも言われていたそうだ。吉野家の帽子のかぶり方である。もちろん正式なかぶりかたではない。
「名古屋はスタッフ採用がとかく難しいんです。だから、大目にみていたんでしょうね。茶髪もいる。最初にみたときは、ひっくり返りそうになりました。帽子だって、ちゃんとかぶらない」。これが、あみだ、もしくはバックかぶりとなる。腹立たしかったが、簡単にクビにはできない。配属されたこの店は月に3000万円の売上を叩き出す全国でもベストテンに入る店だったから尚更だ。
しかし、遠慮してモノが言えなくなるタイプではない。むしろ、逆に燃え上がるタイプでもある。「全員がそうなんじゃないんですね。良くないのが何人かいる。可愛そうとは言ってられないですよ。なんとか彼らが辞めるように仕向けました。25人いたアルバイトが10人ちょっとになっちゃったけど、そのほうがスッキリしました。でも、その分の責任は私にのしかかってくる。家に帰ることなんて、まったくできませんでした」。
成Pは、この名古屋時代、ある人たちに神に祭り上げられている。この話も、その逸話の一つだろう。むろん、成Pも最初から神だったわけではない。神が慕う神もいた。その神とは、グランドチャンピオンにも選出された、ある店の店長だった。
「一度、みんなで彼のところに遊びに行ったんです。すると、小難しい本がいっぱい置いてあって、これからはチェーンストアの時代だからお前たちも勉強しろと。仕方なく、渥美 俊一先生の「能力開発の原則」などを読ませていただきました。たしかに難しかったものの、チェーン店とはいかなるものか。店単位ではなく、会社や仕組み全体を通して理解できるようになったのはあの頃からでしょうか」。
ところで吉野家のビジネスモデルは至ってシンプルだ。牛丼という単品を早く、うまく、そして安く提供する、これだけである。あっけないといえなくはない。だが、このモデルは間違っていなかった。
マクドナルドやケンタッキーが店舗数を拡大するなかで、「和のファストフード」の代表格「吉野家」もまた確実に店舗網を広げていった。オペレーションは、「つゆがしみこんだ肉をご飯に乗せる」。いわばそれだけ。カウンター方式の店舗が多く、フルサービスとは言い難い。だが、このシンプルなオペレーションにも、多くのコツがある。お客様の動き一つからも、ご要望を推しはかることができなければならない。
この名古屋の店を離れる際のエピソードを一つ。あれほど怒鳴って躾けたメンバーたちが、最後に真っ赤なバラを送ってくれたそうだ。「最初はみんな辞めてやると思っていた」、という言葉を添えて。
さて、名古屋から大阪に異動。大阪では震災にあった。1995年のことである。大阪で牛丼をつくり、神戸に運んだ。そんな経験もしている。それから3年。今度は、東京に異動。しかも、居酒屋業態を任された。

女の子にすごまれた。

「領収書のお客様が多かった」と成Pは、日本橋時代を振り返る。周辺には金融関係の会社も多かったから接待にも使われていたのだろう。「居酒屋」という看板だったが、「京都の懐石料理を手頃な値段で」がコンセプトのアッパーな顧客を想定した店だった。
板前は全員、女性。しかも、20代前半。料理も良くできた。
「若いんです。でも、ちゃんとした店で修行してきた子らばかりだから料理もたしかなんです。ダイコンのツマってあるでしょ。あれも買ってくるんじゃなく、かつら剥きして作っているんですから、たいしたもんです。とはいえ『最初は凄いね』の一言だったんですが、少しずつ不満も出てくるんです。私はホールのほうをやっていましたから尚更です。やれ料理を出すのが遅いとか、カウンター内が汚いとか。小言ですね。そんなことを言っていたある日、板前の女の子の一人が包丁をこっちに向けて、『てめぇ、うるせぇんだよ』『てめぇのいうことなんか誰も聞きたくないんだよ』って。10歳も下の女の子にすごまれたんです(笑)」。
「彼女の言い分はまだつづきます。『魚、おろせるんかぁ』。かわいそうに、溜まりに溜まっていたんだと思います。でも、その時は私も怒るだけでした。最後に、『かつら剥きできるんか。そもそも剥きかた知ってるんかぁ』と言われ、知りませんと答えた時には、もう腹が立ってしかたなかった」。
やがて「吉野家」の常務となり、「はなまる」の社長ともなる成Pにすごんだその女性も凄いが、10歳も下の女性に言われ、腹を立てただけではなく、カウンターを乗り越えキッチンに飛び込んだ成Pの勇気も凄い。

キッチンへ。

「ギャフンと言わせなあかん、と思っていたんです。だから、俺にも包丁を握らせろと。もちろん、持ちかたも知らないし、包丁を置くだけで怒られました。さしみにゴミがついている気がして水洗いしていると『うまみがなくなる』と怒鳴られる始末です」。
「いままで吉野家で経験してきたオペレーションとはまるで違います。料理の品数だけではありません。初めてホストコンピュータにつながっていないレジを経験しました。もちろんフルテーブルサービスです。全体のオペレーションも初めてなのに、いままでやったことのない料理にチャレンジしたのですから無謀といえば無謀です。でも、私がキッチンに入ると、板前の女の子たちがかわり始めたんです。彼女たちはホールの人間にもおなじフロアに入ってもらいたかった。ただ、それだけなんです」。
次第に成Pを見直す板前たちが増える。そうなると自然とコミュニケーションが取れるようになり、成Pを応援する女子も出てきた。それだけではない。この事件を教訓に、ホールとキッチンの意思疎通を図るため、ホールとキッチンを入れ替えることを思いついた。「キッチンの子がホールにでると、料理のことを良く知っているでしょ。だから説明もうまい。それを今度はホールの子が真似る。とてもいい循環が出来上がるんです」。
成Pは、カレーうどん千吉の開発のため、やがてこの店を去るが、それまで業績が安定していたことは言うまでもない。板前たちを含め、全員がいきいきと働いたことも付け加えておこう。クリスマスの日、普段、化粧をしない板前の女の子たちがうっすらとしてきた化粧がいまも成Pの記憶に残っている。

「千吉」、そして「はなまる」。

居酒屋に行って、およそ3年。成Pは、33歳になっていた。 経営層へ、少しずつ主軸が移っていく年齢でもある。ただ、実際に経営層になるまでには、多くのサバイバル合戦に勝ち残らなければならない。吉野家という大組織になれば尚更なのではないだろうか。
一方、大組織ならではの矛盾もある。こののち、成Pは何度も当時の社長に直談判に及んでいるのだが、それは縦割り組織の問題点を知っていたからだろう。経営層にも直接談判する、成Pは周囲にどう捉えられていたのだろうか。
成Pが、カレー専門店の業態を引き継ぎ、カレーうどん専門店に業態を進化させたのは、2003年のことである。店名は「千吉」。だが、この店は当初から借金を背負っていた。もともとのカレー専門店が、負債を抱えていたからだ。
「新業態と言ってもマイナスからのスタートです。でも、私には勝算があった。ただのカレーうどん店ではなく、私たちだからできる、スピーディで、かつお客様のことを感じ取り、言葉をちゃんと聞き取るサービスができれば負けることはないだろうと」。
しかし、業態を替えただけの店である。スグに結果がでるわけはない。それでもスタッフは全員、安い給料でがんばってくれている。なんとか報いたいと思った。報いる方法は、出店も含め千吉を拡大していくほかない。
「ある会議で、2億円の融資をしてくれと頼みました。もともとの借金があるだろう、と言われても、あれは私がしたわけじゃないし、千吉のせいでもない、と言い切りました。なかなか首を縦に振らなかったのですが、とにかく2億円融資を迫った。それだけの生命保険を掛けるから、返済に問題はない、と。すると、ついに資金も下りたんです」。
「千吉は今年で9歳になる」とわが子のように成Pは語る。奇しくも誕生日はおなじ、7月25日。わざわざオープンの日をその日にした。それ以来、毎年7月25日になると成Pと千吉はいっしょに年を重ねた。
そのわが子のような千吉を部下に託し、いったん吉野家の業績復活にまい進したのち、今度は、「はなまる」の業績拡大のために、代表として同社に送り込まれた。これが2012年9月のことである。

成Pが貰った「はなまる」。

成Pに育てられる「はなまる」はどんなカタチになるのだろうか。お客様の声に耳を傾ける、これが、成P流。その成Pの神髄がどのように「はなまる」に息づくのか、それも楽しみでならない。
ともあれ、それは先の話。
まだまだ就任して2ヵ月しか経っていない(2012年11月現在)のだから。
ただし、成Pの人生には店名同様の「はなまる」が、もうすでについている気がする。
しかも、この「はなまる」は、優等生が貰えるようなヤワな奴ではない。
今度はその「はなまる」を、成Pが誰かにつける番だ。

思い出のアルバム
 
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