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第303回 株式会社千吉 代表取締役社長 渡邉喜広氏
update 12/08/07
株式会社千吉
渡邉喜広氏
株式会社千吉 代表取締役社長 渡邉喜広氏
生年月日 1972年7月7日
プロフィール 福島県郡山市に生まれる。3人兄弟の長男で、妹、弟がいる。高校時代から吉野家でアルバイトを始める。専門学校を中退し、親の反対を押し切り、吉野家に入社。名古屋にて12年、大阪で3年勤務したのち、関連会社の株式会社千吉へ。異動とともにエリアマネージャーから企画部長に。「千吉」の事業を軌道に乗せ、2012年3月、代表取締役社長に就任する。現在、カレーうどん専門店「千吉」を7店舗、カレーうどん専門店「せんきち」を6店舗展開している。
主な業態 「千吉」「せんきち」
企業HP http://www.yoshinoya.com/senkichi/

リーダー気質。

畑や田んぼが広がっている。川に行けば釣りができた。今回、ご登場いただく株式会社千吉の代表取締役社長、渡邉喜広の原風景である。渡邉が生まれたのは1972年。3人兄弟の長男として、妹、弟を従えて育った。親戚も良く集い、にぎやかで楽しい子ども時代。運動神経が良く、人気もあった。その頃から、人を動かすことが得意でメンバーを集めるのは、渡邉の仕事だったようである。その点にも、リーダー気質の一端が伺える。中学2年の時、ウイルス系の病気にかかり、2ヵ月ほどの入院も経験している。もっとも、からだは強いほうだったのだろう。わんぱくなところもあり、骨折の回数も多いそうだ。

バイクが欲しくて。

中学を卒業して、地元の県立高校へ進んだ。16歳になるとバイクの免許が取れる。1年の夏休み、バイクが欲しくて、当時、いちばん時給が高いという理由で、ある店のバイトを始めた。それが渡邉と吉野家の出会い。偶然でしかないが、偶然の出会いが人の一生を左右することも少なくない。「ちょうど新店オープンだったんです。アルバイトは学生が3人ぐらい。最初は週に1回だったのが、そのうちレギュラーで入るようになって。2年生の頃には、17時〜22時の時間帯の責任者になっていました」。高校生には22時以降の深夜バイトが禁じられている。だから、学校が終わってから、高校生が許されている時間の最終まで働いた。もちろんバイクを買っても、辞めなかった。「責任者になれば手当も付きましたし」と言って笑う。

独り暮らし開始。吉野家、継続。

「独り暮らしがしたくて、仙台のバイオ科学の専門学校に進みました。その時、郡山の時の店長が、向こうでもバイトしたらどうだと。いままで通り手当も付くよ、と言うんです。慣れた仕事でしたし、ハイと返事をして仙台でも吉野家でバイトをすることになるんです」。バイトは楽しかったが、バイトに過ぎないという思いもあったのではないだろうか。バイクの大型免許取り、60万円もするバイクも買った。しかし、バイクで2度骨折。新品で買ったバイクは半年でおしゃかになった。専門学校のほうも、おざなりだった。1年半で、中退する。

大反対を押し切って。

「なんかとんでもない奴になるんじゃないかと両親は気をもんでいたようです。学校を辞めて、吉野家に入社するわけでしょ。もう大反対です(笑)」。やすきに流れたわけではない。アルバイトと正社員の違いも理解していたはずだ。ただ、いずれ実家に戻ろうと思っていたのも事実である。まさか、吉野家一本の人生が始まるとは本人も思っていなかったことだろう。「最初の2ヵ月は研修です。研修が終わって名古屋の店舗に配属されるんです」。名古屋は外食産業にとって、アルバイトの採用からして難しいエリアである。親の大反対を押し切ってまで入社したにもかかわらず、いきなり人手不足の名古屋に配属されてしまった。渡邉が20歳といえば1992年。バブルが弾ける年だ。

1日1000人のお客様に鍛えられて。

いったい何回転していたんだろう。席数がそれほど多くないにもかかわらず、1日1000人の客をさばいている。「安い、早い、うまい」、3拍子は名古屋エリアでもお客様を惹きつけた。「何年かすれば実家に帰ろうと思っていましたが、そういうこと考える暇もなかったというのが正直なところです」。店長として配属されると、従業員はたいてい3名程度。それでも月商は1000万円。裁量があるはずの店長といってもやることはおなじ。寝る暇もなかった。24時間営業の店が多いから尚更だ。「従業員3人でしょ。だから、ヘルプに来てもらったりして、なんとかしのいで。そうですね、3ヵ月ぐらいでようやく人もそろって一息入れられるようになるんです。すると次はこの店ね、とまたまた次のミッションが下りてくるんです(笑)」。業績を立て直すというより、運営体制を立て直す。アルバイトの採用もままならない東海エリアだけに、相当の苦労があったはずだ。だが、その1日1日、1人1人のお客様が、渡邉を鍛え上げる。1人わずかな時間でも、接客にかわりはない。むしろ、数秒を大事にすることは、接客の基本である。瞬時にものごとを判断する、そういう経営者のチカラもみがかれたのではないだろうか。結局、名古屋で12年間。7〜8店舗の店長を経験。最終的には50店舗ほどのスケジュール調整を任されるまでになっていた。

吉野家のメニューから牛丼が消える。

名古屋で12年、その後、大阪に転勤し、3年間。大阪ではエリアマネージャーとして敏腕をふるい、営業企画も担当する。自らプランニングした政策で、近畿圏の吉野家が動く。そういうダイナミックな仕事も経験した。その中でもいちばんたいへんだった時は?とたずねると、「BSE問題によって吉野家のメニューから牛丼が消えた時」という返事が返ってきた。BSE問題がクローズアップされたのは2000年初頭。米国産の牛肉の輸入が禁じられ、しばらくは在庫でしのいだが、2004年2月、ついに吉野家のメニューから牛丼が消えた。吉野家ファンにとっても、つらい事態に陥った。「名古屋での終わりのほうです。いままで牛丼がすべての中心でしょ。オペレーションも牛丼中心でしたから、発想からすべて替えなくてはいけない。情報も錯綜しましてね」と渡邉は当時を振り返る。高校生から吉野家一筋だった渡邉の発想も、すべて塗り替えなければならない。だが、いまになって思えば、この時の苦労や経験がいま活かれている気がする。大阪に異動し、業績向上に心血を注いだ渡邉は、吉野家の関連会社である「千吉」に企画部長として異動。大抜擢だったが、カレーうどん専門店という渡邉にとっては未知なる業態へのチャレンジだ。ただし、この時、「牛丼」、それ以外のメニューを扱った経験が活きてきたと思うのである。

カレーうどん専門店「千吉」は、「牛丼」のその次に挑む吉野家グループの一つの答えだ。

もともとカレーうどん専門店という業態は前社長の成瀬哲也氏(現、吉野家常務取締役)が開発されたものらしい。この成瀬氏にパートナーとして選ばれたのが渡邉である。当時36歳。それから3年後の39歳の時、成瀬氏からバトンを受け継ぎ、渡邉は社長に就任する。「冷蔵庫を開ければ食材があった吉野家と違って、季節メニューなどがあり、その度に新しい食材を仕入れ、原価をもとに売値も決めていかなければいけないでしょ。それはそれでたいへん」と渡邉。それでも、吉野家の時代とはまた違った楽しさがあるようだ。店舗数は現在、「千吉」「せんきち」合わせ13店舗。「せんきち」は、若い世代をターゲットにしているため、ワンコインのメニューを中心に置いているそうだ。「『千吉』は、女性のお客様が大半なんです。ボリュームゾーンは30代〜40代。9割が男性客だった吉野家とはこの点でも大きな違いがあります。『せんきち』は、もう少し低廉化で、480円で食べられるようにして若い世代を狙っています」とのこと。社長に就任したからには、渡邉にすべての戦略・戦術がかかっている。出店計画もたずねてみた。「黒字が定着してきましたのでいよいよ出店攻勢をかけていきます。FCも含め、年間2店舗ほどを計画しています」。控えめな数字のように思えたが、この控えめがいい。吉野家のなかでどっしり生きてきた、渡邉ならではの数字だと思うからだ。現在、「牛丼」、その次のシンボルを模索する吉野家グループ。吉野家一筋の渡邊が挑む、新たな挑戦とその姿はダブってみえてきた。

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