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第401回 キリンシティ株式会社 代表取締役社長 大木忠彦氏
update 13/10/15
キリンシティ株式会社
大木忠彦氏
キリンシティ株式会社 代表取締役社長 大木忠彦氏
生年月日 1961年8月4日
プロフィール 東京都生まれ。学習院大学卒。キリンビールに就職。滋賀工場を皮切りに関西の主要な拠点を渡り歩き、営業はもちろん営業企画など重要な職務に付く。現在、キリンシティ株式会社、社長。「日本で1番、お客様と従業員が『笑顔』になれるビアレストラン」を目指し、奮闘中だ。
主な業態 「キリンシティ」
企業HP http://www.kirincity.co.jp/

キリンシティの社長に。

「日本で1番、お客様と従業員が『笑顔』になれるビアレストランに」という素敵な理念を抱えるビアレストランがある。
キリンビールを親会社に持つ「キリンシティ」がそれ。創業は1983年にまで遡ることになる。現在、同社の社長である大木忠彦が生まれたのが1961年のことだから、彼が大学を卒業する年に「キリンシティ」は誕生したことになる。
この「キリンシティ」は当時、ガリバーだったキリンビールが社会に投じた、「ビール文化」の新たな方向性を示す未来図の一つだった。
いまでも「こだわりつづけている」という「ドイツピルスナービールの伝統技『3回注ぎ』による樽生ビールの提供方法」は、このインタビューのなかでも、大木が何度も口にした言葉である。
<日本に本場ドイツのビール文化を。>というミッションを与えられ、生まれた「キリンシティ」。30週年を迎えた今年、新社長となり、この組織をリードする大木忠彦。では、いつも通り大木の、生い立ちから追いかけてみることにしよう。

学習院大学までの話。

「松下幸之助か、大木岩治か、と言われていたそうです」。と大木は、祖父について語り始めた。大木伸銅工業(株)のHPで歴史を調べてみると<大正13年、大木岩治が練馬区北町にて個人経営>とある。大木がいう祖父とは、この大木岩治氏のことであり、大木伸銅工業(株)の創業者のことである。
「父も母も東京出身。私は祖父の会社がある板橋で生まれ、育ちました」。大木が生まれたのは1961年。昭和36年のことである。
3年後に、東京オリンピックが開催されるわけだから、復興の需要がピークだった頃のこと。銅及び黄銅の棒・線・鍛造品などを営業品目とする祖父の会社も、おおいにうるおったにちがいない。そんななかで、大木が生まれる。
大木は、大木家の子ども3人兄弟の末っ子。長男は学習院に進み、次男は青山、3男の大木は長男に習い学習院に行く。もっとも大学ではなく中学の話である。
「成績が良くなかったんで、家庭教師をつけられ、特訓です」。小学生が中学受験のために特訓を受ける。いまでは当たり前といえなくもない光景だが、当時はまだめずらしかったのではないか。ともかく、特訓の成果もあって、無事、学習院に進む。「進むんですが…」と歯切れが悪い。どうも、体質に馴染めなかったそうだ。
いちばんの理由は、金銭感覚が周りと合わなかったから。
「周りにいる生徒は、著名人や旧華族の息子でしょ。ぜんぜん、金銭感覚が違うんです。学校が楽しくなったのは、大学に進学してからでしょうか。大学生ともなれば、親ではなく、ジブンという軸で語るようになりますから、そうなればみんなおんなじ学生。意識することもそれぞれ違って、私自身は、山登りに凝り、アルバイト代のほとんどが山に消えていきました」。

「あるける会」で過ごした4年間。

長男が入っていたこともあって、楽しそうだと、「あるける会」に入部した。ハイキングから夏山・冬山まで様々な登り方ができることに惹かれた。その一方で、もう一つ目標があった。
「実をいうと、中学・高校時代に部活をやり続けたことなどない軟な奴だったんです。だから、山岳部なんてとても入るような人間ではなかったんですが。大学1年の時、1人のすごくかわいい女の子に出会って。軟弱なジブンをかえたいと思ったんです」。
軟なオトコを返上してみせる。それにしては「あるける会」というネイミングが、いま一つフィットしないが、たしかに大木は、この部で、そして山で、男になった。
「何回か、登るうちすっかりハマってしまいました」。空前の風景、ハードな山、一瞬たりとも気を抜けないスリル。すべてが大木を魅了した。いまだかつて、ここまで大木を魅了したものはなかった。
「そうですね。いまはさすがに行く時間がなかなかとれないんですが、また余裕ができれば登りたいですね。それほど魅力的です。4年間は、山のなかであっという間に過ぎていきました」。
いのちが噴き出る春、緑がもえる夏、紅葉の秋、そして厳寒の冬。大木は、冬の山がいちばん好きだそうだ。
好きといえば、部に入るきっかけとなった女性は、いまも大木の隣で笑っている。山男になった大木の誘いを、彼女は笑顔で受け入れたに違いない。

就職先は、ガリバー「キリンビール」。

「同業に行っても、将来ライバルになるだけ」という父のアドバイスを受け、長男とも次男とも違う業種を選択した。それが、ガリバー「キリンビール」だった。
「仕事をするようになって、だんだん父のことも理解できるようになるんです。私の就職が決まったのは、いまの学生ならびっくりすると思いますが、4年の9月です。そして、年が明け、いよいよ私の社会人生活がスタートしました」。
キリンビール一筋、これが大木の人生である。しかし、その間に経験したことは、何社かを転職して、得られるように多彩で内容が濃いように思う。簡単に、キリンビール時代を追いかけてみる。
「最初に配属されたのは、滋賀県にある工場です。ここで、ビールづくりを学習します。もっとも社会人としても勉強することになるんですが、とくに最初の1年は課長と言い合いの日々がつづきました。人事がみかねたのでしょう。2年目には異なる部に異動になりました。ある意味、1年目から社会の洗礼を受けた気もします」。この滋賀工場が、大木にとってはすべてのスタートライン。新たに業務部に配属されてからは、「麦芽」を食べるのが日課になった。「毎日、食べていると、違いが分かるようになるんです」。ビールマイスターの域とまではいわないが、確実にビールの根幹にちかづいていった。
この滋賀工場で3年。そのあとは、大阪府の北摂エリアを任された。それが1987年2月のこと。この年の4月には、ビール業界の勢力図を塗り替えた、あの「アサヒスーパードライ」が登場する。
もともと「アサヒ」は大阪で人気のブランドだった。他府県と比較しても、アサヒのシェアが高かった。それでも大半がキリンビールで占められていた。しかし、大阪府は、アサヒの牙城でもあったこともたしか。スーパードライが発売されると、オセロの駒が次々、入れ替わるように、形成は見事に逆転された。とくに大木が担当する北摂エリアは顕著だった。
「ぜんぜん、だめでしたね。だいたい私が担当していた北摂エリアは富裕層が多く、時代のトレンドに敏感なエリアなんです。北から時計回りに東・南というように、トレンドが流れていくのです。だから、この時もまっさきに影響がでました。私の成績ときたら、もう全体のなかでも尻から2番か3番目という結果です」。
しかし、山男は逆境から逃げなかった。とにかく現場をまわり、さまざまな工夫をして、逃げ出すこともせず、アサヒスーパードライという怪物とも戦いながら、少しずつ成果を残していく。「この時の工夫がいまも生きている」と大木。人間、辛い時のがんばりほど意味があるものはない。
しかし、ガリバーキリンビールは、この1本のビールによって、首位の座をアサヒビールに明け渡すようになる。

キリンビール時代。

滋賀工場から始まったキャリアはまだまだつづく。北摂エリアで約5年、その後、内勤に回り営業企画というブレーン畑をあゆみだす。本社・企画部にも移り、今度は四国に渡った。
それからを追うと、「四国支社で営業企画を経験したのち、愛媛県の松山で営業部長に。それから高知支社で営業部長、中国統括部本部営業企画部長、本社営業部SP室長、マーケティング部商品開発研究所長。そして、横浜支社長を経て、キリンシティということになります」とのことだ。
「高知では、アサヒのシェアを抜き返し、再度、キリンビールをトップにすることもできました」と戦歴を語る。
営業企画というブレーン的な仕事と、営業の最前線の仕事。それが折り重なることで、大木という人間の、幅広い人格まで形成されていったような気がする。
「そうですね。高知時代には1度、辞めようと思ったこともあるんです。でも、その時、上司に言われた通り、現場にもう一度入って這いずり回った。あの時、経験したことは、私にとってほんとに大きな財産となりました。『現場を押さえて、ナンボ』、あの時からこの一言が私の座右の銘です(笑)」。
辛酸を舐めたこともあったろう。頭で想像することと、現場で遭遇する現実との違いに唖然としたこともあったはずだ。しかし、そのすべてが、いまにつながる。
キリンビールにとって特別な場所という横浜支社長を経て、つぎに就いたのが、現職の「キリンシティ」社長の座である。

126年目の挑戦。

さて、「キリンシティ」というキリンビールのビール文化の発信を担う会社は、大木にとってどんな意味を持つのだろう。その点は、次の話から想像できる。
「キリンビールが発売されて今年で126年目になります。126年というのはたいへんな長さで、4〜5世代に亘って、人々の暮らしに息づいてきたということを意味しています。」
「キリンビールは、嬉しいこと、かなしいこと、楽しいこと、さまざまなシーンで、いろんな人に親しまれ、その人の気持ちに寄り添ってきました。これがキリンビールの歴史。この歴史を引きつぎ、私たちが聖なる獣と書き『聖獣』と呼んでいる、あの麒麟のマークにかけて、ビールの文化を残していかなくてはいけないと思っています」。
「ビールを飲んで幸せに」という理念を指導の根底においているのも、たしかに大木らしい。社長に就任してまだそれほど経っていないが、すでに全店舗を行脚したとこのこと。今後についても伺った。
「前任の佐部(この「飲食の戦士たち」にも登場)が行った改革を無駄にすることなく、佐部とみんながいっしょになってつくってきた風土も大事にしながら、次を創造するようにしていきたいと思っています。たとえば今年、キリンシティの社員もキリンの社章を付けられるようにしました。11月には、中野のグループの本社にキリンシティも移る。これも一つのきっかけにして、キリンシティではたらくことをもっと意義と意味があり、プライドを持てるものにしていきたいと思っています」。
むろん人づくりにも、まっすぐ取り組んでいくことを決意している。
「私自身、やっぱりキリンビールに育ててもらったという思いがあります。だから、これからキリンビールを担っていくことになる若い人を育てることで、その恩返しをはたしていきたいのです」。
人々の暮らしに寄り添っていきた奇妙な獣、「聖獣」。その聖獣の物語は、これからも、多くのキリンビールグループではたらく人たち、そしてキリンビールを飲む人たちの手によってつむいでいかれることだろう。
大木の話を聞いて、そんな思いにかられた。
もちろん、その物語の中心にいるのは、キリンシティの面々でもある。

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