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第317回 キリンシティ株式会社 取締役社長 佐部成彦氏
update 12/09/25
キリンシティ株式会社
佐部成彦氏
キリンシティ株式会社 取締役社長 佐部成彦氏
生年月日 1962年4月30日
プロフィール 福井県福井市に生まれる。父母共、教員で、自らも教員を志したこともあるが、大学時代のアルバイトをきっかけに一般企業への就職に興味を持つようになる。そんななかキリンビールと出会い、社会人の一歩を踏み出す。中学から陸上部に入り、高校ではフェンシング部に所属。持ち前の粘りとシャープな頭脳で、キリンビール入社後すぐに頭角を現す。大阪・名古屋での営業経験の他、キリンラガービールのブランドマネージャーなどを経て、2007年、メルシャン株式会社に出向。2011年、現職のキリンシティ株式会社、取締役社長に就任。2012年8月現在、キリンビールのDNAを受けついだビアレストランを全国に38店舗展開している。
主な業態 「キリンシティ」
企業HP http://www.kirincity.co.jp/
福井県は、全国でも有数の「住みやすい県」として知られている。今回、ご登場いただくキリンシティ株式会社、取締役社長佐部成彦は、生まれ故郷の福井県に少しでも恩返しをと「福井ブランド大使」を務めているそうだ。「小さな頃は、福井以外で生活するとは思ってもいなかった」という佐部。「住みやすい県」から脱出し、キリンビールという大企業のなかで戦いつづけた「飲食の戦士」の半生を追いかけてみよう。

福井県。

佐部が生まれたのは1962年だから、福井市内と言っても都会からみればまだまだのどかな田舎町の風景に染まっていたのではないだろうか。両親が共に教員だったこともあって、学校帰りの佐部を迎えてくれるのは、もっぱら祖父母だったそうだ。躾にも厳しい祖父母が教育係を務めてくれたおかげで勉強も良くできる少年に育った。「福井県というのは、生活をするにも良く、仕事もあって、福井だけで完結できる県なんです」と佐部。「大人になっても福井で暮らす」と佐部もあたりまえのように思っていたようだ。その背景には、先天的な疾患が挙げられるかもしれない。1万人に1人という心臓疾患で2歳の時に手術。手術は無事成功したが、小学生の後半になるまで激しい運動は止められていた。けっして大人しいだけの少年ではなかったが、思い切り体を動かせない、そのことが佐部の冒険心をどこかで抑え込んでいた気がするからだ。医師から他の子たちと同じように体を動かしてもいい、とゴーサインが出たのは中学入学時。すでに小学生後半からは、運動場を駆け回るようになり、足の速さは学年でいちばん。医師からもOKサインがでたことで、中学入学と同時に陸上部へ。心臓への負担が大きい短距離走の選手だったことからも病は完治したということなのだろう。ただ、体は元気になったが、それでも思考は福井という枠からはみ出さない。高校は、福井一の進学校に進んだ。

さらば福井。それは大人への第一歩。

「東大を受けたが落ちた」と佐部はさらりと言ってのける。学業が優秀だったことが、この一言からも伺える。東京で1年間浪人生活を送り、福井に近いという理由で今度は京都大学の教育学部に照準を定め、見事、合格。京都市内で独り暮らしを開始した。「その時も、1度ぐらいは福井の外をみたかっただけで、いずれ福井に帰って就職しようと思っていました」とのこと。ところがバイト先のオーナーと出会い、新しい道が拓ける。大学時代は勉学以外に、アルバイトにも精を出した。「京都に芸能人も来る『阿雅佐(アガサ)』という串焼きのお店があります。そこで焼き場を担当するようになるんです。小さな頃から料理が好きだったこともあるんでしょうね。この仕事がたまらなくおもしろくて。大学を卒業する段階で、調理師免許まで取得していたんです」。「おかげで、調理師免許を持っている変わった京大生ということで就職の面接の際のウケは良かった気がします。人生、芸は身を助けるです(笑)」。その『阿雅佐』のオーナーとの出会いが人生の一つ目の節目となった。公務員の父母とはまったく異質。勝負師のような生き様に惹かれていった。そんなオーナーから言われた「男やったら、勝負かけんかい」の一言が、佐部の心の視野を一気に広げた。

キリンビール入社。

余談になるが、佐部は浪人の時には体重が85キロにもなったそうだ。あの時がピークだったと本人は笑うが、「阿雅佐」でアルバイトを開始した時も、体重は80キロ。オーナーが、その体躯をみて、コック帽が似合うと焼き場に任命されたという逸話もある。ただ体が大きいだけではない。高校時代にはフェンシング部に所属。父親が、日本フェンシング協会の専務理事を務めていたことからも想像できるように運動神経には恵まれていたはずだ。片や京大という狭き門を潜り抜ける知恵と、もう一方ではスポーツによって鍛えられた体躯を持つ青年。この青年に、オーナーは何をみたのだろうか。ちなみに、アルバイトながら店では貴重な戦力だった。2号店出店時にはサブチーフまで任されている。シフトも佐部の予定を優先して組み立てられていたという。「阿雅佐に就職する手もあったんですが、オーナーに刺激され、私も独立したいと思うようになっていたんです」。とはいえ、そう簡単に独立開業というわけにはいかない。就職の時期は迫ってくる。時間に尻を叩かれるように、佐部は就職活動を開始する。当時、食品メーカーとしてはトップ企業だった、「キリンビール」に入社。福井に戻ってくると考えていた両親を説得するのはたいへんだったが、その一方で、視野を広げた息子をみて、ご両親はひそかにほほ笑んでおられたのではないだろうか。

騙されたと思って俺について来い。

当時のキリンビールといえばビールメーカーでは、他の追随を許さないトップ企業だった。ところが、佐部がキリンビールに入ってすぐにアサヒビールが「スーパードライ」を発売し、ビール党の支持は一気に逆転。更に、発泡酒や第三のビールなど、新タイプも登場し、業界の順位は混沌とする。「私が、キリンに入社した頃はまだトップに君臨していた時期です。そんな頃でしたが、1年半ぐらいで会社を辞めようと思ってしまうんです。当時の上司にも報告しました」。しかし、異動があり、新しい上司と出会ったことで、退職は先延ばしになる。「私が辞めたいと思っていたことはご存じだったんでしょう。『騙されたと思って俺のもとに来い』と言われました。それまで、道を見失いがちだった私ですが、この上司と出会ったことで進むべき道が決まりました」。「人に借りを作ったらあかん、貸しを作るんや」。そんな上司の一言で営業の本質を理解する。この当時、佐部は神戸ハーバーランドのモザイクプロジェクトにも参加している。仕事の意義が分かると、俄然、集中した。「1ヵ月休みなく」という時もあったそうだ。ビジネスマンの基礎体力が備わっていく。

生みの苦しみ。

「キリンビールで私は常に良い上司に恵まれたと感謝しています。その時々、私を導いてくれた人たちです」。営業時代の上司はすでに述べた。この後、本部に移り、現在、キリンビバレッジの社長を務めている首藤由憲氏と出会い戦術や戦略の重要性を体得する。キリンラガービールのブランドマネージャーを務めたのはこの時期。今度は、中部の支店に異動。マネジメントを修得する。この時期がもっとも暗い。「鼻っ柱を折られた」と佐部は表現する。それまでの佐部といえば、優れた上司と出会い営業時代に頭角を現し、キリンラガービールのブランドマネージャーを務めるなど、花形といえる道を歩んできた。ところが部下をマネジメントする立場になり、初めて挫折を味わう。自身がトッププレイヤーだった人間には、往々にしてあることだが、部下の仕事にもどかしさを感じてしまう。一方、部下にとっては雲の上の存在。気軽に言葉を交わせる相手ではなかった。互いの心が、かい離する。「左遷ではないんですが、当時の上司に小さな部署に異動させられました。20人ぐらいのチームを持っていたのに、新しい部署での部下はわずか8人」。佐部というブランドが色あせる。冷ややかな目もあっただろう。しかし、佐部の真骨頂はここからだ。つくられたイメージを自ら壊し、メンバーたちとの距離を縮める。マネジメントがいかなるものかも、手探りで修得していく。「メンバーに仕事を任すことは、忍耐がいる作業です。でも、それをしてあげないと彼らは考えなくなる。そのことに気づいたんです」。いま佐部は2つのジコウを大事にしている。「自分で考え(自考)、自分で行動する(自行)」という意味である。「とは言っても、いまもついつい口出しをしちゃいます」と笑う。しかし、当然、道を見失った当時とは異なる。手探りで、必死になって、次の道を探していたあの時は、まさに佐部という経営者を生み出す、生みの苦しみの時代だったのである。一つの山を登り切った佐部は、2007年、メルシャンに出向。1年経ち、営業部長に昇進。文字通り、経営者の立場に近づいていく。

事業の舵を取る経営者へ。

「がんばりましたでは、すまされない」。これが、経営者だと佐部。メルシャン出向時に伴に働いた植木宏(現キリンビールマーケティング社長)から、経営者にとって何が大事かを叩き込まれた。つまりはコミットメントの重要性だ。ところで、こう振り返ってみると、佐部本人もいうようにその時その時でキャリアに適したポストを与えられ、そのうえ良い上司に恵まれてきたことが分かる。これはキリンビールという大手企業ならではのことだろう。ポストも豊富にあり、優秀な人材も豊富に揃っているからだ。いつのまにか佐部も部下を導く側に回り、事業の舵を取る立場になっていた。2011年春、キリンシティ株式会社、社長に就任する。スタッフの命運も生活も預かる立場。コミットメントを破ることは、危機に直結する。一方、「厳しい時期」と佐部も認めるようにキリンシティの業績はいまけっして順風満帆ではない。

お客様と従業員が笑顔になれるビアレストラン。

「膿を出しつつ、次を構築していく時期です。昨年は3店舗を閉めました」膿を出す。一言でいえば簡単だが、何が膿なのか、どこにその膿があるのかを理解することから始めなければならない。佐部にとって店舗を閉めることは苦痛以外何物でもないように思える。メーカーとサービス、業種の違いも当然、ある。戸惑いはなかったのだろうか。「私は、外食は素人。そういう風に言っています。でも、それでいいんです。私はキリンシティに外食をやりに来たのではなく、経営をやりに来たんですから」。任せる部分は、任せる。これが大事。任せられたことで自ら考え、自ら行動するようになるからだ。その一方で、これから実現していくこと、つまり道を示すことが重要だという。「お客様と従業員が笑顔になれるビアレストラン」。これがいま佐部が示す方向だ。「ビアレストラン」。ビールの王道を歩んできた、そういう矜持が佐部を動かす。ビールにはまだまだ可能性があると断言するのも、その気持ちの表れに違いない。2012年、流行の兆しをみせた「フローズンビール」は、佐部が言う可能性の一端だろう。「男やったら、勝負かけんかい!」。経営者になったいま、佐部のなかでかつてオーナーが言った言葉はどういう意味を持っているのだろうか。経営者、佐部が賭ける次の勝負に期待したい。それは、キリンビールという会社が育てた一人の男の勝負だとも言える。

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