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第439回 ティーケーエスグループ/株式会社J.fromD.(旧 神里商事) 代表取締役 樺山重勝氏
update 14/07/01
株式会社J.fromD.
片岡 護氏
ティーケーエスグループ/株式会社J.fromD.(旧 神里商事) 代表取締役 樺山重勝氏
生年月日 1968年2月12日
プロフィール 鹿児島県阿久根市出身。県でも有数な進学校に入学したが、大学には行かず、税理士を養成する専門学校に進む。早々と資格を取得した樺山は、専門学校を中退し東京へ。オープニングスタッフの募集を観て、とあるお好み店へ。それが、ティーケーエスグループの総帥、神里 隆氏との出会い。飲食の戦士、樺山の人生はそこからスタートする。
主な業態 「チキ南亭」「まぐろ人」「とり将軍」「きちんと」他
企業HP http://j-from-d.com/

鹿児島県の、海沿いの町で。遠足リーダー、樺山という少年。

樺山は1968年2月12日、鹿児島県阿久根市に生まれる。阿久根市は、熊本の県境近くにある沿岸の町だ。
樺山も少し大きくなると海に潜り、鮑やサザエを獲ったりしていたそう。「獲ったばかりの鮑やサザエに醤油をたらして、凄く旨いですよ」と笑う。
夏休みになると、朝3時に叩き起こされイカ漁に駆り出されたそうだ。「そりゃイヤです。朝3時でしょ。眠いしね。でもうちに帰ったら、獲りたてのイカで造ったイカソーメンを食べられるんです。凄く旨くて、最高のご馳走でした」。
初めて上京した時、「イカを観て消しゴムかって思った」というが、なんとなく想像できる。
「申し訳ない言い方ですが、獲りたての、あのイカを食べ慣れた人間には、東京で出されるイカは食べられた代物じゃない(笑)」。
カサゴもテグスを垂らすだけで、調子が良ければ50〜60尾は釣れたと言っている。都会の人間からすれば、うらやましい限り。自然のなかで暮らすことで、知らないうちに「美食家なる」という話にも頷ける。
樺山は、食べるだけでなく、料理も好きで進んでキッチンに立ったそうだ。
「学校ではリーダーシップを取りたがるようなタイプで、『長』と名が付く仕事に就くことが好きだった。小学校5年生の時には、遠足だと言って町内会の子ども達を遠足に連れていったりしました」。もちろん、その時の樺山の名称は「遠足リーダー」。
反面、悪さもした。ただし、今からみれば可愛らしくもある。なんとも素朴ないたずら。「中学の時ですね。裏山で蛇を獲ってきて教室で放すんです」。
教室の最後部から20匹くらいの蛇を放す。放たれた蛇は、蛇行しながら先生に向かって進んでいくという寸法。もちろん、先生からは「また、お前か!」と怒られたそうである。
頭脳明晰。
高校は現役東大生を輩出する、九州でもトップクラスの進学校に進んでいる。といっても樺山が、その高校を選択したのは、偏差値が高かったからではない。中学から始めた吹奏楽に魅了され、吹奏楽したさに入った学校だった。

吹奏楽に魅せられて。

吹奏楽部が有名な、県でも指折りの進学校だった。入学当時に限って言えば、学年3位の成績だった。「最初だけ」と樺山。最終的には500人中300位くらいまで落ち込んだ。
そもそも、勉強するつもりはなかった。大学受験も最初からあきらめていた。樺山が小学5年生の頃、父と母が離婚。樺山は母に引き取られていた。
「片親ですから、経済的な余裕もない。だから最初から大学進学っていうのは、頭になかったんです。代わりにというわけではありませんが、部活には真剣に取り組みました。吹奏楽って、案外、体力も使うんです。腕立100回、腹筋100回、3キロマラソンを2セットとか(笑)」。
有名な部だったので、周りも真剣な生徒ばかりだった。樺山のパートは、トランペット。3年になって部長となり、慣例通り、指揮者に選ばれた。
3年になると周りは大学受験に追われる。それを横目に樺山は、何をしていたんだろうか。「経済的な理由ばかりでなく、私自身、大学には行くつもりがなかった。大学を出てサラリーマンになるという、そういう既定路線を進みたくなかったんです」。
大学に進むのは、案外、簡単だ。断念すると、代わりに「決断」することが迫られる。18歳の青年にとって、簡単なことではない。

博多へ。そして、東京へ。

樺山は決意通り大学には進学せず、税理士を目指して博多の専門学校に進んだ。飲食店で初めてアルバイトを経験したのは、この学生時代の話。これが、飲食に進むきっかけとなったそうだ。
「『ツンドラ』っていうロシア料理店」と樺山。ピロシキやボルシチなど、はじめて目に、耳にする旨い料理が、毎日、賄で食べられた。
「あの美味しさにすっかり魅了されてしまったんです」と樺山。ちなみに、調べてみると(たぶん樺山がいう店だと思うが)「ツンドラ」は健在で、グルメサイトでも高い評価を獲得していた。
学業の方は、どうだったんだろう。
「まだカリキュラムは残っていたんですが、日商2級、簿記の資格も取っちゃったから、中退しました。博多の中州にあったお好み店で本格的にバイトを始めたのは、このあとです」。
「税理士になる」という目標は、いったんお預け。樺山は、金を貯め、ともかく上京する。親許を離れ、視野が広がったぶん、行動エリアも広くなった。
「京王線沿いに知り合いが結構いたんです。だから、その家を転々として。いろんな仕事をやってみましたが、結局、飲食に落ち着くんです。やっぱり、飲食がいいなぁって」。
たまたま明大前のお好み焼きのオープン募集を観かけた。オープニングスタッフという文字にも惹かれたのだろう。応募し、採用される。
「それが、会長との出会いです」。樺山が会長と呼ぶのは、J.fromD.(旧 神里商事)を含む、ティーケーエスグループの総帥、神里 隆氏のことである。

神里氏の下で。

「親父代わりみたいな人」と、樺山は会長の神里氏をそう位置づける。「でも、最初からそう思ったわけではありません。とにかく怖い人で、毎日、怒られてばかりでした。正直、怒られてばかりだから、仕事も楽しくもなった」という。
「飲食っていいな」。憧れは、いっぺんに吹き飛んだ。とはいえ、逃げ出すこともできない状況となる。
「店長が急に退職してしまいまして(笑)。それで、アルバイトだったにも関わらず私に白羽の矢が立ったんです。社員に登用され、店長を任されてしまったんです」。
この時点ではまだ飲食で生きていこうとは考えてはいなかった。
にもかかわらず、状況は、樺山抜きには語られなくなっていった。
「私が神里と出会ったのは、20歳の時です。当時、神里は専務でした。子どもの頃しか父親という存在を知らなかったもんですから、父親に対するような愛情も、親しみも抱いていたと思います。もっとも最初は、すでにお話しましたように怖い存在。しかし、いつの間にか離れない人となっていました」。
神里にとって、樺山は懐刀のような存在でもあったのだろう。当時、神里商事の子会社としてティーケーエスがあったのだが、業績が逆転し、ティーケーエスが神里商事を買収することになる。その時、神里から社長に任命されたのが、樺山だった。

株式会社 J.fromD.誕生。

「長」と名のつく役割が好きだった樺山が、文字通り会社の「長」となる。だが、神里商事のベテラン従業員にとって、樺山は、いまだ新参者に過ぎなかった。
「とてもやりにくかった。何しろ、私に仕事を教えてくれた上司たちがたくさんいるわけですから。彼らにしても、素直に指示に従うことには抵抗があったと思います」。
神里が何かにつけ、アドバイスをくれた。「助けてもらった」とも言っている。樺山に経営の才能を認め、会社のかじ取りを託した神里。
たしかに2人は、親子のようでもある。
親子鷹のように互いを認め、補いつつ、2人の手によって、会社は店舗網も拡大していった。2014年、現在、樺山が初めて暖簾を潜ってからもう26年が経つ。神里商事は、2013年、社名を「株式会社 J.fromD.」に変更。いまも、ティーケーエスグループの中核を占めている。ちなみに、店舗網は首都圏を中心に広がり、食の本場であるアメリカにも1店舗だが出店している。

地方との人的な交流。樺山が打ち出す次世代の戦略。

ティーケーエスグループの強みはと伺うと、「強みを表に出さないのが強み」という答え。チェーン店ではなく、「個」を磨き、個で立つ戦略である。たしかに、店舗名も統一されていない。ブランド名も異なっているから、一般の消費者からすれば、チェーン店の一つとは思わないだろう。
むろん、みせかけの話ではない。チェーンストア的な発想に立つのではなく、「個で立つ」ことを意識して、はじめて各店舗が自立した、その店なりの強みを確立することができる。それを狙ってのことに違いない。
単なるマルチブランドとも異なる、今の時代にあった発想だとも思う。更に樺山の発想は、我々の先をゆく。樺山流の、地方との交流もその一つだ。
「いまでは飲食店を出口にして一連の流れをつくり、生産者との関わりというか、飲食店が生産にまで踏み込んだような戦略を取られる会社も増えてきました。それ以外にも地方のアンテナショップ的な役割ですね、そういうケースも見受けられるようになりました」。
「ただ、私は、それはちょっと違うんじゃないかなと思っています。地方の産物を売る、それに貢献することは悪いことではありませんが、大事なことは、作り手である生産者と、我々、販売する者が交流し、互いを認め合い、育て合うことだと思うんです」。
実際、樺山は、今後の戦略の一つに地方との人的交流を挙げている。定期的に現地にも足を運んでいる。
「鹿児島に干物工場を設立します」と樺山。場所は、樺山が生まれた阿久根市だ。沖縄にTKS農場も計画中。漁業との協力で漁業体験はすでに開始している。更に、「地方の高校生を採用し、ゆくゆくは地元に戻ってもらう」と、人的な構想の一つを明かす。
そのためだけではないが、待遇の大幅な改善にも取り組んでいくそうだ。
物ではなく、人によって、地方と都会が一つになる。とても素敵な未来図だ。
鹿児島の小さな町で生まれた「長」と名がつく役割が好きな少年。いま目の前にいるのは、そんな少年の思いを持った大人という気がした。
むろん肩書きの話ではない。
「長」として、どんなことに取り組むか、どんな流れをつくりだすか、どれだけの人を幸せにできるか。追いかけているのは、そこ。
樺山をリーダーに、素敵な未来へ出かける。大人の遠足は、もう始まっている。

思い出のアルバム
 
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