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第867回 株式会社REED 代表取締役 樺山重勝氏
update 21/12/21
株式会社REED
樺山重勝氏
株式会社REED 代表取締役 樺山重勝氏
生年月日 1968年2月12日
プロフィール 鹿児島県阿久根市出身。高校卒業後、税理士を目指すが、飲食店でのアルバイト経験がきっかけになり上京。さまざまな仕事を経験した後、ティーケーエスグループの総師・神里隆氏に出会う。同社に就職後、グループ会社の社長に就任するが神里氏の死去に伴い退社。2018年REEDを設立し、東京都府中市で居酒屋を開業。新型コロナウイルスの影響もあったが、農業と飲食業が一体になった「吸引力のある飲食業」という新しい飲食業の経営を目指している。
主な業態 「焼肉食堂ヒフミ」「UOYA」「薩摩の台所しげぞう」「UOYAしげぞう」「くいもん家しげぞう」「きちんと」「麺屋しげぞう」
企業HP https://reed-inc.co.jp/
樺山氏に出会ったのは2014年、かれこれ8年前になる。当時は、ティーケーエスグループ/株式会社J.fromD.(旧神里商事)の社長として精力的に活動されていたが、師と仰ぐグループの総師・神里隆氏の逝去に伴い退社しREEDという会社を設立。現在にいたるまで、そして今後の展望について再度、「飲食の戦士」のお話を伺った。

師と仰ぐ神里隆氏、病に倒れる。

前回お話を伺ったのは、樺山氏が「チキ南亭」「まぐろ人」「とり将軍」「きちんと」などを運営するティーケーエスのグループ会社の代表取締役だった8年前のことだ。今回、REEDの代表取締役としてお話を伺うにあたり、飲食業との関わりを簡潔に辿ってみることにする。
鹿児島県阿久根市出身の樺山が飲食の世界に飛び込んだのは、大学へは進学せず税理士を目指し進んだ専門学校在学中に飲食店でのアルバイトをしたことが飲食の世界に進むきっかけだったとのこと。
「ロシア料理の店でした。学業のほうは在学中に簿記の資格を取得したので中退、博多の中州にあったお好み焼き店でアルバイトを始めました」。税理士になる夢はいったん封印し、お金を貯めて上京。
「知り合いの家を転々としながらいろんな仕事をしましたが、結局は飲食に落ち着くんですね。飲食の世界に魅せられたんでしょうね」。
そして20歳。運命的、決定的な出会いが訪れる。師と仰ぐ神里隆氏との出会いだ。
「京王線明大前でお好み焼き店のオープニングスタッフを募集していましたので、早速、応募、採用されました」。
神里氏は弱冠20歳の新参者・樺山氏を厳しく、徹底的に仕込んだ。「嫌気がさすほどでした」とその厳しさを、今となっては懐かしがる。
神里隆氏は樺山氏の「どこ」に「なに」を見出したのか判らない。樺山氏が採用されたとき、ティーケーエスは神里商事の子会社だったが業績が逆転し、最終的にティーケーエスが神里商事を買収、新しいグループ企業の社長として樺山氏を任命した。
「夢中で働きました。業績も大幅に拡大しました。従業員も増えました。大変だったけれど“やりがい”はありましたね」。
ところが…。
順風満帆だった日々に暗雲が立ち込める。師と仰ぐ神里隆氏が病に倒れたのだ。

師・逝去。グループ全体の売却に伴い退社へ。

「医学に関しては素人ですから詳しくは判りませんでしたが、なんとなくではありますが、その当時の普段の言動から何か不安は感じましたね」。
病は重篤なものであった。病状は楽観を許すものではなかったが、本人も周囲も当然復帰すると思っていた。
「外観上、見た目には判りませんし大丈夫だと思っていましたが、まさかという感じでした」。
結局手術を受けることに。
「3カ月ほど入院していました。手術、その後の養生が功を奏したのか復帰を果たすことができましたし、退院3カ月後にはゴルフに興じるほどまでに回復していたんです」。
回復した安堵感や喜びの一方で「新しい課題」が持ち上がった。会長の身に万が一不測の事態が起こったとき、誰が事業を継ぐかという課題だ。
「回復したとはいえ、以後のことを考える必要性、というか必然性がありました。つまり、この企業体をどうするのかという問題です。会長自身考える必要は感じていたとは思いますが、実際のところは切迫感は薄かったのだと思います。」
「会長の体調は術後の状態から見た目には判らず大丈夫と思っていたのですが、病魔は進んでいたんでしょうね。発症から2年後、亡くなりました」。
会長の逝去に伴い、ティーケーエスのグループ会社の社長を務めていた樺山氏には、96店舗にまで拡大したグループ全体をいかに維持、継続させるかという重大な問題や責任が両肩に重くのしかかった。
「ただ、誰かが跡を継げるものではないとは思っていました。この会社は、会長が一代で築き上げた会社ですし、そもそもご子息がいらっしゃいましたので、息子さんに継いでもらうのがベストだと思っていました。ただそこに至るにはある程度は時間が必要ではないかとも……」
ところが…。
「ご一族で継続の方法を考えていたのだと思います。事業全体を売却する方向で話が進みました」。
この点については多くは語らない。
「社長ではありましたが、基本的には“雇われの身”でしかありません。居場所もなくなったと感じた私は退社することに決めました」。
売却成立の話を聞いたのが2017年8月、退社したのは翌年の3月31日だった。

2018年4月10日、東京都府中市で居酒屋開業。

退職はしたが、故郷・鹿児島へ帰る〜いわばUターン〜という選択肢はなかった。ただ飲食業としてこの先を生きて行こうとは考えていた。因みにREEDの監査役・徳重剛氏は当時のグループ会社の監査役だった方で、REED立ち上げにあたり就任してもらった。この徳重氏だが、サッカーファンなら詳しいと思うが、J3鹿児島ユナイテッドの社長でもある(2021年の成績は第7位。J2への昇格も間近だ)。
さて、独立・起業にあたり、ご家族の賛同は得られたのだろうか。
「二人の子ども(上は高校2年、下は中学3年)も受験を控えていた時期でもあったので、故郷に帰るということはできなかったですね。いずれにせよ賛同は得ました」。覚悟のほどが伺える。
覚悟を決め、満を持して2018年4月、府中市で居酒屋を2店舗、同時開業に漕ぎつけた。
「まず、開業に伴う資金がなかったので、金融機関からの借り入れで準備し、既存の九州の3店舗はティーケーエスから業務受託として借りました」。
スタート当初は大変だったと語る樺山氏だが、「ティーケーエスグループの社長時代とは“大変さ”の意味と言うか、質が違いましたね。オーナーか雇われかによる違いかもしれませんし適切かどうか判りませんが、“心地良い大変さ”とでも言うんでしょうか……」
開業以来順調に歩み、現在は「焼肉食堂ヒフミ」など府中で4店舗、出身地の鹿児島県で「麺屋しげぞう」など2店舗、熊本県で「きちんと」の合計7店舗を経営している。
創業以来、順調に業績を積み重ね、新しいプランに取り組み始めた矢先の2020年、「新型コロナウイルス」による業務への影響に翻弄されることになる。不可抗力だけに、その悔しさは察するに余りある。

生産から調理、提供からスタッフの老後まで。一貫した流れで新たな飲食業のスタイルを。

飲食業に大きなダメージを与えた新型コロナウイルスだが、「マイナス面」ばかりではなく『災い転じて福と為す』とでも言いたくなるような利益的な面と、一方で新規事業の予定、実行が変更になったという損益的な面の二つの側面があった。成果と言っていいのか微妙なところだが、ティーケーエスから借り受けていた九州の3店舗を格安で買い取ったこと。一般的に考えてこの価格は破格であり、「お得」な買い物になった。
ただし、コロナ過に伴い大赤字店舗ではあったが。
その一方で、予定が遅れ仕切り直しになった、ある意味では損益と言えなくもない事業が立ち遅れたことだ。
「農業への進出です。本来は新型コロナウイルス前に着手できる予定でした」と語るが、農業に取り組む背景にはいくつかの理由がある。
「一つは、わたしを含め働いているスタッフにも、やがて第二の人生を考える時期がやってきます。そうした場合の受け皿として、農業を考えました」。
この取り組みは人的な問題への対処法になるのだが、もう一つは壮大な思想、戦略、狙いが潜んでいる。それが新規事業ということになる。
「現在、ご存知のように休耕田など“空いている農地”が全国にたくさんあります。故郷の阿久根市も同様です」。余談ながら、食料自給率39%(エネルギーベース)の我が国だが、空いている農地は全国津々浦々に散在している。
「農業では食べていけないから止めてしまったのか、あるいは継手がいないから放置せざるを得なくなったのか理由は判りません。ただ、“空いている”のは事実です。この空いた農地を有効活用し飲食の基本である“作物”を作ることを事業の一環に「組み込む」必要があると思い、取り組もうと考えたのです」。
「ある意味では町興しだとも思っています。農地は行政さんとも打ち合わせを行っており、連携を確保するなど準備は確実に進んでいます」。さらには「観光農園」や「体験農園」「前者に並立する〇〇レストラン」などの展開も視野に入っているとのこと。そして樺山は、こう続けた。
「吸引力のある農業×飲食を目指しています」。「吸引力」とはどういうことなのだろうか。
「あくまでも一般的ですが、飲食業で使用する農作物は他人が作った農作物を仕入れ調理するという流れですが、私が考えている取り組みは生産から調理、提供まで一貫した流れとしての飲食業を確立しようということです。こうした流れに生産者からスタッフまで引き付けることを吸引力と考えています。そこには、飲食の第一線で活躍できなくなるであろう人財(病気や加齢、親の介護など理由は様々だと思いますが。)にとっても第二の人生の働く場所としての吸引力になり得るのではないかとも考えています。やはり飲食の特性である長時間労働という課題の解決策は(DXを進めていったとしても)少なくとも弊社には未だ見いだせていません。農園レストランなど良いのではないでしょうか。地方は、まだまだ掘り起こせる事業の可能性があると感じています」。
その土地の土壌や気候で育った農作物をその土地ならではの調理方法で食べられるということは、ある意味で贅沢なことでもある。また飲食業を営む人にとっての誇りでもあるだろう。そして農業は、生きる基本でもあるのだ。
「新型コロナウイルスのため2年ほど遅れましたが、着実に進めています。自身でも楽しみですね。まだ先になるかも知れませんが、長期的には収穫した農産物を通信販売などで販売することも考えていますし、実現したいですね」。夢は大きく膨らむ。
実現の暁には鹿児島県阿久根市産のどんな食材でどんな料理が提供されるのか、楽しみは尽きない。

思い出のアルバム
 

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