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第514回 東和フードサービス株式会社 代表取締役社長 岸野禎則氏
update 16/01/05
東和フードサービス株式会社
岸野禎則氏
東和フードサービス株式会社 代表取締役社長 岸野禎則氏
生年月日 1945年7月26日
プロフィール 慶応大学卒後、日本ビクター株式会社に就職するも、5年で退職。親族の事業を継承し、上場企業に育てる。飲食事業のスタートは昭和49年、12坪の喫茶店が、その始まりである。
主な業態 「椿屋珈琲店」「ダッキーダック」「アリスカフェ」「ドナ」「ぱすたかん」「こてがえし」他
企業HP http://www.towafood-net.co.jp/
IRに平成27年9月度売上高速報がアップされていたので、閲覧した。6ヵ月連続で、既存店が売上アップしている。しかも、客数、客単価も軒並み前期比で100%をクリアしていた。東和フードサービスの事業は、「カフェカンパニー」「ダイニングカンパニー」の2つのカンパニーが主軸となっている。今回は、業績も好調な、この東和フードサービスの社長、岸野禎則氏にお話を伺った。

疎開先の山梨で、生まれる。

東和フードサービスが、飲食事業に乗り出したのは、1974年。岸野氏が社長に就任してからのことである。「当時は、『マクドナルド』や『すかいら〜く』が登場し、飲食に新たな風が吹いていた時代だった」と岸野氏は語る。
1号店は、わずか12坪のコーヒーハウスだったそうだ。この店が、東和フードサービスにとっても、岸野氏にとっても飲食事業の第一歩だったことは店舗の規模からも想像できる。
岸野氏が生まれたのは、1945年7月26日。本文とは関係ない話ではあるが、この日は「ポツダム宣言」が発表された日でもある。つまり、当時は戦時下で、岸野氏が生まれたのも疎開先の山梨だった。
「私は、6人兄弟の末っ子です。うちは代々、地主で都内に広い土地を持っていました。私が生まれて1年後、私たち一家は池袋に移り住みました。父は、池袋の西口でミルクホールを開きます」。
「ミルクホール」とは、いうならば喫茶店である。調べてみるとミルクホールが登場した初期(明治時代)には、その名の通り「ミルク」が主なメニューだったようだ。
ともあれ、疎開先の山梨から一転、都内の池袋に移ったわけだが、都内といっても当時は焼け野原だったにちがいない。「代々、地主といっても、いわば農家だったわけです」という岸野氏の言葉からも想像がつく。
「私が生まれた昭和20年はそうでもないのですが、2年後の昭和22年くらいから日本の人口は爆発的に増えていきます。いまでいう団塊の世代ですね。戦後間もないということもあって、当時は小学校にもいろんな事情の生徒がいました。だけど、いじめは一切なかった。ある意味、いい時代だったと思いますよ」。
小学生時代の岸野氏は、勉強もでき、スポーツもできる少年だった。スポーツはもっぱら野球。当時の少年たちの定番である。

立教三羽烏のプレーに、魅了された少年時代から、大学生になるまで。

小・中と野球に没頭した岸野氏だったが、高校生になると柔道を選択した。理由は、当時は身長が低く、野球ではなかなか芽が出なかったことに加え、兄が立教大学の柔道部にいたためだそうだ。柔道をはじめたからではないが、高校で身長は10センチも伸びた。177センチ、堂々たる体格である。同時に、心も強くたくましくなっていったに違いない。
こちらも余談だが、立教大学は池袋にある。大学もでき、岸野家がある周辺も急速に近代化していく。長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾、いわゆる「立教三羽烏」が有名になるのは、1955年〜57年くらいのこと。岸野氏も彼らのプレーをみるために、何度も大学のグラウンドまで足を運んだ。
立教大学でプレーする名選手たちに惹かれた岸野氏だが、大学は立教ではなく、慶応に進んでいる。慶応ではアーチェリー部に所属。1年、浪人しているから大学を卒業したのは23歳の時。西暦、1968年のことである。

サラリーマンから、社長業に転身。

「日本経済新聞社の内定をもらっていたんです。ただし、配属が現・日経MJと聞かされたんで、辞退して日本ビクターに就職しました」。
日本ビクター株式会社の名は、いまは残っていないが、当時、日本ビクターと言えばVHSで、世界標準基準をつくった会社である。
「私が入社した当時も、業績は右肩上がり。私は、もっぱら企画畑を歩みました」。
会社も、岸野氏も順風満帆。しかし、入社5年にして岸野氏は日本ビクターを退職している。
「ちょっとしたごたごたがあってね。私が妻の会社の事業を引き継がなければならなくなったんです」。
これが社長業の始まり。
昭和49年の飲食事業スタートにもつながる背景だ。

日本の文化の継承。

岸野氏の話を聞いていると、スケールもそうだが、思考方法や理論立てた話しぶりに興味が惹かれる。「現実を見て、理論立てていく」のが氏の思考方法の一つで、科学の世界でいえば実証主義となる。
「つねに、アンテナを張っている」からできることでもあるのだろう。それを理解したうえで、驚かされるのは、決断の早さである。
たとえば、東和フードサービスは6年前(2009年)から中国の食材をいっさい使用していない。まだまだ安価で、中国の食材がもてはやされていた当時から、岸野氏はコスト増にもかかわらず使用を禁止した。
「当時はね、うちも使っていたんです。でも、向こうの工場をみたら、残念だけど、これはダメだと。それで、中国から食材を輸入するのは、やめにしたんです」。
現場をみて、判断する。実証主義の発想は、時として時流に逆らうことになるが、やがて正しさが証明されるという好例だ。
「重ね詞」というのも、印象的な話だった。通常、「重ね詞」は、同じ言葉を重複する時に用いられる。「降りに、降る」などである。しかし、岸野氏がいう「重ね詞」は少し意味が違うようだ。
たとえば、お客様が『今日は暑いね』と言われたら、『そうですね』じゃなく、『日傘がいる季節になりましたね』などと反応する。つまりは、言葉のキャッチボールという意味だろう。それができるようになって、「お客様も増えた」という。何気ないやりとりだが、たしかに、楽しくなる会話だ。
このような会話のキャッチボールを大事にする背景には、岸野氏なりのもう一つの考えがある。
「私たちの椿屋珈琲は、コーヒーショップじゃないんです。コーヒーショップというのは、いうまでもなく海外の文化。私たちもコーヒーをお出ししますが、私たちのお店は、日本生まれの喫茶店の文化を引き継いでいるんです。ですから、茶道というか、そういう文化が根底にあるわけです」。
なるほど、と膝を打つ。失礼ながら、喫茶店といえば衰退した業態だと思っていたが、そうではないらしい。
日本文化を継承している業態なのだ。だからこその「重ね詞」であり、「おもてなし」に通じる一言なのだろう。

まっすぐに歩んできた人生。

 話が飛んでしまったので、もう一度、さかのぼると、12坪からスタートした飲食事業は、店舗数も確実に増やしつづけ、ついには株式の公開まで駒を進める。
業態も列挙しておこう。メインである高級喫茶「椿屋珈琲店」「椿屋カフェ」「椿屋茶房」 、ケーキ&パスタ「ダッキーダック」「アリスカフェ」、スパゲッティ専門店「スパゲッティ食堂ドナ」 、創作お好み焼き「ぱすたかん」「こてがえし」
売上高は、2015年現在、約107億円、店舗数は、約120店舗、ちなみにグループ全体では売上高が1200億円になるという。12坪からスタートした事業が、原動力ともなり、一大グループが出来上がったわけである。
長嶋茂雄氏のプレーを追いかけた少年時代、アーチェリーに没頭した学生時代、日本ビクター時代、そして、社長業についてからの、時代。すべての時代に、まっすぐに歩んできた岸野氏の姿が垣間見られる。
いまなお、氏は、まっすぐに歩んでいるように思えてならない。
「人生でいちばん勉強しているのはいま」。
この言葉が、岸野氏の生き様のすべてを物語っているような気がした。

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