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第748回 株式会社アクアプランネット 代表取締役 福政圭一氏
update 19/10/08
株式会社アクアプランネット
福政圭一氏
株式会社アクアプランネット 代表取締役 福政圭一氏
生年月日 1969年5月15日
プロフィール 前職は大阪心斎橋にあった音響メーカー「旧DENON」でエンジニア。24歳で退職し、結婚。26歳で、妻が経営する会社へ。この会社が、アクアプランネットの前身。2015年、社長だった妻の恵子氏が亡くなり、バトンを受け社長に就任する。
主な業態 「Belgian Brasserie Court」「BARREL」「ANTWERP」「Brugge」他
企業HP http://www.aquaplannet.co.jp/

瀬戸内海に浮かぶ島。

「海へは2分、山へは1分」と、福政圭一氏は笑う。
福政氏に言わせれば、島とはそういうものらしい。高いほうから山、人、海なんだそうである。福政氏が瀬戸内海に浮かぶ、その島に生まれたのは1969年5月15日。
市町村名で言えば、現在は尾道市瀬戸田町となる。
「『生口島(いくちじま)』と言います。私が生まれた頃は、人口1万2000人くらいでしたが、今は1万人を割っています。かつては造船の町だったんです。今は瀬戸内レモンで有名ですが…」。
生口島は瀬戸内海では10番目に大きな島なんだそう。この島で福政氏は18歳まで過ごしている。「本土は、海の向こうで、私たちにすれば文字通り海外です。高校までは島を離れ、尾道の中心街に出かけるのも冒険でした」。
小学校から野球が好きで、高校では軟式野球部を、硬式野球部にしてしまったそう。「やるなら硬式でしょ。私はキャッチャーです」。
父親は造船の仕事をされていたそうだ。
「うちは貧乏でした。ぜんぜんお金がない。父が四六時中、お酒をかっ食らっているので、さらにない/笑。ま、当時は、うちまでとは言いませんが、貧しい家庭も少なくない時代です。でも、なかにはお金持ちもいて、ある友達のうちに行くとステレオがあったんです」。     
そのステレオが、福政氏の人生を動かす。
小学6年生の時の話である。

愛するステレオと、福政氏と。

「とんでもなく、衝撃を受けた」と福政氏。2つのスピーカーからでる音が、からだの前でひとつなる。不思議でならなかったそう。
「でも、うちでは買ってもらえないのはわかっています。それで、お菓子もジュースもすべて我慢して、お小遣いをぜんぶ貯金です。その一方で、工業高校に進もうとしたんですが、島には普通科しかない。それで、高校2年の時です。全財産をかきあつめて、通信講座を始めました」。
なんでも、最後の最後には高校でまだ習っていない微分・積分がでてきたそうだ。
「学校の勉強はしないのに、こちらはさぼらない。結局、未習の微分・積分の根本はわからなかったですが、式をそのまま記憶して、クリアします」。
それで、デンオンですか?
「そうです。世界でいちばんステレオを愛する男だと思っていましたからね/笑」。これが、福政氏が20歳の時の話。
「新卒と同じように採用していただくんですが、何しろ、私よりステレオを愛する男はいないわけですから、当然、制作部に配属されるもんだと思い込んでいたんですね」。
「夢は、自分の作ったステレオで世界の人たちを自分の時と同じように感動させたい。でしたし」。
ところが、そうじゃなかった?
「そう!/笑。制作の下の部署で、商品に不良がないか確かめる部署だったんです。最初は『なんでやねん!』とむくれていたんですが、制作部のトップの人が作った物を見て愕然とします。こっちは通信講座でしょ。向こうは一流の大学でゼミなど専門的な研究をしてきて仕事をしているわけで、そりゃ、レベルからしてぜんぜん違う」。
                     3年半、在籍した。
「技術はそうでもなくても、私、耳は自信ありでした。一つのスピーカーの音をチェックしながら、ほかの人の、スピーカーのチェックもできるくらいでしたから。『いまの音、おかしいよ』って。しかも、驚くくらいの精度です。だから、実は仕事も面白かったんですが。ま、妻というか恵子さんを取ったわけですけれど/笑」。

「いい声しているわね」、恵子さんのつぶやき。

アクアプランネットの創業者は、実は福政氏ではない。妻の福政惠子氏である。福政氏は妻のことを「恵子さん」という。この記事でもそれを踏襲する。
「恵子さんと知り合ったのは、デンオン に入社するまでにやっていたテレフォンアポインターの仕事で、です。
彼女に電話をかけ『投資に興味はないですか?』と/笑。それが、始まりなんです」。
証券会社のアポインターの仕事だったようだ。
福政氏は大阪から彼女が暮らす三重まで電話をかけていた。
「ふつうは1秒です。『もしもし…』『ガチャ』『もしもし…』『ガチャ』。なのに恵子さんは違っていました。話に耳を傾け『いい声しているわね』って。それがきっかけで、仕事以外でも話をするようになって。お付き合いをして3年くらい経って『結婚しようか』と」。
だが、大阪と、三重である。
「恵子さんが会社をたたみ大阪にくるか、私が仕事を辞めて三重に行くか。選択肢は、そのどちらかです」。
もう塾を経営されていたんですね?
「そうなんです」。

三重へ、選択の結果は、さらばオンキョーだった。

「仕事がいやだったら、さっさと辞めちゃうんですが、好きだから、そうはいかない。ただ、上司に相談すると四日市にあるオフィスに異動できるみたいな話になるんですね。四日市だったなら通勤もできそうだったんで、『こりゃ、いいや』と」。
それは、よかった。
「そう、よかったんですが、実は、転勤前に向こうのオフィスがなくなっちゃって。『え、うそでしょ』ですね。会社は、『交通費を出すから大阪まで通勤したらどうだ』とも言ってくれたんですが、さすがにそれもないな。って」。
それで結婚して、三重ですか?
「はい、そういうことになります。私が24歳の時です。ただ、すぐに塾を手伝ったわけではありません。最初は、松阪で独立しシャープサービスの下請けをしていました」。
膝を悪くしてしまったそうだ。
「突然膝が痛くなって 、シャープの仕事ができなくなっちゃいました。それがきっかけといえば、きっかけです」。
妻の恵子氏が経営されていた塾も、生徒が膨れ上がり、100人くらいになっていたそう。「さすがに1人じゃたいへんだろう、と。それで、『私も手伝おうか』って。私が26歳の時です。答えは、もちろん『YES』です」。
恵子氏は、とびあがって喜んだことだろう。大好きで、頼りになる夫が、一緒にやってくれるのだから。
福政氏が手伝い始める。
恵子氏が授業を行い、福政氏が進路指導などのカウンセリングをする。そのスタイルが定着すると、益々評判となり、倍々で生徒数が増えていく。
「塾だけではなく、予備校もスタートします。その一方で、恵子さんが飲食を始めたいというので、『いいよ、こっちで利益をちゃんとだすから思い切りチャレンジすれば』と背中を押しました」。

恵子さんが、残した会話のつづき。

福政恵子氏は女性経営者として、数多くの女性たちの目標ともなり、慕われてもきた。じつは、この「飲食の戦士たち」にも登場していただいている。しかし、突然、お亡くなりになってしまった。
「突然だった」と福政氏はその時の様子まで話してくれている。
「あの時はねぇ。気が張っていましたから…。最初は、泣くこともできませんでした。事業のこともありましたし、彼女を慕うスタッフたちのこともありましたし。ただ、僧侶に『我慢しなくていい。泣いてやるのが、供養です』と言われて…」。
その一言で、膝から崩れ落ちたそうである。
「私たちが最初に手がけた飲食店は『バレル』という大阪の淀屋橋に出店したベルギービールのお店です。その2年後に、東京・丸の内にも出店します。彼女は、精力的に飛び回っていました。それでも、毎日、電話をしていました」。
思えば、塾を手伝い始めてからというもの2人はいつも一緒だった。2人して、1台の車で通勤する。
福政氏がハンドルをにぎり、恵子氏が語りかける。スタッフのこと、事業のこと。知性的な恵子氏のことだ。ウイットに富んだ会話は、塾につくまでの道のりを楽しくしたにちがいない。
「じつは、今も話をしています」。
そういって、福政氏は手帳の話をしてくれた。
「恵子さんが、いつも空想・妄想を書き記していた手帳が何冊もあるんです。そこにね。1年後。3年後。いやもっと先に、どうなっていたいかが書かれているんです。それをみてね。私は、いまでも話をしています」。
手帳には、どの場面にも一つだけ同じことが書いてある。
「『スタッフを幸せにする』っていう一言です。いかにも恵子さんらしいな、と」。

いちばん幸せな人。

「恵子さんは、いつもスタッフのことを考えていました。そういう意味では、会社のなかでもいい教育者でした。恵子さんの思いは、スタッフたちにも通じていたはずです。だから、恵子さんがいなくなっても、だれ一人辞めなかったんだと思います。それどころか、私を盛り立て、みんなで今まで以上に頑張ろうと。そして、私には、恵子さんが残したこの子たちをしっかり育てていく使命があると思っています」。
事業はいうまでもなく好調だ。新卒採用も、数百名からのエントリーがあるそうだ。
「将来的には、事業の分社化も進めていきたいな、と。株式の上場も。そうですね。いつかは。もちろん、その前に、スタッフですね。恵子さんがいちばん大事にしていたことですから。そこは、ぶれないでいかないといけない」。
毎年4月の決算会議に課題図書をスタッフ全員に配っているそうだ。
「今年も配りました。今年の本には、アクアプランネットがめざす一言が書かれているから探してみなさい。と」。
どんな言葉?とうかがうと、福政氏は、小さくうなずいて「人に幸せを与える人が、いちばん幸せな人」という言葉だと教えてくれた。まるで、恵子氏のことを言葉にしているようだ。
ところで、福政氏はこんな話もしてくれた。
「貧乏だった話をしたと思うんですが、私が小さい頃は特に造船不況でね。その時、町営住宅のようなところに住んでいたんですが、家賃が800円です」。
「それを払うのが精一杯で、水道や電気の集金人が来た時は、母といっしょに押し入れに隠れたりするんです。けっしていいことじゃないんでしょうが。母が、指を立てて、『しっ』てやって。それが、楽しかったんですね。隠れんぼうみたいで。そういうのを経験しているからかな。どんな時だって楽しむ、楽しめるんです。だからね。今の状況も、みんなのためにも下を向かずに、前を向いてしっかりやろうと」。
まったくの余談だが、恵子氏の父も、造船技師だった。三重と瀬戸内。観ていた海は違うが、夫も、妻も、海と船を観て育った。縁は結ばれ、続いている。

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