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第771回 株式会社ビーエム 代表取締役社長 青沼正浩氏
update 20/03/03
株式会社ビーエム
青沼正浩氏
株式会社ビーエム 代表取締役社長 青沼正浩氏
生年月日 1974年1月27日
プロフィール ホテル&レストラン学科があるポールスミス大学(ニューヨーク)で、フードサービスのマネージメントを学ぶ。1年間、サンフランシスコのレストランでインターンを経験し、帰国。2018年、創業者である父、弘氏の跡をつぎ社長に就任する。ちなみに、B&Mは、平成20年、第16回、農林水産大臣賞を受賞している。
主な業態 「B&M」
企業HP http://www.steakbm.com/

青沼弘氏と息子の正浩氏。

「『みんなでご飯を食べたい。みんなで一緒にお風呂に入りたい』って」。
じつは、2010年に現会長である青沼 弘氏にインタビューさせていただいたことがある。冒頭の一言は、その時に伺った話。「仕事がいそがしくって。子どもたちにはキャッチボールもしてやれなかった」と2人の子どもたちとの思い出を語っている。
そして、2018年、次男坊である青沼 正浩氏が、弘氏にかわって社長に就任する。今回、お話を伺ったのは、その正浩氏。
「私が3歳の頃に、父親は独立してB&Mをはじめます。9坪のステーキ店です。当時、大井町にはステーキの店なんてなかったからでしょう。9坪24席の小さな店でしたが、月商は700万円、年商は8000万円くらいあったと聞いています」。
人気メニューは、ジャンボハンバーグ800円。人気店に負けないように頑張った。ただ、店が繁盛すればするほど、しわ寄せは子どもたちにも寄せてくる。だから、キャッチボールの時間も取れなかったし、家族みんなで食卓を囲むこともなかなかできなかった。
「私がしてやれたことはたいしてありませんが、ただ、はたらく背中だけはみせることができたと思います」と弘氏。たしかに、いまの正浩氏と弘氏の背中は重なってみえる。

調理場にただようソースの香り、ステーキの匂い。

正浩氏が生まれたのは、1974年。お店をオープンした頃から父の実家の山梨に預けられたという。大井町にもどったのは、年長さんになってから。兄といっしょに仕込み前にお店に行った。ソースの香り、ステーキの匂いは、同時に母と父の匂いだったのかもしれない。
兄がいない時は、調理場に残って独り父親たちの仕事をみていた。ともかく、父親の背中はすぐそこにある。小学生になってからは、パンを買いに走るなど店の手伝いを開始する。息子たちの頑張りもあったのだろうか。
正浩氏が中学生になるか、ならないかの時に2号店がオープンする。1号店オープンから9年目の時だ。高校時代には、店でアルバイトもした。「そうですね。高校くらいにはいつか親父の会社に入るんだろうと思うようになっていました」。
もっともタイムスケジュールは決まっていなかった。正浩氏は高校を卒業し、情報ビジネス系の専門学校に進んでいる。

ポールスミス大学へ。留学。

「専門学校を卒業して、しばらくしてからですね。本店のリニューアルの立ち上げに参加します。卒業して2ヵ月くらいは、バックパッカーで北京からロンドンまで。シベリア鉄道でロシアを横断しました。フィンランドやバルト三国とかにも行きました。ともだちが、いろんなところにいたもんですから/笑」。
すぐに、ともだちができる、そういうタイプなんだろう。ロシア人や、フランス人とも、ともだちだ。
「立ち上げが済んでから、今度はアメリカに渡ります。ハイ、マネージメントを勉強するためです」。正浩氏が学んだのは、ホテル&レストラン学科があるポールスミス大学(ニューヨーク)。2年間、アメリカの最新のマネージメントを勉強する。 「そうですね。この2年間は、私にとって大きな2年間です。フードサービス協会のアメリカ支部の方から、色々なレストランをご紹介いただいて、大学以外も勉強になりましたし」。
「大学を卒業し、それから日本でいうインターンですね。学校からは、ニューヨークのレストランを紹介してもらったんですが、私はどうしてもカリフォルニアに行きたくて、車でアメリカを横断し、鮨屋でアルバイトしながら、サンフランシスコのレストランでインターンをさせてもらいました」。
たしかに、貴重な経験だ。ただこの頃、日本では、大きな問題が起こっていた。

ステーキレストランを襲ったBSE問題。

「ちょうど、私が留学している時ですね。BSEです。とにかく、親父に言わせると、過剰な報道が日々繰り返し行われた、と。こうした報道がステーキハウスであるうちの店を直撃します。業績悪化。その時のメンバーに聞くと、うそのように客足が途絶えたそうです。親父もこのままでは会社が潰れてしまうと」。
「だってね、スタッフの奥さんがいうんですよ。子どもに『どうして牛肉を食べてはいけないの?と聞かれて死んじゃうからとしか答えられなかった』って。それくらいみんな洗脳されちゃうんですね」。
弘氏が当時を語る。
「そして、私がもどってきたのは2回目のBSEですね。アメリカの牛肉問題の時です。ハイ、やはり危機感はありましたね。ちょうど『151A』を出店する時でした」。
151Aは、一期一会と読む。ステーキはもちろんだが、しゃぶしゃぶもメインのレストランだ。「親父が熊本の生産者と知りあって、豚のしゃぶしゃぶをイメージしたそうです。日本の食材をつかっての、新ブランドですね。『和』の言葉を『洋』に置き換えたわけです。いっても、うちは洋食屋ですから/笑」。
ともかく、2度目の危機。
ただし、今回も危機はそう長くはつづかなかった。正浩氏も、大いに手腕を発揮したことだろう。

咲かせる、笑顔の花。

「フードサービス協会には、二世会があって。私も、そちらに参加させていただいているおかげで先輩も、ともだちも、いっぱいできました」。
社名を挙げてもらうと、有名どころが、ズラリとならぶ。「先日も、野菜をみに連れていってもらいました。もう、一部の人とは兄弟みたいですね。困っていると、『ヨシ、任せろ』って/笑」。
むろん、このような関係も、正浩氏だからつくれたと言えるだろう。
そういえば、父親の弘氏も人との付き合いを大事にする人だった。前回の記事から、少し長くなるが、引用する。
「青沼氏は人と一緒のとき、一人だけで食べたり、飲んだりすることはない。缶コーヒー1杯しかなければ、それも分け合う。『みんなで分け合うもの』という母親の教育が、からだに染みこんでいるからだ。だから、利益も一人占めしたことがない。利益もみんなで平等に分け合う」。
「社員だけではなくアルバイトに同じ思いで接する。たとえば学生がアルバイトを始めると、ご両親に手紙を送っている。地方の方なら上京された折にはぜひ、という一言も忘れない。学生の生活ぶりをみて『こたつ』を買い与えたこともある。相手を思いやる。だからアルバイトも辞めない。正社員になるアルバイターも多い。青沼氏の下を卒業した人間たちは、いまも店を訪れる。世知辛い世の中で、(この人間関係は)、ひとつ咲く花のように、美しい」。
ちなみに、経営理念は、「ふれあいの心で育つ一輪の花」である。
この理念の下、正浩氏がどのような経営を展開されていくか。それが、楽しみだ。ところで、この名店には、もう一つの花が咲く。旨い料理を口にした時にはじける笑顔の花だ。そんな花で、今日もレストランはいっぱいになっているにちがいない。

思い出のアルバム
 

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