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第795回 株式会社和僑ホールディングス 代表取締役社長 坂田敦宏氏
update 20/07/07
株式会社和僑ホールディングス
坂田敦宏氏
株式会社和僑ホールディングス 代表取締役社長 坂田敦宏氏
生年月日 1968年5月17日
プロフィール 東京都東村山市出身。地元中学卒業し、建築職人となる。鳶職人、塗装職人を経て22歳にハウスクリーニング業を起業。のちに法人化しビルメンテナンス業を中心にフランチャイズ展開を行い、その他リフォーム・人材派遣・業務請負・IT・芸能・コンサルティングと事業を拡大し、11社のグループ会社をつくる。2012年1月脳幹出血で倒れ、言語障害・半身不随になり、治療に専念するためすべての職務を退任。2年間のリハビリ生活を経たのち、2014年1月、「訪問看護事業」を立ち上げ、社会復帰を果たす。
主な業態 「不二楼」「ヒノマル食堂」「新潟なおじ」「FUJIRO」他
企業HP https://wakyo-japan.com/

看護師とリハビリの先生の言葉に、号泣す。

死ぬかと思った。43歳の時のこと。
「マンションで倒れました。脳幹出血です」。
幸い、命は取りとりとめたが半身不随は免れない。「2年間くらいはリハビリに専念しました。仕事はすべてキャンセルというか、かかわっていた事業をいったん、ぜんぶリリースしました/笑」。
借金も、残ったそうだ。半分、詐欺にかけられた結果。とはいえ、ひるんでいる暇はない。「治る」「治す」。目標はそれ。「倒れてから2週間はひたすら落ち込んでいました。そりゃそうですよね。言語障害と半身不随ですから。医者だって、治るとはいわない。でも、そんな私をみて、看護師さんとリハビリの先生が、ね。『かならず治るから』と励ましてくれたんです」。
嬉しくて、号泣した。それからだ。何もかも忘れ、治療だけに専念した。「かならず治るから」。その言葉を嘘にしないために。
看護師をはじめ、理学療法士など、様々な人が、けんめいに治療に専念する坂田氏を励まし、サポートした。「感謝しかないですよね」と、坂田氏は目を細める。表情は、いたって普通。言葉も明瞭。身体も観ているかぎり、不便なところはなさそうだ。
「ここまで回復するのは、珍しい事らしいです。数年前にNHKから取材も受け、珍しい症例としてテレビ出演しているんです」。奇跡かどうかは別にして、坂田氏を励ました看護師とリハビリの先生の言葉は、嘘にはならなかった。

恩返しのため、経営者に復活。

「たまたま、あの時は人生の休憩中だったんです。22歳に起業してから、40歳まで働き詰めです。働きづめの20年でしたから。それでいったん経営から手を引いて、事業家から投資家みたいな仕事をしようと。そんな矢先のことでした」。
リハビリ生活は2年間にわたった。「2年間、ひたすらリハビリに専念し、それから、もう一度、事業を開始します。リハビリをサポートしてくれた人たちに、恩返しする事業です」。
2014年「訪問看護ステーションリカバリー」を運営するRecovery International株式会社設立。
「今も(この取材は2020年6月に行っている)そうですが、看護師さんやリハビリの先生たちは、わたしたち一般人がわからないところで頑張っている。そんな人たちにもっとスポットをあてたい、と思ってスタートしました。そこで訪問看護ステーション事業です。私自身が利用者でしたので、在宅医療の必要性を知っていたからです」。
起業から3年間、取締役会長を務めている。
「訪問看護ステーションリカバリーに在籍しているのは、看護師や理学療法士など、すべてのスタッフが国家資格をもっています。150名くらい在籍していますから、これは、日本の訪問看護事業の中ではすでに大手の訪問看護ステーションですね」。
坂田氏自身は、現在、株主という立場だそう。設立から6年だが、はやくもIPOが視野に入ってきたらしい。それ以外にもリハビリが明けてからいままで様々な事業を生み育てている。
アパレルを起業したほか、出資し、経営をサポートしている会社も少なくない。「1時間ごとにミーティングの内容がかわる。医療だったり、アパレルだったり、そして、飲食だったりね」。
多彩な人はいるが、1時間ごと異なるテーマの話を聞き、判断できる人も、また珍しいのではないだろうか。

永ちゃんの本を買う。

坂田氏が生まれたのは、1968年。東京都の東村山市。父親は早稲田大学に勤務されていた。
「今になっちゃね、親父を尊敬するしかないんですが、昔は親父みたいになりたくないって。私は15歳、つまり、中学を卒業してから、働き始めます。それも、サラリーマン的な父親への反抗からと言ってもいいでしょうね」。
父親にすれば、「なんでだ」となるが、ナイーブな少年には、父親はもっとヒーローでなければいけなかったのかもしれない。愛情が、歪な形を結ぶ。
「中学3年の時に日雇いのバイトをして、それが1日3000円だった。普通に就職しても、給料は全然無い。だったらバイトの延長で、と、それで建築の仕事をスタートします」。
「でもね。あの頃は、仕事を長く続けられるような人間じゃなかった。とび職とか、そうですね。日払いのバイトで食い繋いでいました/笑」。
そんな日々を送るなか、現場に行くダンプの中で毎日のように親方が語りかける。「坂田さぁ、学歴がない奴が金持ちになろうと思ったら、独立するしかないんだぜ」。
「その話に刺激されたのか、今まで漫画本しか買ったことがなかった私が本屋に行きます」。手にしたのは「成り上がり」。ご存じ、矢沢永吉氏のベストセラーだ。チョイスが、当時の若者らしい。
「それで22歳で、独立ですか?」
「そうです。それから40歳まで、走り続けます」。
正確にいうと、22歳でハウスクリーニングの会社を設立。26歳までひたすら働き、オフィスを設立。バブル崩壊の、影響は軽微だった。
そして、冒頭で書いたように、40歳でビジネスの世界から一線をひき、43歳で病に倒れる。起死回生は、45歳の時。

創業者、高取宗茂氏からのオファー。

「和僑」との接点もうかがった。
「う〜ん、どういうかな。一本のやきとりかな/笑。当時病気になる前、私の住まいは麻布十番で美味しいものを食べるのも好きで、割とアッパーな、芸能人も来るようなところで食べていました」。
退院後、実家の東村山で数か月療養、その後西新宿へ引っ越しリハビリをしながら過ごしていた。
「そんなある時ですね。知り合いに紹介され、新橋の『ヒノマル食堂』に連れていってもらい、やきとりを食べるんですね。新橋だから、もちろん安い。でも、味はぜんぜん負けていないんです。私の行きつけの、高いやきとりと比べて」。それに衝撃を受けたのが、はじまりだったそう。
無論、創業者の高取宗茂会長とも親交が生まれた。「高取さんっていうのは、料理の達人なんですが、実は彼の曽祖父さんは炭鉱王と言われた人で、曽祖父さんが建てた旧高取邸は、いまや国指定の重要文化財になっています。岩崎弥太郎と交流が深かったようです。さらにその後高取一族は九州で一番大きい料理学校を設立するんです。だから高取は幼いころから最高の味に触れて育っているので、絶対舌感を持っているんです」。
「旧高取邸」。調べてみたら簡単にヒットした。一般の入場料が520円。「すごいですね?」というと、「そう、すごいんです。そんな彼から手伝ってくれないかって相談を受けるんです。これが、実質的な『和僑』との接点のはじまり。ちょうど日本橋茅場町『不二楼』をオープンする前の年ですね」。
ひょんなことから、飲食の戦士になる人もいる。坂田氏も、ひょっとすれば、そんなひょんな人の、1人かもしれない。とはいえ、経営という観点からいえば、外食とて同じということになる。
「私が社長になるまでは、割と採算度返しで味にこだわるという店もあった。それを、そうですね。直営からフランチャイズにするなどして、経営のスリム化を進めます。いまは、直営は『不二楼』と『ヒノマル食堂』『新潟発祥ラーメンなおじ』の3つです」。
「これが、今回のコロナ騒動の中では幸いした」と坂田氏はいう。

25年×年間約500食以上外食する。いえば、客のプロ。

直営が少なかったから、負担が比較的少なくて済んだ。「とはいっても、うちの店はなおじ以外大箱なんですね。『ヒノマル食堂』に至っては、数年前には坪当たりの売上が日本でナンバー1になっていたような店ですから、そのぶん、落ち込みはひどかったですね/笑」。
ただ、「怒られるかもしれないが…」といいつつ坂田氏は、今回の騒動をプラスに受け取っている。この3年で会社を強固にしてきた自信からだろう。創業者の高取宗茂氏との関係も良好だ。高取氏の才能を引き出すのが、坂田氏の役割なのかもしれない。
「いま、いろんなことを考えています。海外ではベトナムのホーチミンに2店舗出店していて、さぁ、東南アジアにという予定だったんですが、こちらはコロナでちょっと停止しています。国内では、『新潟発祥ラーメンなおじ』ですね。もう、製麺所もスープ工場もあるので、FCで拡大していきます」。
たしかに、ラーメンは比較的、影響も少ない。「そうですね。『なおじ』は、年内3〜4店舗、新たに出店できそうです。『ヒノマル食堂』でも、じつはユニークな戦略を立てています。リモート時代にも対応できる、食事と飲みが、いつでもできるハイブリッドなサービスをやっていこうかな、と」。
「食事は、12時〜13時までって、だれが決めたんでしょう。3時くらいにお腹がすくってこともあるでしょ。食べるほうにしたら、そうなんです。しかも、これからリモートになったら、益々、いまのあたりまえが崩れる。そういうときにも対応できるように、外食も進化しなければならないんじゃないでしょうかね。また何よりも今回のコロナ騒動のおかげで、僕の中で飲食店がより一層大好きになりました」。
飲食店で働いたことがない。だから、わかっていない、ではない。
「むしろ、ぼくのほうが、飲食しているんです。だって年間500食は外食。それを25年つづけてきたんですからね。なかなか、お店で働いていると、そうはいかないでしょ/笑」。
なるほど、客のプロだ。いや、プロの客というのだろうか。いずれにしても、そんな坂田氏が、今から描く飲食とは? それもまた楽しみになるインタビューだった。
まだまだ不透明な時が続くだろうが、いずれ社会も完治する。坂田氏のなかでは、もう、そんな明るい未来が始まっているようだ。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム1 思い出のアルバム1
創業3年目くらい(ハウスクリーニング業時代) 35〜37歳くらいの写真 2012年、入院中
 

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