キリンシティ株式会社 代表取締役社長 波多野 潤氏 | |
生年月日 | 1976年6月8日 |
プロフィール | 中央大学法学部卒。キリンビール株式会社入社。キリンビール入社後も、高校時代から始めたアメリカンフットボールを続ける。社内では、大手飲食店を担当するなどキャリアとスキルを磨き、若くして要職を歴任。2023年3月30日、現職のキリンシティ株式会社、代表取締役社長に就任する。 |
主な業態 | 「キリンシティ」 |
企業HP | https://www.kirincity.co.jp/ |
附属高からの大学への内部進学ができたとしても成績的には夜間しかなかったと波多野氏。内部進学率は9割あったそうだが、そのうちの数%は夜間に進学ということだったらしい。ところが一転、救いの制度が始まって、なんと法学部に進学している。
中央大学の法学部といえばエリート中のエリート。仲間からも大ブーイングが起こったと笑う。
その救いの制度とは、この年スタートしたスポーツ推薦のこと。波多野氏はその一期生として、まんまと中央大学法学部に進学することになる。
もっとも大学時代は、楕円形のボールと一緒に走り続けた4年間だった。
「アメリカンフットボールを始めたのは高校時代。実はラグビーをやりたかったんですが、進学した中央大学の附属高校にラグビー部がなかったんです」。
日本ではラグビーの方がどちらかといえばポピュラーなスポーツにもかかわらず、アメフト部があってラグビー部がない高校があったというのは驚き。
「部員は総勢70名程度で、同期は20名程度。私は2年からレギュラーになります」。
高校時代には全国大会で2度決勝まで進んでいる。このチームで、「低く、速く、強く」というアメフトの基本を叩き込まれたそうだ。
大学でのチームポリシーは真っ直ぐ。部則では、20歳になっても意外にも禁酒・禁煙だったらしい。
アメリカンフットボールと聞くとグラウンド外でも華やかで、ジョッキをにぎれば煽るように豪快に飲む、といったイメージだったが、改めないといけない。
いずれにしても、スポーツ推薦のおかげで難関を突破。芸は身を助くとは、まさにこのことだ。
波多野氏は1976年、東京都武蔵村山市に生まれている。「足が速くて運動が好き」な少年だったらしい。スポーツは野球とサッカー。習い事は結構やっていて、小学3年から4年にかけピアノも習っていた。
「中学ではバトミントン部に入ります。塾があったんで、ゆるい部活を選びます。ただ、都大会まで進んでいます。高校は中央大学附属高等学校に進学します」。
そこでアメリカンフットボールと出会うわけですね?
「そうです。それから大学、社会人と14年間現役を続けるわけですから、不思議な縁と言いますか」。
奥様もチアリーダーというから、縁は縁を呼ぶ。
「現役を卒業してからは、9年間母校でコーチをやります」。
2003年、選手として所属する社会人チームの大会の決勝で宿敵アサヒビールを打倒。グラウンドが歓声に包まれた。その記憶はお金に変え難い財産の一つ。
アメフトと社会人の二刀流ですね。ところで、キリンビールに入社されますが、第一志望だったんですか?
「結果的にはそうなります。私自身、アルコールは苦手だったんですが、ビールは人の喜怒哀楽に寄り添う、そういうイメージがあって。競合も4社でライバルが明確という点にも惹かれました」。
アサヒ、キリン、サッポロ、サントリーですね?
「私はキリンともう1社から内定をいただきました。キリンは紳士的でもう1社はフレンドリー。最初はもう1社に魅力を感じていたのですが、内定が決まるとだんだんとフレンドリーさがなくなって(笑)。強烈な囲い込みが始まって心が離れます。その一方で、キリンは常に親身になってくれて。『ビールで人の人生に寄り添いたいと言ってませんでしたか』って。初心を思い出させてくれるんですね。あぁ、そうだったみたいな(笑)」。
ビールといえばもちろんキリン。祖母のアドバイスも効いた。「せっかく天下のキリンから内定をいただいたのに、なんでそんなに悩むんだい?」
もっとも祖母にとっては天下のキリンビールだが、もはやガリバーではなくなっていた。2023年現在も、キリンとアサヒでシェアの争奪戦が繰り広げられている。
ビール事業の同期は60人程度、うち営業は30人くらいだった。波多野氏は西東京支店に配属されている。「仕事では酒屋さんや地元のスーパーを回ります。当時の西東京支店はキリンビールの中でも売上No.1を誇る大きな支店でした」。
担当エリアは八王子、町田、立川、多摩、稲城、日野と広い。アメリカンフットボールで鍛え抜いた体で駆け回る。もちろん、前述通り社会人になっても7年間は現役を続けている。
入社後の経歴を追うと、1999年4月、キリンビール株式会社に入社。翌年3月、西東京支店に配属。2005年1月、株式会社キリンコミュニケーションステージ量販事業本部 首都圏量販東京1エリア SMGに就任。2006年にはキリンビール 広域販売推進統括本部販売推進1部に異動。モンテローザ、すかいらーくグループ、HUB、グローバルダイニングなど、錚々たる企業を担当する。ちなみに、モンテローザは社内公募にチャレンジして担当になったそうだ。当時、モンテローザは1500〜2000店に拡大する時期だったという。拡大期をサポートした波多野氏だけに、今でもグリップは強い、つよい。
「2010年に近畿圏統括本部で担当部長に就任します。2014年にはマーケティング部に異動になり、宣伝担当メディアグループリーダーに。そして、2018年10月に九州統括本部 沖縄支社長に抜擢いただきました」。
沖縄ですか、いいですね?
「毎年家族で行くくらい大好きだったんですが、仕事ですから空港を降りたとたん戦闘モードです(笑)」。
マリンブルーの海よりも、琥珀色のビールを追いかけた。
「今もそうですが、沖縄っていったらオリオンビールですからね。キリンビールっていったって、なんだそれは…って(笑)」。
酒は泡盛と一緒なんだろうか。
「部長職は経験していましたが、沖縄支社長になって初めて組織のトップに立ちます。部下は30名程度。ほとんど沖縄県出身者です。シェアは先ほどいった通り、オリオンビールが圧倒的でキリンビールは20%くらいでした」。
ミッションは、もちろんキリンビールのシェア拡大。ただし、オリオンビールの牙城はそう崩れない。「3年後の2021年、九州流通支社長に任命されます」。
大企業ともなれば異動も少なくない。酒屋さんを巡っていた頃から比較すると、立場もかわり動かす人間の数もかわった。キリンビールという組織のコアな部分に進んでいく。
その歩みは、力強い。低く、速く、強く、だ。
「ビールも大好きになりましたね。今では晩酌に1本がルーティンです。ただし、プルタブを開けただけで寝てしまうこともあるんですが(笑)」。
プルタブを開いただけのビールは、多忙の証だろう。
ところで、2021年といえばコロナ禍の下、経済活動が様々なかたちで制限された時だ。宴会需要がなくなり、乾杯は下火になる。家飲みに移行した人も多いが、ビールの消費量は若者を中心にふるわないままだ。
「そのなかで、どのような活動を続けていくか。私は九州流通支社長に就任して1年半近く経って今度は、キリンシティの社長に抜擢いただき、現在もこの職に就いています」。
外食に寄り添ってきたが、外食を直接経営したことはない。どうハンドリングしていくのだろう。
波多野氏は、人生で影響を受けた人が二人いるという。一人は高校時代の部活の監督を挙げている。
「恐怖体制だったんですが、それはそれとして、挨拶などの基本的なことや気遣いの大切さを勉強させていただきました」。
誰よりも早く、物事を察知するレーダーも監督に鍛えられたことの一つ。
「社会人になってからの立ち振る舞いに差が出たように思いますね。私がお客様や上司に評価いただけたのは間違いなく監督のおかげです」。
もう一人は社内の心優しいジャイアン先輩。今でも首都圏で営業統括をしており、力強い指導をいただいている。
「今はまだ人生の途中なので、どうなるかわかりませんが、私は『人生はどうなるかじゃなく、どうするかだ』とみんなに言っています」。
たしかに、自主性がないとエネルギーが生まれない。波多野氏は、そのことをスタッフに直接語りかけているのだろう。
経営者とスタッフの垣根は決して低くないが、波多野氏にはその垣根の高さを感じさせない魅力がある。だから、波多野氏の言葉は届く。
いずれにしても、アフターコロナの幕が上がりディフェンスとオフェンスが入れ替わった今、どんな攻撃を仕掛けていくのか。波多野氏のハンドリングに期待が寄せられているのは間違いない。街に乾杯の花が咲くのが、待ち遠しい。
幼少期 | 小学生リレー | 高校⇒大学へ |
高校の恩師(松永先生) | 2003年社会人日本一 | 中央大学アメフト部コーチ時代 |
中央大学アメフト部コーチ時代 | キリンビールの憧れの先輩と | 沖縄支社時代 |
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