クロスαvol8 外食産業の近代化に貢献した男の人生とは
クロスαvol8 INDEX クロスαvol8 小嶋淳司氏プロフィール クロスαvol7 小嶋淳司氏
小嶋淳司(こじま あつし)
1935年7月16日、和歌山県生まれ。
6人兄弟(男3人 女3人)の末っ子。
高校在学中に母が病に倒れ、17歳で家業のよろず屋を継ぐ。兄が戻ったこともあり、経営を兄に任せ、同志社大学に入学。
卒業後、遅れを取り戻すために飲食業と心に決め、寿司の名店で1年間修業。
1963年、大阪十三にて4坪半の寿司店「がんこ」を創業する。2年後に106席の大型寿司店を開店し、注目を浴びる。
現在は、がんこフードサービスの会長を務める傍ら、大阪「平野郷屋敷」や京都「高瀬川二条苑」、三田大原「三田の里」、和歌山「六三園」といった貴重な文化的遺産を生かす事業も行っている。
社団法人日本フードサービス協会理事、社団法人大阪外食産業協会相談役理事ほか公職を多数兼務。
ニューヨーク郊外で鮮烈なデビューを飾る。

和歌山県上富田町。観光名所である白浜に接し、熊野古道に通じるこの町に、2代続く、小さなよろず屋があった。がんこフードサービス株式会社会長、小嶋淳司氏の実家である。

小島氏が生まれたのは1935年7月16日。

どんな少年時代でしたかという質問に、「川で泳いでばかりいた」と小嶋氏。6人兄弟の末っ子。「いちばん上とはずいぶん歳が離れていました。のちのち、このいちばん上の姉のご主人が、わたしの親代わりになるんです」。

「上富田町」を地図で調べてみると、和歌山県の南西部に位置していることがわかる。太平洋の海水が瀬戸内海へと流れていく紀伊水道に沿って南西部の海岸は続く。東北は田辺市、西南は白浜町に隣接した上富田町自体は海に面していない。代わりに中央部を富田川が流れている。熊野古道「中辺路街道」の入口でもある。「気候は黒潮の影響により、年平均気温18度と温暖」と町のホーページに記されていた。

いまでも豊かな自然に囲まれている町のことだから、小嶋氏の少年時代には、まだ整備もされていない道が自然のなかへ、なかへと続いていたことだろう。

小嶋氏は9歳のときに父を亡くしている。1944年のことだ。太平洋戦争の最中である。それ以来、母の小さな背に6人の食べ盛りの子どもたちが背負われ、小嶋家は進んでいくことになる。それがいかにたいへんなことかは、想像に難くない。

「母は、明治の生まれの強い女性でした。躾にはとくに厳しい人で、わたしもよく怒られました(笑)。商売の一方で、子育ても怠らなかった証だと思います。いま思えば、よくあきずにあれだけ怒ってくれたものです(笑)」。

小嶋氏は母を「わたしの商売の原点。師であり、乗り越えなければならない大きな壁」と表現する。そんな母が倒れたのは、小嶋氏が高校2年生のとき。小嶋氏は若干17歳で、尊敬する母から店を引き継いだ。

「がんこフードサービス」の企業理念には3つの「がんこ宣言」が掲げられている。その筆頭に、「我々は、折り目正しい規律と躾で」で始まる一文が、挙げられている。

「規律」と「躾」の大事さは、母から教わってきたこと。小嶋氏の商売人人生は、母の背中を追いかけて始まった気がする。ともかく、17歳。和歌山の田舎町に詰襟の制服を着た店主が誕生した。