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第1002回 大心産業株式会社 代表取締役 橋本健司氏
update 24/05/28
大心産業株式会社
橋本健司氏
大心産業株式会社 代表取締役 橋本健司氏
生年月日 1971年6月29日
プロフィール 高校卒業後、大阪の有名ホテルに就職。4年後、地元、大分のホテルに転職。奥様と出会い結婚。義父が飲食店経営を始めたことで、ホテルをやめ、サポートに入る。
主な業態 「炭火焼肉 韓国苑」「とんかつ五大」「もも炭火焼じんた」「コスタ・デル・ソルひじ」他
企業HP https://daishin-industry.com/

就職先は、大阪にある世界的なホテル。

母一人、子一人。橋本家は、たった2人の世界だった。
「台所と6畳だけでしたね。母は、からだが弱く、入院すること多かったので、家での生活は私1人ということも少なくなかったですね」。
今回ご登場いただく大心産業の代表、橋本さんは、1971年、大分に生まれている。
「母が私を産んだのは、27歳のとき。母はとてもやさしく、愛情深く、私を育ててくれました」。
運動会には入院先から駆けつけて声援を送ってくれた。豪華な食事がテーブルにならぶことはなかったし、TVゲームもなかったが、それで十分だった。
その一方で、中学生から荒れた時期があったと白状する。周りに迷惑をかけて、勉強もぜんぜんしなかったらしい。
大学進学も、視野にない。「同級生は就職先を三者面談を経て、吟味するわけですが、私は、独断で大阪のホテルに即決しました」。
「新卒で入社したのは、大阪の中之島にある老舗ホテルです。私は、レストランやバーでサービスを担当します。同期は、200人はいたかな」。
大分から大阪までは、500キロくらいだろうか。大阪での新生活は毎日が刺激的でしたねと、橋本さんはいうが、楽しかった時も頭の隅には故郷の母のことがあったはずだ。
「都会は何もかもが新鮮でエネルギーを感じました。給料は安かったですが、仕事が終われば、繁華街に繰り出す日々でした」。
案の定、トラブルも起こして上司や同僚に迷惑をかけてしまい、何度も辞めようと思ったそうだ。しかし、リスペクトする先輩に救われた。
「ストイックで、かっこいい人でした。私は、その先輩に大人の世界での強さとは仕事を磨くことだと教えていただきました」。
「先輩のおかげで、やり直すことができた」と橋本さんは、今も感謝しているそうだ。
世界的なホテルの裏側で繰り広げられてきた、もう一つの人間模様。

大分に凱旋。

大阪のホテルで3年。 「4年目に、大分に帰ります。大分のホテルをいくつか転々とするなかで、衝撃的な上司に出会い、従事します」。
「伝説のギャルソンです」と橋本さん。
「現在はフレンチレストランのオーナーで、今も現役でサーヴィスをされています。ギャルソンという仕事を人生をかけて追求しておられます。心から尊敬するプロフェッショナルな方です」。
今、橋本さんと話すと、威圧感は何一つ感じない。むしろ、温厚さが溢れている。だから、当時の話を聞いても、ピンとこない。ただ、こどもの頃から1人で生きてきた。強いことは正義だったのだろう。しかし、今は1人じゃない。
「勤務先のレストランでピアノ演奏にきた妻と出会い結婚しました。私は父親を知らなかったので、初めて父親と呼べる人ができました」。
奥様は、3人姉弟の長女。次女と、長男がいた。「初めて、妹も、弟もできて、1人っ子だったから嬉しかった」。
少し話を飛ばすが、義理の弟さんは今、専務として働いている。橋本さんの片腕だ。「子どもの頃、弟が欲しかったので可愛くてたまらない」と目を細める。
さて、お母様以外に、家族ができた橋本さん。とはいえ、まさか義父の頼みを聞き、ホテルを辞めるとは思っていなかったはずだ。「義父は建設業経営者で、仕事での縁はないと思っていましたが、まさかの焼肉屋やるぞ!ですしね」と、笑う。

ダブルでアクセル。

「まわりからは2人ともアクセルしかないと言われました。義父と私は性格が似ているらしいです」と笑う橋本さん。少し話をもどし、整理していただく。「今の本店は、もともと九州に60店ほどあった書店さんの一つでした。本の売れ行きが悪くなったので、焼肉店にリニューアルをしたそうです。大箱なのは、書店の名残りですね」。
150席はあるそうだ。
「書店さんが焼肉店をオープンしてしばらく、BSE問題が起こります。それで、経営が行き詰まり閉店。義父はそのタイミングで経営権を買い取り2003年の2月から韓国苑を開業しました」。
ただ、義父からすぐに協力要請がくる。
「義父が始めて2ヵ月後の4月に私が加わり親子タッグで経営を始めました」。
ホテルの経験はある。しかし、焼肉店は橋本さんにとっても初。どうだったんだろう。
「最初はいいとはいえないですね。以前の会社が経営していた時は、月商が200万円。義父にかわって360万円」。救いはBSE問題が終息し、韓流ブームが来たこと。
「当初の客単価はけっして高くないですね。大衆の焼肉店というイメージです。私達は、仕入れとメニューを根本から見直して、とにかく現場主義を貫きました。その後、夏には600万円。お正月には1000万円をクリアすることができました」。
ここでよく似た性格の、義理の親子のエピソードを一つ。
「義父の思いつきでレジの前に5坪くらいの箱庭をつくって、虎の置物だったり、松を植えて岩に水を撒いて。私はそれを撤去してキッズルームに変更して張り合ったり」。
アクセルをいつも踏んでいるから、「やる」と思えば、すぐにやる。そんな2人でつくりあげてきた本店は今、月3800万円の売上を誇る。

大ピンチを乗り越えて。

「義父との関係はいつもバチバチだった」という橋本さんだが、人として導いてくれたのは義父。「師であり恩人」ともいっている。10年ちかくは義父と二人三脚。現在は、大分県を中心にレストラン経営・食品製造卸業・温泉施設・オンラインショップ・不動産業など様々な事業を展開するまでになっている。
創業のブランドである焼肉店「韓国苑」は、焼肉激戦区の県内にて8店舗を展開。売上シェアは、県下でNO.1とのことだ。
「韓国苑」以外にも「とんかつ五大」「もも炭火焼じんた」など5ブランドを展開。
勢いはとまらない。しかしスタートダッシュであらぬ方向にも行っている。
「創業者の義父も私も直感的に行動に移すタイプだから、最初にガーーといっちゃったんですね。義父はこっち、じゃぁ、私はこっちって、バンバン店舗をだして」。
「それでも、6店舗までは右肩上がりだったんですね。だから、創業者も、私も、イケイケドンドンで好きなことができたんでしょうが」。
「ツケが回ってきた」というのは、今から10年前というから2014年くらいのこと。「資金がショートしちゃって。倒産の危機に陥ります」。
強気一辺倒の、創業者と橋本さんが頭を抱える。「自転車操業が2年は続きました。何度も深刻なピンチがありましたが、覚悟を決めて初心に帰り、一から事業計画を見直して再興を目指しました」。
なんとか、ふたたび軌道にもどすことができた。無論、弟さんの存在も大きかったのではないだろうか。
「弟は、私と義父とはタイプが異なります。冷静に物事を見ることができる。もし私が暴走してもちゃんとブレーキを踏んでくれます。多角的に仕事ができるし、数字も強く心強いビジネスパートナーです」と弟さんのことになると、手放しで絶賛する。
今や、橋本さんと、弟さんがダブルエンジンだ。
「人を育て組織の礎を築く。そして弟にバトンを渡す」これが、今の橋本さんのビジョン。
ちなみにホームページを観ると、橋本さんが箱庭をつくり直したことがきっかけになった大型キッズルームが現れる。かなり広いようにみえて、ここにもやはり橋本さんの、広い心と、イケイケの性格が表れている気がした。
1人の寂しさを知っているからこそ、みんなといっしょに。ともだち同士はもちろん、カップルで、そして、特にファミリーで来店くださるご家族に心を寄せる。大型キッズルームは、その証といえるかもしれない。

思い出のアルバム
 

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