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第1015回 株式会社浜木綿 代表取締役社長 林 永芳氏
update 24/06/28
株式会社浜木綿
林 永芳氏
株式会社浜木綿 代表取締役社長 林 永芳氏
生年月日 1948年3月19日
プロフィール 大学卒業後、家業である「浜木綿」に入社。専務を経て、社長に就任。父が創業した「浜木綿」を育て、株式上場を果たす。ちなみに、浜木綿は、温暖な海浜で見られる海浜植物であり、宮崎県の県花とされている。
主な業態 「浜木綿」「中国食堂はまゆう」「四季亭」「桃李蹊」
企業HP https://www.hamayuu.co.jp/

戦後、一輪の花との出会い。

1945年、終戦の年、素敵な出会いがあった。
台湾人のお父様と、台湾に渡りカフェで働かれていた日本人のお母様が出会われている。
「父は台湾人で、日本に帰る母に『絶対、日本に行く』といい、半年後に約束通り、母の前に現れたそうです」。
通常のルートでは日本に来ることができたなかったお父様は砂糖船で海を渡ってこられたという。
「砂糖船だったから、それが縁で、キャラメル工場を始めたそうなんですが、キャラメルがうまく作れず倒産してしまったといいます。残念な話ですね」。
その後、お母様の実家がある京都に移り住んだそう。
「京都で父は、映画村がある太秦などで運転手の仕事をしていました。美空ひばりさんを乗せたこともあるそうです。私にも、当時の記憶が微かにあります」。
上記が、今回、ご登場いただいた林社長の小さな頃の話。ちなみに、絵を描くのが好きで、「漫画家になろう」と思っていたそうだ。
描かれていたのは、どんなストーリーの漫画だったのだんだろう。もう林社長の記憶のなかにしか残っていない。

名古屋に、咲く、浜木綿。

時を経て、昭和42年、お父様は名古屋市瑞穂区で、中国料理「はまゆう」を創業される。なんでも、中国料理が儲かると、親戚からアドバイスされたからだそう。
「京都から、今度は名古屋です(笑)」。
当初はひらがなの「はまゆう」だったが、のちに、漢字の「浜木綿」に置き換わっている。著名な書道家の先生に描いていただたそうだ。こちらにも、素敵なストーリーがある。
「父が日本に降り立った時、海岸に咲きほこっていたのが、浜木綿だったらしいんです。浜木綿は可憐な花ですが、芯がつよく、生命力にあふれている花だそうです。父はそこに惹かれ、会社も、浜木綿のようになって欲しいと、その花の名をつけたといっています」。
海岸に凛として、咲き誇る浜木綿。そのシーンは今に、つながっている。
「父が『はまゆう』をオープンする頃には、私も、名古屋の大学に進んでいます。仕事は、私もサポートしました。長期の休みになると、友達をかき集めて、手伝ったりしてね。小さな店でしたが、太秦時代の縁で、大俳優の鶴田浩二さんがいらしてくださっていました」。
人気だったが、当時中国料理というのは蔑視されていると、お父様には映っていたようだ。だから思い切って、だれにも蔑視されない店をつくろう、と新店をオープンされる。
それが、2号店。
旗艦店が誕生する。
「オープンから、たくさんお客様がいらっしゃり、ありがたいことに、忙しくて大変でした。チャーハン、酢豚、一番人気は、ニラレバ。こちらが大ヒットします」。
セールスは好調だったが、反面、運営は、難しくなる。
「当時は、シェフともめると、翌日には部下を連れていなくなる。総上がりっていうんですが、つまりはシェフの気分次第で店からいなくなるんです。もちろん、シェフが変われば、味もバラツキます。そういった点で、人気店になったぶん、苦労したように思います」。
だからだろうか。
2号店から、3号店出店まで時間があく。
ホームページの沿革によれば、昭和42年、中国料理「はまゆう」(現「浜木綿」新瑞橋店)創業。翌年に株式会社浜木綿を設立し、中国料理「浜木綿」山手通本店を開店。
ただ、3号店は、昭和60年、名古屋市昭和区に中華喫茶「点心」を開店となり、17年あいている。
昭和60年というと、林社長もすでに37歳になられている。

社長、就任。

「当時、私は専務として勤めていて、38歳の時に、父が怪我をしたこともあって、社長を交代。39歳の株主総会で、正式に社長に就任しています」。
「社長に就任してから、方針も色々とかえていきましたが、子どもの頃といっしょで父からは何もいわれませんでした。好きにやりなさい、と。そういう父でしたから、私も全力で取り組めたんだと思います」。
「苦労ですか? たくさんしました。総上がりも2回経験しています(笑)」。
当時、中国料理は、チェーン化は無理だと言われていた。料理人の体質も、理由の一つ。「当時は、シェフが部下を連れて、入店します。私らは、シェフに全員分の給料をまとめて払い、シェフが連れてきた料理人に配分するんです。だから、シェフが絶対で、シェフが辞めるといったら、みんなでごっそり、抜けだします」。
これが、総上がり。
「とくに困ったのは、新しいシェフになると、味が変わってしまうことです。だからチェーン化なんて無理って言われていたんです(笑)。でもせっかく、中国料理にめぐりあって、ここまで来たんだから、今のままで終わりたくない、とは思っていました。野望というより、必然というか。そういう思いでしたね」。
ただし、長く、逡巡されたそうだ。
「なんのためにやるんだってね。だって、新たに店を出すとなれば、借入もしないといけない。リスクがある。それまでして、なぜ、出店するんだって」。
社長になってなってからも、答えをさがしつづけた。同友会にも入り、セミナーにもでかけた。
「一番大きかったのは、哲学者でいらっしゃるんですが、芳村思風先生に出会ったことですね。先生に影響を受けている人は多いと思いますよ」。
同友会では経営指針を発表する。
「そういうのも初めてで」。
だんだんと、浜木綿が育つ。いや、林社長が育ったといったほうがいいだろうか。ともかく、今までとは、異なる環境が整いはじめた。

林社長が、進む道。

「一つは、料理人を育てると決めたことですね。今までは、社長にギャランティなんかなかったわけですよ。だって、給料はぜんぶ、シェフが配分していましたからね」。
料理人を育てる。つまり、社長と、末端の料理人まで、心の配線をつなぐ。セントラルキッチンも設けた。
「本格的にチェーン化をめざしたのは、5店舗目の名古屋インター東店をオープンした時ですね。チェーン化するんだと、私の腹も決まりました」。
チェーン化と、株式の上場。もう迷うこともない。アクセルを踏んだ。
「そりゃ、いい時ばかりじゃありません。昔なら、そのたびにブレていたでしょうね。じつは貿易もやったし、建築にも関心があったんです。でも、もう中国料理でいくって決めていましたから」。
採用した従業員も、いる。育ててきたメンバーたちだ。社長が、ブレるわけにはいかない。
「上場も、リーマンショックの時に一度、挫折しているんです。準備万端だったんですが、どうしようもない。7年間は業績の立て直しに奔走して、上場どころじゃなかったです(笑)」。
ただ、年表をみると、着実に店舗数を拡大している。
「上場までだいぶ時間がかかりました。ただ台湾人の父が、料理店を始めて。それが中国料理で。オープンしたのは、日本という異国で、です。父はいくつかの種を蒔き、そして私が、その花を咲かせた。まだまだ大きくしていかないといけないです」。
浜木綿の、大輪の花が咲く。
「ただ、今はまた、難しい時代ですよね。何から何まで物価が上がっている。建設費もバカ高くなったから、出店もなかなか難しい。新しいモデルを作らないといけないかもしれないですね」。
難しい、と言いつつ、林社長の表情は、時代の変化を楽しんでいるようにもみえる。そういえば、浜木綿は、可憐だが、芯がつよい、という話を思い出した。

思い出のアルバム
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新瑞橋店外観 高校時代
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妻と 旭日双光章
大村知事と
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