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第1016回 株式会社Baybridge 代表取締役 呉屋良介氏
update 24/07/02
株式会社Baybridge
呉屋良介氏
株式会社Baybridge 代表取締役 呉屋良介氏
生年月日 1989年12月8日
プロフィール 大阪市鶴見区に生まれる。中学校までは順調に進みながら高校は1年で中退。「クルマ買ってやるから」に釣られ単位制の高校へ通い卒業。その高校時代にお好み焼き&もんじゃ焼き店でアルバイトをしたのが飲食業へ進んだきっかけに。以後、たこ焼き居酒屋を経て、たこ焼きとおでん くれ屋を運営。4店舗のマネージャーを経験後独立、銘柄豚専門のとんかつ屋を運営。
主な業態 「ニューベイブ」「ニューピエロ」「ニュークレヤ」「宮川豚衛門」
企業HP http://newbabe.jp/
世界中に“とんかつ”に類似した料理は数多くあるが、日本での“とんかつ”の起源は1895年、銀座『煉瓦亭』の木田元次郎が豚肉を使って“ポークカツレツ”を提供したことといわれている。その約30年後の1929年、上野御徒町『ポンチ軒』の島田信二郎が、“ポークカツレツ”を“豚かつ”として提供、これが“とんかつ”として広く定着して現在に続いている。
好きな食べ物の上位にランクされる“とんかつ”。ここに厳選した銘柄豚、調理方法にこだわり“美味しいとんかつ”を提供している男がいる。

厳選した銘柄豚を、より美味しくいただけるとんかつ屋。

「“美味しいとんかつ屋さんを作りたい!”と考えて、2021年2月に『New Babe』を開業しました。現在、直営店5店舗、FC店3店舗を運営しています」。そう語るのは銘柄豚専門のとんかつ屋を運営する株式会社Bay Bridgeの代表取締役・呉屋良介氏。現在34歳、新進気鋭の経営者だ。
銘柄豚とはどんな豚なのか?国内で銘柄豚として知られているのは、鹿児島の“黒豚”、沖縄の“アグー豚”、東京の“TOKYO X”など全国に400種ほど。
「弊社が取り扱っているのは、その中で50種ほど。今では “林SPF”“サドルバック”“TOKYO X”など順次10種類くらいの中から、状態の良い固体を3〜4種類ほど提供しています。これらの銘柄豚を低温調理。極厚でも美味しくいただけますし、10種類の調味料を用意するなど、銘柄豚ならではの美味しいとんかつを目指して取り組んでいます」。
―いきなり、とんかつ屋を開業したわけではないと、伺っていますが。
「ええ。17歳のとき、個人営業の店ですが、お好み焼き&もんじゃ焼き店でアルバイトをしたのが、飲食業の第一歩になりますね」。
呉屋氏がとんかつ屋経営に乗り出すまでの時間を遡り辿ってみよう。

学校+設備現場職+飲食店=三足の草鞋で奮闘の日々。

「生まれは、大阪市鶴見区です。小学校から中学校、そして工業高校まで地元の大阪ですが、高校は一年で中退、その後、単位制の高校に通いました。単位制の高校に通ったのは、クルマに釣られたからなんです。まるで、“馬にんじん”ですよね」。
―どういうことですか?
「叔父が、“高校くらいは卒業しろ。卒業したらクルマ買ってやるから”と言ったものですから……」。
当時、設備断熱系の現場職をしていた呉屋氏。学校は毎日出席する必要はなく時間があったため、現場職とは別にお好み焼き&もんじゃ焼き店でのアルバイトを兼務。収入は学費に充てたとのことだ。
「当時の月収は、20万円くらいでした。無事に卒業したのが20歳の時でしたが、それまで現場職も続けていました」。
呉屋氏は当時の生活をこともなげに口にするが、毎日ではないにせよ学校に行き、現場職をこなし、個人店とはいえお好み焼き&もんじゃ焼き店での朝5時までのアルバイト。体力的にはかなりきつく辛かったのではないかと、老婆心ながら心配にもなる。
ここに転機が訪れる。アルバイト先がリニューアルのため、男性スタッフを辞めさせることになり、職を失ってしまったのだ。
「仕事、探さなければ……」。

“目から鱗”。飲食業の楽しさ、面白さに大刺激。

一回目の転機が訪れた。
「仕事がなくなるということは、イコール収入がなくなるということですから、当然ですが、困りました。誰だって同じですよね?」。思いもよらぬ苦境に立たされた呉屋氏、新しい職場を見つけ、採用された。
「JR京橋駅から徒歩2分ほどの京橋に『リッチマン(RICHMAN)』という、たこ焼き屋がルーツの居酒屋があり、そこで働くことになったんです。ファッションにも寛大だったですし……」。
―ファッションですか? 「ええ。少しやんちゃなお店だったんでしょうね。タトゥーのいっぱい入ってる人も働いていました。当時19歳ですが僕もドレッドヘアーでしたが大丈夫でした」。
―楽しかった?
「この店、朝7時(!)まで営業していたんです。お客さんとの距離も近く、お酒を飲まされたり、会話をしたりで楽しい雰囲気イッパイの店でした。この店で飲食の楽しさを教えて貰ったと思いますね」。
「この店に入ったのが19歳でして、アルバイトを経て社員になり、3年ほど働きました」。
―労働時間や待遇は?
「夕方16時から翌朝8時過ぎまでで休みは月6日ほど。初任給は25万円ほどでした」。
−ところで、叔父さん、約束通りクルマは買ってくれた?
「無事に卒業できたので買ってくれました。ただ、あまり運転する機会もありませんでしたし、事故ったので廃車にしちゃいました」。
日々、楽しく働いていた呉屋氏に、独立し自分の店を持ちたいという願望が頭をもたげてきた。

独立を決定づけた『SASAYA(ささや)』との出会い。

「『リッチマン(RICHMAN)』で働きながら、そう遠くない将来、独立しようと物件を探していたんです。その最中に『SASAYA(ささや)』に出会ったんです」。
―『SASAYA(ささや)』って、『株式会社SASAYAホールディングス』のことですか?
「そうです。とてもユニークな会社なんです。この会社に出会ったことが独立を決定づけたと言っても、過言ではないでしょうね」。
『株式会社SASAYAホールディングス』とは、どんな会社なのか。同社との関係を抜きにして呉屋氏の現在は語れない。そこで、やや脇道に逸れるが、同社について簡単に説明いただいた。
「ホールディングスという社名からですから、複数の会社の集合体です。大阪の二大繁華街として知られるミナミの難波、心斎橋、日本橋。もう一方のキタの梅田、曽根崎、お初天神などで、焼肉、焼鳥、鉄板焼き、大衆酒場、定食屋など多彩な業態で77店舗ほどを運営している会社です」。
―大規模な会社なんですね。そこで、先ほどユニークな会社と仰いましたが、どのような点がユニークなんでしょうか?
「分かりやすく言えば、自分の店舗を五つ作ったら分社化する画期的なシステムをとっている会社なんです。基本的には、入社して自分がやりたいことをプレゼンし実際に取り組み、分社可能まで店舗を増やしたら、独立できるんです」。
「入社したのが22歳でした。最初は、イタリアンをベースにした竹炭生パスタや黒地鶏や河内鴨、ワインを揃えた『炭屋キッチンやまや』で働きました。ここで、山下さんという9歳年上の先輩にイロイロと教えていただき、とてもお世話になりました。ボクにとっては師匠ですね」。
入社した呉屋氏の職場は、以前のたこ焼き居酒屋『リッチマン(RICHIMAN)』の経験を生かせる『たこ焼きとおでんくれ屋』という店をプレゼンし作ってもらい、店長として携わった。当時23歳、最年少店長だった。
―何年、勤めたのですか?
「七年ほどですね」。
―独立しようと思ったのは、いつ頃?
「先ほども話しましたが、自分の店を5店舗持ったら分社化するシステムでした。当時、餃子1店舗とたこ焼き3店舗を運営していて5店舗目に差し掛かろうとしていた時期でしたので、そのタイミングで独立しようと決心しました。30歳のときです」。
「今にして思えばこの7年間の経験は、自身の成長という点でもの凄く大きかったと実感しています」。
そして、二回目の転機になった『株式会社SASAYAホールディングス〜たこ焼きとおでんくれ屋』を経て独立。三回目の転機となった。

2020年1月。新型コロナ大流行中の開業から“とんかつ屋”へ。

「独立、開業したのは新型コロナ感染者が初めて日本で確認された2020年1月のことです」。
開業場所は大阪市大正区。資金は呉屋氏が用意した資金と国民生活金融公庫からの借り入れで賄った。
「8坪+8坪の二階建て物件で家賃は12万円ほど、比較的安かったと思います。従業員は『たこ焼きとおでんくれ屋』から一人連れてきてボクと二人とで始めました」。
―開業当初から“とんかつ屋”だった?
「最初は、たこ焼き立ち飲みのような居酒屋業態でした。ただ、開業時期としては最悪でしたね。コロナが流行りはじめていましたから」。
―対策は講じましたか?
「先を見越して500円のお弁当を作り、従業員と二人で地理もよく分からないなか、工業地帯などに配達していました。利益なんてなかったに等しいですね。あっ!その間、お店の営業は止めていたんですが……」。
―コロナで本来の営業ができなかったわけですが、資金的にも厳しかったと思います。緊急事態に対応した補助金は申請されたのですか?
「最初はできませんでした。補助金の申請には前年の売上実績が必要だったのですが、その売上がないのですから申請要件を満たすことができず、無理でした。後に緩和されて補助を受けることができましたが」。
呉屋氏は、こうした悪条件にもメゲルことなく2店目の出店を叶える。2022年10月のことだ。
「まず資金は国民生活金融公庫のコロナ融資を受け用意することができました。場所は大阪市中央区の谷町。面積8坪でした」。
―ここから、とんかつが始まるのですか?
「いいえ。最初は豚料理の居酒屋を考えていましたが、オープン準備期間に立地的にランチを提供したほうがいいのでは、と考えました。そこでランチに“とんかつ”を提供することを決め、銘柄豚を使うこと、銘柄豚の地域の特色を活かすこと、揚げ方や衣にこだわることで差別化することにしました。夜営業では豚料理を提供していて、とんかつはミニトンカツ程度だったのですが、とんかつを食べたいと言うお客様も多かったため、とんかつ一本に振り切りました」。
ここで、一気に方向性〜厳選した銘柄豚を使った“とんかつ”〜が定まった。
「とんかつってポピュラーな食べ物ですが、詳細にみると地方地方で違いがあるんです。食材や豚を学ぶため、とんかつを学ぶために、地元大阪だけではなく、東京の店まで食べに行くなど、とんかつに関する引き出しを増やすことにエネルギーを注ぎました。違いの例なんですが、たとえば“衣(ころも)”。大阪では高温の油で揚げるため固く、痛いくらいなんです。翻って、関東〜東京は柔らかいんです。当社では関東を中心とした豚と揚げ方にこだわっています」。
冒頭で紹介したように直営店5店舗、FC店3店舗を運営している。急場を凌いだお弁当の販売は、現在はしていないとのこと。
飲食業に携わって楽しいこと、愉快なこと、苦しいこと、辛いことを体験した呉屋氏は、自身の理念を、こう口にする。
「飲食業は、労働時間や拘束時間の長さだったり待遇面だったり、どうしても“マイナス”のイメージが付きまといます。そんな概念やあり方を変えて行きたいです」。
同社を設立するまで三度の転機を経験した呉屋氏。氏が発する言葉は、ただひとつ。「勉強になった!」

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