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第1025回 株式会社元天コーポレーション 代表取締役社長 水野起業氏
update 24/07/16
株式会社元天コーポレーション
水野起業氏
株式会社元天コーポレーション 代表取締役社長 水野起業氏
生年月日 1963年8月2日生
プロフィール 12歳から新聞配達を始め、中・高一貫してバイト人生。高校卒業後、営業会社を中心に点々として、「ゴルフ会員権」を仲介する会社を起業。バブル経済の下で、13年、走り続ける。その後、飲食の世界へ。6坪で儲ける「たこ焼き店」をみて、これだ!と、友人とともに、たこ焼き店の経営を開始する。
主な業態 「元天ねぎ蛸」
企業HP http://www.negidako.com/

看板メニューはネギ蛸。

たこ焼きは、旨くて、定番。だから、浮き沈みがない。むかしはソース味だけだったが、今は、しょうゆ、マヨネーズ、ポン酢、塩と、進化している。
ねぎと蛸。たこ焼きの主要なパーツは、やはり、このふたつ。ねぎは、彩りにもいい。「だったら、ねぎをあとから、ふりかけたらインパクトもあって、ええんちゃう?」。
青々したねぎが、たこ焼きにたっぷり散りばめられる。
「乗せ放題にしとったからね。ねぎをいっぱい仕入れて、最初は店で切っとんたんです。そりゃ、たいへん。評判になって、切る時間もなくなって(笑)」。
今ではねぎがトッピングされたタイプのたこ焼きもめずらしくない。
「絶対とは言えませんが、あれを最初に始めたのは、たぶん、私。もともと素人やから、できたんちゃうかなと思っています(笑)」。
たしかに、ねぎのトッピングは、異次元の進化。
今では、このスタイルも定番のひとつになっている。
「うちは、この『ねぎ蛸』が看板メニューです。ほかになかったからインパクトもあったんですが、いまは『ねぎかかっているだけやん!』みたいな(笑)」。
「それだけちゃうで、うちは、といいたいんですが」。
その後も、笑いながら、いろいろな話をうかがった。
社名の話になると、「中国の会社と間違われます」と、こちらの笑いを誘ってくる。さすが、関西人。で、「それだけちゃうで、うちは」のつづきはこうなる。
水は電解還元水、小麦とネギはもちろん、国産。主役の蛸は、新鮮な生蛸。「生の蛸をつかっているのは、めずらしいです。こっちのほうが断然、うまいんです」。
ただし、材料を厳選するぶん、原価が高くなる。「みなさん、粉もんやから、利益率が高いと思ったはるでしょ。でもね、うちみたいに水からこだわっていたら、原価は、想像以上に、高いんです。でも、そのぶん、おいしいって、いうてくれはるからね」。
関西弁が、耳にここちいい。飾らない人柄が、声にのってやってくる。さて、遅くなったが、今回は、「ねぎ蛸」が旨い、元天コーポレーションの代表、水野さんにご登場いただいた。

12歳から、働く人生。

「ちっちゃい頃は、おやじが商売をしとったんです。従業員も10人くらい抱えていましたから、ええ時もあったんでしょうね。でも、私が小学生にあがってから倒産して、両親は離婚。兄妹は、姉と弟の3人。みんなで母親についていって、ちっちゃいアパートで生活します」。
アパートがあったのは、「今里」。大阪のなかでも、ディープな街の一つ。
「なんでかしらんけど、今里だけ物価が安い。私は、中学から新聞配達を始めるんですが、今里はバイト代も安かった(笑)」。
新聞配達は、朝5時から。ねむい目をこすりながら、走り出す。
「勉強は、アホやなかったけど、『できる』ほうでもなかった。ただ、スポーツはできた。小学生の頃は今でいうボーイズリーグで野球をしていました。ピッチャーで6番。けっこう強いチームで、甲子園にでた仲間もいます。私もそれなりやったんですが、何しろ金がない。私学の強豪にいかんと、プロにはなれへん。だから、ふつうの公立に行って、バイト1本です」、
好きな野球と離れ、どんな思いで朝の町を走っていたんだろうか。
「あのね、大人になってもそうなんですが、苦労を苦労と思わない性格なんです。鈍感いうたら、そうなんでしょうが、母親の苦労をみていましたから」。
バイト代は、月2万円。うち1万円を母親に渡した。
「残り? 残りはあそんでたんやろね」。月1万円、中学生にしたら大金だ。ちなみに、水野さん。「12歳から、働く人生」と言っている。

となりは、6坪のたこ焼き屋さん。

高校に進学してからも、もちろん、「働く人生」は続く。
「学校が終わって、夕方5時から晩の10時まで喫茶店で仕事をしていました」。時給600円。1日3000円。30日働けば、けっこうな額になる。
子どもが大きくなるにつれ、お母様も、楽になっていかれたことだろう。
「それは、どうでしょうね。少しは楽になったんかな。母から、弱音を聞いたこともない。だから、ようわからんですね。自分で仕事をしとったから。真面目な人で、私ら兄妹にも『人の3倍働かな、あかん』っていっていました」。
小学生のボーイズリーグ時代の話。
「最後の試合だけ観に来てくれた」という。大好きな息子が投げる豪速球を、お母様は、どんな風に観ておられたんだろうか。
高校を卒業した息子は、さらに遠い存在になっていく。
「ゲーム喫茶を経営している会社に就職します。当時で月給23万円。むちゃくちゃ高い。せやけど、さすがにちょっとやばいんちゃうかって思うようになって。給料と、天秤にかけたんですけど、やっぱり、やばいと逃げ出します」。
<それから、どうしました?>
「25歳で独立するまで、職を転々としました。営業職が多かったですね。最初に起業したのは、ゴルフ会員権を売買する仕事です。これを、13年続けます」。
ちょうど、バブルの頃、さぞ儲かっただろうと思ってうかがうと。「波にのれんかった」と笑う。なんでも、お金がなかったから、大きなビジネスはできなかったらしい。
「でもね。会員権を買い取って、おっきな仕事しとった会社は、みんなつぶれました。私らは、そのぶん、長く仕事ができたと思っています。まぁ、長くは続けたけど、借金もできて、また、新聞配達からやり直さなあかんようになってしまうんですが」。
新聞配達ではなく、縁があって、フードコートの飲食店を委託されることになる。「ラーメンから丼まで、なんでもある30坪の、わりと大きなショップです。その隣にあったのが、たこ焼き屋だったんです」。
たこ焼き屋は6坪。だが、やたら儲かっている。

焼きまくれ。

「6坪しかないたこ焼き屋の業績がむちゃむちゃいいんです。しかも、単品でしょ。こりゃええわ、と、その店の店長と仲良くなって、いろいろ聞いたら、益々、ええやん!ってなって」。
「たまたま、高校時代のともだちが大阪でたこ焼きの店をやっとったんで、いっしょにやろうやって。で、合計3年、そいつといっしょにやっていました」。
「そいつが『ラーメンをやりたい』いうて出ていったんで、けっきょく私が残ります。『たこ焼きだけでええやん。ラーメンもって、そんなんいっしょにようせんわ』、これが私の言い分でした」。
ホームページをみると、創業は2002年になっている。もう、20年以上続いている。創業店の時からいっしょに仕事をしてくれているスタッフがちゃんと経営幹部にも育っている。
今後の話も聞いてみた。
「一つは、ネットショップですね。力を入れたいんですが、なかなかうまくいかない。冷凍のたこ焼きです。インスタグラムで広告とかもしたんですけどね」と笑う。
あけっぴろげなところも、水野さんらしい。
「冷凍いうても、むちゃくちゃ旨いです。冷凍の技術ってすごいレベルまで上がっているんですね。店で食べるのとちがわない。経営者やからいうわけやないんですが、ほんま皆さん、一度食べてみてください」。
たかがたこ焼き、されどたこ焼き。感動すら覚える、たこ焼きもある。
「今後は、東京が、出店の主体になってきます。じつは、たこ焼きだけではなく、たこ焼きとアルコールとか。たこ焼き居酒屋ですね。メニューは、たこ焼きにプラス、大阪、浪花の味で勝負します。どてやきも、ラインナップします」。
コテコテの大阪が、セールスポイントになれば面白い。
「初めて、東京に来た時、大手のたこ焼きチェーンに追いつけ、追い越せでね。向こうは行列ができているから、こっちは『お客さんを待たすな、とにかく、焼きまくれ』って。ハッパをかけとったんです」。
大手チェーンは、わざと行列をつくらせていたらしい。そうとは知らずにとにかく、「焼きまくれ」といった水野さん。戦略的に、いいかどうかはわからないが、お客様を待たせないように「焼きまくれ」とハッパをかけている水野さんを思い浮かべると、口元が緩む。
せっかちな関西人は、待つのも大嫌い。昭和が令和になってもそれはかわらないだろう。令和の時代に、昭和の定番、たこ焼きで勝負する。案外、人間性がものをいうのかもしれない。

思い出のアルバム
 

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