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第1030回 有限会社フュゼ 代表取締役 中村志郎氏
update 24/07/30
有限会社フュゼ
中村志郎氏
有限会社フュゼ 代表取締役 中村志郎氏
生年月日 1971年6月2日
プロフィール 商社マンだった父の海外赴任に伴い、幼少期を海外で過ごす。日本に帰国後、一時は成績が振るわない時代もあったが、とある個人塾の塾長との出会いから成績はみるみる向上。都内の進学校を経て早稲田大学経済学部に入学、新卒で東証一部上場企業に入社するも1年で退職し、1996年に友人らと「バニラビーンズ」を開業した。雰囲気のある隠れ家的ダイニングを得意とするほか、魚介料理がメインの「築地魚一」を2店舗展開。
主な業態 「バニラビーンズ」「shibafu」「くあるた」「築地魚一」
企業HP https://vanillabeans.owst.jp/
たたき上げの経営者が多い飲食業界にあって、『海外生活』『早稲田大学』『上場企業』というスマートな経歴が目立つフュゼ代表の中村氏。一方で未経験の飲食業界に何の躊躇もなく飛び込む大胆さや、新店舗の内装を自分たちの手でコツコツと仕上げていく忍耐力といった多面性を持つ人物だ。「お金だけの問題なら簡単」と言い切る中村氏の魅力と、その背景に迫る。

ホームパーティとDIY、ゼロから生み出す楽しさ。

商社マンだった父の海外赴任に伴い、4歳から8歳までをオーストリアのウィーンおよびチェコスロバキア(当時)のプラハで過ごしたという中村氏の幼少時代の話からは、質素ながらも精神的な自由さにあふれ、なんでも手作りする喜びを感じさせるエピソードが多い。
「オーストリアでは広い庭を利用したガーデンパーティなど、ホームパーティが一般的でした。なんでもホームメイドでサクランボパイも自宅の庭のサクランボを利用したものだったり。パンも素朴だったし、ハムも美味しかったですね。気軽に人を呼んで、みんなで楽しむ。そういうのがごく普通でした」。
「チェコスロバキア時代の家の大家さんが、自分で家やワインセラーも作るような、何でも手作りする人だったんです。当時のチェコスロバキアは社会主義国だったので、両親は私を一般の学校には通わせず、週何回か家庭教師に来てもらっていました。だから(空いた時間には)シャベルを持って、大家のおじさんと一緒に何か作ったりして。それが今の自分につながっていると思います」。
『三つ子の魂百まで』と言われる通り、幼いころの経験はフュゼの店舗作りやメニュー構成に大きく影響しているようだ。

オグラ塾長との出会い、そして父の死。

小学2年生の時に日本へ戻ってきたという中村氏。中学時代の成績は、本人評価でいうと中の下くらいだったという。特に反抗期を迎えることもなく、比較的自由に育てられたが、当時は校内暴力全盛期。友達だからと不良グループの抗争になんとなく付き合って、警察に補導されたこともあったそうだ。そんな時に出会ったのが、個人塾「オグラ塾」のオグラ塾長だった。
「『お前、集中力があるな』って、進学クラスに誘ってくれたんです。それから成績が伸びたんですよ」。
良き勉学の師に出会えた中村氏は、無事都内の進学校に入学。3年後には早稲田大学経済学部に現役で合格している。しかしすべてが順調だったわけではない。中村氏が高校生の時に父親に胃がんが見つかったのだ。治療で完治したかと思いきや5年目に再発。手術を繰り返すも、病は父親の身体をむしばみ続けていった。
「それでも大丈夫だと思っていました。自分の親が死ぬというイメージがつかなくて、その時は(状況が)よくわからなくて。父はどんどん痩せていったけど、それでも大丈夫だろうと」。
「大学2年の時、自宅にいた父が血を吐いたんです。でも病院に運ばれた後も、自分でパジャマを着替えたりできたんですよね。ところが、母と姉が自販機に飲み物を買いに行ってる間にものすごい量の血を吐いて、ぐっと白目になってバタッと。モルヒネとかそんなの、間に合わなかったです」。
父親の壮絶な死を目の当たりにした中村氏が受けた衝撃は、察するに余りある。

就職と独立。

父亡きあと、「とにかく一度はきちんと就職してくれ」という母の願いで就職活動を開始。いくつかの内定の中から川崎重工業を選び、1995年に入社した。折しもその年の1月に阪神・淡路大震災が発生。新入社員研修後の5月、中村氏は震災の爪痕が色濃く残る神戸の地に配属された。営業職で採用されたものの、震災後の混乱から人手が足りなかったことから、自転車やスクーターで自治体に資料を届けるなど小間使い的な仕事が多かったという。
「こういうと語弊があるかもしれませんが、作業着を着て災害現場を回っていた時は面白かったですね。もう余震はなかったんですが、町の人からも『人間、いつ何があるかわからんで』と言われたり。そういうのを見て、自分の好きな事をしたいって思ったんです」。
5か月の神戸配属を終えて東京へ戻った中村氏は、その2か月後の12月末に会社を退職。学生時代の先輩と軽いノリで「店でもやるか」と以前から話していたこともあり、無国籍居酒屋を作ることになった。
「先輩と私、従妹の3人で店を始めることにしました。従妹の母である伯母が六本木で飲食店を経営していたので、彼女の名義で融資を受けることができたんです。伯母も『儲からなかったら給料はないよ』という感じで、応援してくれて」。
こうして誕生したのが、二子玉川の人気店「バニラビーンズ」だ。ちなみに中村氏は飲食店でのアルバイト経験はあるものの、忙しすぎてすぐに辞めてしまったという。ほぼ未経験での独立。大胆というほかない。

スケルトン物件をたった200万円でカタチに!

若さとは無謀な反面、なんと可能性に満ちあふれているのだろう。素人3人が選んだのは、新築の地下物件でスケルトン、さらに駅からも少し距離があるという、飲食店として使うには難しい立地だった。しかも当時の二子玉川は商業エリアとしては未発達で、その周辺も中華料理店や定食屋が点在するだけだったという。
「大家さんが理解のある人で、素人が作るのを応援してくれたんです。だから200万円で始めることができたし、家賃は37万円、坪当たり2万円しなかったですね」。
手元の資金が限られていたことから、3人で協力しながら内装や配管類を整備していった。DIY文化の国で幼少期を過ごした中村氏。金をかけずに店を手作りするのはある意味自然なことかもしれないが、スケルトン物件を200万程度でセルフビルドしてしまったというのは見事としか言いようがない。一方、料理に関しては、師匠と慕うフレンチのシェフにその基本や心構えを教わったという。

お金だけの問題なら簡単。愛している人が死ぬ方がつらい。

多くの支援者を得て順風満帆な滑り出しのように見えたものの、現実はそう甘くはなかった。1年目の月給は手取り5万円、2年目でも13万円と厳しい状況が続き、2人の仲間も「これじゃ食っていけない」と店を去っていった。上場企業という安定した職場をさらりと捨て、いとも簡単に独立してみせた中村氏が初めて直面する困難。普通の若者ならここで音を上げてもおかしくない状況だ。しかし彼は違った。
「あの時、『これがダメだったらどうするか』を考えました。ちょうどアントレ(独立・開業・起業等の情報サイト)の担当者と話す機会があって、自分が抱えている問題は何かを考えたんです。問題はお金。お金だけクリアしたらオールクリアだと思いました。お金だけなら簡単ですよ。愛している人が死ぬ方がよほどつらい。それに普通の人はお金を払って料理の勉強をしに行くけれど、ここにいたらお金をもらいながら勉強できるし、効率がいいじゃないか、ってね」父親の死と災害復興現場での経験が、「命の大切さ以外は些細なこと」と割り切れる彼の強さを育んだのだ。
それから中村氏はワンランク上の人気店を食べ歩くようになった。『売上げを伸ばすには、売れている店を知ればいい。高級店と同じ料理を低価格で出せば人は来るはず』というシンプルな発想だ。
本人は「パクリの精神ですよ」と笑うが、生半可な模倣でお客様を満足させることなどできるわけがない。さぞや注意深く、徹底的に調査と研究を重ねたことだろう。おそらくオグラ塾長が開花させた中村氏の集中力も役に立ったに違いない。
それから10年ほどたったある日、知り合いに「(店の紹介が)出てるよ」と教えてもらった東京レストランガイド。そこには高評価を得た「バニラビーンズ」が掲載されていた。長らく個人商店だったが、2001年に法人登記を果たした。

思い出のアルバム
 

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