株式会社珍来 代表取締役社長 清水延年氏 | |
生年月日 | 1964年2月2日 |
プロフィール | 大学1年時から祖父が経営する製麺所で勤務。深夜からスタートするハードな仕事をしてつづける。麺づくりだけではなく、ラーメンづくりもマスターし、祖父が逝去したのち、2代目社長に就任する。 |
主な業態 | 「珍来」 |
企業HP | https://www.chinrai.jp/ |
口を左右に動かす。「奥様は魔女」のサマンサのしぐさ。これで魔法が、かかる。今回ご登場いただいた老舗ラーメン店、珍来の社長、清水さんの大好きなテレビドラマ。バイブルでもあったらしい。
清水さんは1964年生まれ。野球少年で、子ども頃からプロ野球選手をめざしていた。高校でケガをしてあきらめたというが、なかなかいい成績を残している。
新宿区出身だが、阪神ファン。へそ曲がりなんだそう。
「高校は千葉商科大学付属高校に進みます。野球はベスト8が最高」とのこと。ちなみに、中学の時は、成績が悪く、家庭教師を3人つけられていたという。
「大学に進学してからですが、芸能関係の仕事をしたいと思っていて、エキストラの会社に入ります。オファーもいただきました。あるアイドルのTVCMの恋人役の募集があって、3000人だか4000人だか忘れましたが、その中から最終の5人に選ばれたばかりか、プロダクションの副社長にスカウトされます」。
有名な雑誌の表紙を飾ったモデルといっしょにコマーシャルを撮ったこともある。今では有名な役者さんたちとも酒を酌み交わしている。ギャラも悪くなかった、と笑う。
19歳で、ギャラが50万円くらいだったと言うから、悪くない。一般の仕事と比較すると、とんでもなく、いい、となる。しかも、アイドルや、女優ともちかくで話ができる。
「あの頃はすごくモテていました。でも、私には心に決めた人がいたんです」。
<それが、奥様ですね?>
「そうです。反対にもあったけど、22歳で結婚することができました」。
<サマンサと出会い、結ばれたわけですね?>
「そう。もっとも、新婚生活ってどころじゃなかったんですが(笑)」。
「セリカダブルXのせいなんです」と、清水さんは笑う。話をうかがうと、たしかにとも思うが、それが運命だった気もする。
「当時はね。車がステイタスだったんです。私も大学に入るなり、免許を取って、祖父に車を買ってもらいます」。父親から、「おじいさんに買ってもらえ」と言われたらしい。
「祖父にお願いしてみたら、二つ返事でOKだったんです。その時点で怪しまないといけなかったんですが、そういうもんかって、思い込んでいたもんですから」。
後日、納車の報告に行くと、お祖父様は一言、「そうか、じゃぁ、あしたから製麺所ではたらけ」とおっしゃたらしい。
「完全に嵌められた」と清水さん。
「祖父はむちゃくちゃ怖いから、文句は言えません。仕事は、朝の4時から9時まで。休みは水曜のみ。セリカはガレージから動きません」。
一度、9時まではたらくと1限目にでられないと祖父に懇願したそうだ。その返答がシャレている。「仕事と学校のどっちが大事なんだ?」
大学生の孫は、色褪せていく学生生活を思い浮かべていた。
「うちは祖父は製麺所を経営していました。珍來製麺所を創業したのが、1928年で、のちにラーメン店の経営も始めます。私が仕事をすることになったのは製麺所です。朝のうちにつくった麺を配送しなければなりませんから、製麺所の作業は深夜から始まります。だから、私の仕事が朝4時スタートだったんです」。
策略にハマり、スタートした仕事だったが、手を抜かない。
「当時は、機械がないですから、手作業です。数もけっこうあって」。
指は膨れ上がったそうだ。
コマーシャルなどの仕事と、麺づくり。若者が選択するとしたら、前者だが。清水さんは違った。「学生ですからね。出版とか、デザインの世界へとも思っていたんですが」。
サマンサの笑顔には、勝てなかった。
「うちの爺さんは、お金などにルーズなところもありましたが、事業家としては尊敬できる人でした。じつは、いったん倒産するんですが、60歳から不死鳥のように復活します」。
<すごいエネルギーですね?>
「ですね。祖父の前では、家族もみんなタジタジです(笑)」。ちなみに、お祖父様は90歳でお亡くなりになるまで、げんきハツラツでおられたらしい。
「ただ、祖父のお金にもルーズなところが、うちの父親に遺伝します。うちはうちでラーメン店を経営していたんですが、父親は店に立つこともなく、すべて母親、任せです。祖父といっしょで博打も好きで、お金がなくなると、店に来て、レジから金をもっていくんです。そりゃ、喧嘩にもなります」。
「父親は2人兄弟で、次男です。長男、私にすれば叔父ですが、叔父もラーメン店を経営しています。祖父が亡くなったとき、私に社長をしろ、と言ったのもこの叔父です。父親がなんでオレじゃないんだって文句を言っていました。あとで会長になって黙るんですが」。
幸福な家庭は、ブラウン管の中だけ。
「だから、憧れていたんですよね。サマンサに。でも、結婚しても、新婚当時はサマンサのようにはしてやれなかったですね」。
とにかく、麺づくりがいそがしい。ハードワークで、休みもない。結婚はできたが、結婚生活はちゃんと送れない。「妻からすれば、結婚して、こちらに1人で来て、頼りの夫が深夜いないんです。そりゃ、さみしい。でも、文句も言わずに頑張ってくれました」。
奥様は、魔女ではなく、天使のような人だった。
少し整理する。清水さんは、大学を卒業してからもほかの職につかず、祖父が経営する製麺所で勤務する。卒業と同時に結婚。製麺所には、けっきょく、大学4年間と、卒業してからの2年間、合計6年間いた。
「一度、仕事漬けの日々だったもんですから、頭もおかしくなりかけて、それで、祖父と喧嘩をして、珍来をいったん離れます」。
初めて一般の企業に勤め、サラリーマン生活を楽しんでいたが、母親から帰ってきてくれ、と懇願される。
「祖父は直営で11店舗、ラーメン店を経営しています。うちのラーメン店は別で、父親が仕事をしないので、母親が切り盛りしているのはさきほどお話した通りです。その母親からのヘルプです」。
<いやとは言えないですね?>
「そうですね。イヤとはさすがに言えません。ただ、この時、初めて店にちゃんと立って仕事をするんですが、そのおかげで、製麺以外の仕事をマスターすることができました」。
今の珍来のレシピも、すべて清水さんが、再構築してできたものだ。「私にすれば、ラーメンの修業です。むちゃくちゃたいへんです。こっちは頑張っているのに、父親がふらっと来ては、レジからお金をもっていきますからね(笑)。じつは、給料だってまともにでたのは、数回です。たいてい1〜2週間遅れ。そりゃ、妻はたいへんだったはずです」。
清水さんは、のちにお祖父様の下にも戻っている。
「いとこが祖父の下ではたらいていたんです。でも彼がいなくなって、それで代わりに戻ってこいって話になります。もちろん、そちらでも、ハードワークがつづきます。息抜きは、たまに映画を観ることくらいだったんじゃないかな」。
今度は製麺だけではなく、店にも立った。
「けっきょく、親族で、最後まで祖父の下にいたのは、私だけだったんです。だから、叔父が社長をやれ、と。叔父は叔父で、うちとは異なる珍来を経営していましたから。父親は、なんでオレじゃないんだと悔しがりましたが、代わりたいくらいでした。祖父は事業家でしたが、経営者じゃなかったから、組織もぐちゃぐちゃです。統一したレシピもない(笑)」。
清水さんの新たな戦いの幕が上がる。
現在、珍来は、千葉、茨城に10店舗を展開している。ホームページのメニューを観ると、シンプルなラーメンが、現れる。祖父の味を大事にされてきた証だろう。
「たくさんの方にサポートいただき、組織の改革も行なってきました。もちろん、まだまだ手は抜けませんが、今の時代にマッチした珍来づくりこそ、私に託された使命だと思っています」。
もう一度、ホームページの写真に目を戻す。醤油の風味を活かしたまろやかでコクのある昔ながらの東京醤油らーめん660円。これこそが、昭和3年創業から100年ちかく、清水家がつむいできた、唯一無二のラーメンだ。
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