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第1043回 株式会社ジェイアール西日本フードサービスネット 代表取締役社長 貴谷健史氏
update 24/09/10
株式会社ジェイアール西日本フードサービスネット
貴谷健史氏
株式会社ジェイアール西日本フードサービスネット 代表取締役社長 貴谷健史氏
生年月日 1967年5月14日
プロフィール 島根県松江市に生まれる。東北大学を卒業したのはバブル景気に列島が湧いていた1990年、JR西日本に就職。各業種大手企業からの求人が多いなか、JR西日本に決めた理由は「人の役に立つ仕事がしたい」という意思による。就職後はグループ会社への度重なる出向を経て、新型コロナ禍真っ最中の2020年6月、代表取締役に就任。
主な業態 「からふね屋珈琲」「デリカフェ」「博多もつ鍋やまや」「麺家」「旅弁当」他
企業HP https://www.jwfsn.com/
駅構内で食事が楽しめるレストランやカフェ、車窓に流れる景色を眺めながら食べる、その土地ならではの“駅弁”、走る列車の座席で居ながらにして珈琲や軽食を味わえる車内販売。誰もが一度は経験があるはずだ。今回は、“駅”と“列車(鉄道)”の利用客に“食”を提供している、ジェイアール西日本フードサービスネットの代表取締役・貴谷健史氏にお話しいただいた。

JR西日本の事業は鉄道だけではない。

1987年、日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化によって生まれた6つの旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社などからなる「JRグループ」。各旅客鉄道会社とも中核は鉄道だが、鉄道事業以外にも不動産事業、物販・飲食・サービス事業など多種多様な事業を展開している。
そこで、今回ご紹介するジェイアール西日本フードサービスネットについて同社の概要を伺った。
まずは、JR西日本グループの事業規模というか関連事業について教えてください。
「母体は、北陸地方から関西や中国地方をカバーし福岡まで至る約5000qの鉄道網を運営するJR西日本です。グループ会社は165社、うち連結子会社61社で構成され、連結売上高は約1兆6千億円です」。
―具体的には、どんな事業を展開しているのですか?
「コンビニ、お土産屋、カフェ、百貨店などの物販・飲食事業や不動産、駅ビル・ショッピングセンター等の開発・運営、ホテル・旅行などの旅行関連事業などです」。
―こうした多岐にわたる事業のなかで飲食部門を運営しているのが、ジェイアール西日本フードサービスネットなんですね。
「そういうことになります」。
―具体的には、どんな事業内容なのですか?
「5つの事業を展開しています。具体的には『からふね屋珈琲』などのカフェ事業、『麺家』『博多もつ鍋やまや』などのフードサービス事業、駅弁販売や洋菓子店『デリチュース』などのリテール事業、山陽新幹線における車内サービスを行う列車事業。さらに食に関わるテナント事業も展開しています。(2024年3月16日から山陽新幹線におけるサービスの内容を一部変更し、車内販売はグリーン車のみとなっている)
また店舗数は約170店舗で、一例を挙げると新大阪駅には23の「駅ナカ」店舗がある。ターミナル駅には複数の店舗が営業していることを勘案すると、その多さが推測できる。
こうしたJR西日本の駅構内で飲食業を開発・運営する企業を率いる貴谷氏は、どんな人生を歩んできたのだろうか。

少年剣士から青年へ〜小学校から大学まで剣道一直線。

「島根県松江市の生まれで、二人兄弟の次男です。実家は食品容器や飲食店の副材料などの卸を営んでおり、幼少期より飲食業には親近感がありました」。
―子どもの頃から剣道をしていたと伺いましたが……
「そうなんです。父親に言われて始めました。しかしながら、特段才能があったとも思えないし、全国でも超一流レベルの才能を持つ人物がその仲間にいたので、付いていくのがそれなりにしんどかったですね」。
「結局は、小学3年生から始め大学まで続けました。単純計算で4+3+3+4ですから14年間ですね」。
中学に入学してからも剣道部に入部したのだが、本人としては剣道一筋、剣道一直線ではなくテニス部に入ろうと思っていたと言う。
「兄がテニス部にいたんです。その姿を見ていたのでテニス部に入りたかったのですが、周りが許してくれずに、結局、剣道部に入部し三年間を過ごしました」。
―高校に進学してからも剣道を続けたとのことですが、剣道が好きだったから?
「好きとか嫌いとかではなく、中学校で剣道部に入部したことと同じで周りが剣道部以外に入部することを許してくれなかったんですよ。その結果、年に3日休みがあるか無いかの部活中心の青春時代を送ることになってしまいました」。

仙台へ武者修行(?)の旅に。

高校時代、念願のインターハイ出場を団体で果たす。そして大学進学。
進学したのは、“杜の都”宮城県仙台市にキャンパスを持つ、一昨年創立115年を迎えた東北大学の経済学部。
「東北大学を選んだのは、『研究第一主義』という少し浮世離れしたコンセプトに惹かれたこと、先生のご意見も踏まえつつ、何かあっても泳がず歩いて実家に帰れる場所ということでした」。
「また数ある学部のなかから経済学部を選んだのは、松江市は県庁所在地ですが、ご多聞に漏れず人口と市内中心部の商業機能の疲弊、衰退に見舞われており、こうした地方都市の惨状を見るにつけ、活性化していくためには経済を知らなければならないと考えたからです」。
今度こそテニス部に入ろうと思ったのだが……。そうは問屋が卸してはくれなかった。またしても剣道部。
「結局、高校時代の剣友全員、剣道に夢中になりすぎて浪人したんです。2日に一度くらいの割合で友達から『剣道を続けろ!』的な内容の電話があり、入らないとまずい、地元に帰ったらハブられると思い結局剣道部に入りました」。
小学校から大学までの貴谷氏の過ごした時間は、剣道と共に在り、剣道抜きには語れない。ただ、必ずしも前向きではないものの剣道を通して学んだことが、多々あったと語る。
―どんなことを?
「まずは明確な目標を持つこと。現実的ではありつつも多少無理目な方が良いのかもしれません。優勝するためにはスポーツ専門の学校に勝たなくてはなりませんが、進学校でしたので周囲の誰もが勝てるとは思っていません。しかしながら、勝負に勝つために弱いながらも考えるんです。どうすれば勝てるか、自身の得意技を磨くとともに団体戦における自らの役割をメンバーと定義・共有化してそれに徹する、毎日繰り返される厳しい基本練習をいかに効果的に行うか、とか。後は運と人間関係。個々人の才能が高ければ勝てるわけでもないんです。調子が良い時もあれば悪い時もあります。そうした時に心身ともに整えてくれるのが剣友達で、今でも年に1回は集まったりしています。後々になって思い出すと、こうした勝利に向けたプロセスを障害無く踏ませてくれた学校やクラスメイト、安定的な生活基盤を提供してくれた両親など、全員に感謝ですね」と総括する。
―その経験は、企業人として有益な経験でしたか?
「弱いながらにして、勝つにしろ負けるにしろプロセスと勝敗に繋がる勘どころが分かるんですね。経営面にとって、物事の成否に繋がるプロセスと要素を知ることは大きいですね」。
貴谷氏は、大学生時代を「人生の夏休みだった」と語る。
―大学生時代を振り返ってみて、どんな時間でしたか?
「ひと言で言えば、自由でしたね、模範生ではなかったですが。ただ、自由って難しいんです。親元を離れ自由で制約がないということは、何もかも勝手、OKということとは違うんです。歯止めが利かなくなって意図しない結果を招いたりします。自らを制御すること、自律することの難しさと重さを学びました。そういう意味で社会人では享受しえない貴重な経験ができたと思います。学問の研究はそこそこに『自由研究』ばかりでしたが。。。まだまだ修行が足りないかなとは思います」。
―アルバイトはなさったのですか?
「ええ、単発バイトを多くやり、印象深かったのはビルの建設現場で働いたことです。木枠に流されたコンクリートの内部に気泡が留まるのを防ぐため、木槌のようなものでひたすら木枠を叩くという作業でした。これも剣道部がらみで紹介された仕事で、叩くのは得意だろうということで集められたと思います。ただ、強く叩き過ぎた結果、全員の木槌が壊れてしまい、結局5階くらいの高さの足場を発電機を持って走り回るという今考えると怖ろしい作業でした。日当が10000円だったんですが、ちょっと詳しくは言えませんが手にしたのは半分でしたけど……。実はボクらが建設に関わったビル、東日本大震災で破損することもなく津波避難ビルとして利用されたんですよ。ちょっとはお役に立ったんですね」。

人々・社会の役に立つ仕事に就きたくてJRに就職。

就職したのは、バブル期真っ最中。世間一般が、バブルの危うさに気づかずバブルに浮かれ酔いしれていた時期だった。
「運動部でしたしバブル期だったこともあり、銀行、証券、商社、メーカー、通信など、“寄らば大樹”ではないですけれど大手企業からの求人がたくさんありました」。
―そうした企業ではなくJRを選んだ、その理由は?
「人の役に立てるリアリティのある仕事がしたかったということですね。それと、就職したのが1990年なんですが、3年前の1987年に民営化されたばかりでしたから、新しいことに向かっている会社という魅力もあったと思います。付け加えるなら実家がある松江にJR西日本の路線があり、何らかの形で故郷に貢献できるのでは、という思いもありました」。
―経歴を拝見していると、京都駅から始まり、グループ会社にも出向されていますが、どのような業務に携わって来られたのですか?
「最初の勤務は、JR京都駅の“みどりの窓口”で出札業務でした。1年後には、鉄道以外の事業を担当する本社の事業本部勤務になり、4年間、事業に関わる制度や駅構内の店舗開発などに従事しました」。
―一度、国の機関へも出向なさったようですが……。
「1995年秋に国土庁、現在の国土交通省に出向し、近畿圏整備法に基づく近畿圏基本整備計画の策定に携わりました。当時の課長補佐が山陰のご出身で、お父上も国鉄に勤務されていたこともありとても良くしてもらいました。当時も“役人”は批判の目に晒されがちでしたが、私が接した人は皆優秀・誠実で、真剣に日本・国家の将来のことを考えていました。マスコミを通じた印象とは大きく異なっていたことを印象深く覚えています。また、東京での生活も初めてのことであり、この時初めて東京と大阪・関西の規模感の違いが分かりました。1997年秋に2年の任期を終え、JR西日本に戻り改組された開発事業本部で職務に就きました」。
―2年後の1999年春には株式会社ジェイアール西日本リーテックス、1年後の翌2000年春には株式会社ジェイアールサービスネット米子に出向されていますが、それぞれ、どのような仕事内容だったのですか?
「当時JR西日本の駅構内で物販飲食業を営むグループ会社は物販・飲食それぞれ2社ずつ計4社ありました。バブル崩壊後の景気低迷と限られたパイを互いが食い合う環境の中、各社とも疲弊しつつあって、JR西日本の駅をご利用になるお客様のニーズに十分お応えできる状態ではありませんでした。それぞれの役割・使命を明確にして、厳しい競争に対応していくため、関西圏においては物販・飲食それぞれ1社に、その他のエリアは物販・飲食の両方を営む5つ会社に統合・分割することとなりました。コンビニを開発・運営する株式会社ジェイアール西日本リーテックスでは同社の統合・分割業務に携わり、株式会社ジェイアールサービスネット米子では、統合・分割により山陰エリアでJR西日本の物販・飲食事業を担うこととなった同社の立ち上げや開発・運営に携わりました。勤務地は実家に近い米子でしたが、ここでの仕事経験が、現在に至るまでのキャリアに繋がっていると思います」。
貴谷氏の出向経験はさらに続く。
「2002年、飲食部門を統括する株式会社ジェイアール西日本フードサービスネットに管理職として出向し取締役経営企画部長・列車事業本部長として事業計画の策定や、車内販売を統括している列車事業に携わりました」。
その10年後の2012年からJR西日本本社の創造本部で5年間勤め、2017年には松江市に本社を構えるJR西日本山陰開発株式会社の代表取締役社長に就任、物販飲食やSC不動産の開発・運営に取り組む。
そして2020年、現在の職場である株式会社ジェイアール西日本フードサービスネットに代表取締役社長として出向。冒頭に挙げた5つの事業に取り組んでいる。

人あってこその飲食業。

「弊社は飲食業を中心としていますが、わたしは調理の経験もないですし、技術も持ち合わせておりません。一方で、働いているスタッフは、本当にまじめで自分に足りないところを補ってくれています。コロナ禍にあって、不安やストレスに晒されていたと思いますが、愚直に感染防止に努め着々と生産性を上げる努力をあきらめずに続けてくれました。コロナ禍を乗り越えるために本当に戦ってくれたのは、スタッフの皆さんだと思っています。その姿に忘れかけていたことに気づかされることも多いです」そして貴谷氏は、次のように続けた。
「先ほども話しましたが、就職したのがバブル真っ盛りでした。どこの企業も大量に人を採用した時代でした。ところがバブルが崩壊した後、大量採用した人員の整理に走りました。
利益を確保するためのコストの見直しの一環で当時は仕方のない選択だったとは思います。そしていつしか「人はコストだ」という潮流が定着しましたが、それは違う!と思いました」。
―具体的に、どう違うと?
「確かに売上に占める人件費の割合が多いのが飲食業の特徴です。ですから、景気後退期や業績悪化の対応策としてコストを削減する必要があり、なかでもコストの大部分を占める人件費の削減のため人員カットをすることは効果的だとは思うのですが、一方で人は利益を生み出す存在でもあるのです。なので人が減るということは利益を生み出す機会を失うということにも繋がるんです。人は企業業績、収益確保のための“調整弁”ではないんです」。
「飲食業は不特定多数の人に“食と場”をタイムリーに提供するサービス業です。数ある労働形態にあって労働集約型産業だと思います。つまり事業活動の大部分を人間の労働力に頼る産業です。機械化も省力化も完全にはできません。お客様が空腹解消以上のサービスを飲食業に求めるならば、お客様と機械や情報・デバイスを媒介する人の役割が益々重要になってくると考えています。また、コロナ禍を境に人と人との対面接触が減ってしまいました。その一方で、一回一回の接触がとても貴重なものになっています。それを豊かなものに演出する飲食サービスは今後も社会から必要とされ続けるものと確信しています。弊社のような飲食業を生業とする企業は、お客様と食材をはじめとしたモノ、人と人、人と情報の間を取り持つ社員あってこそ成り立つものだと思っています」。
そして、最後に、こう語った。
「人はコストではなく利益の源泉なんです」。

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