株式会社ハンク・ディーシー 代表取締役 朽木敬之氏 | |
生年月日 | 1982年7月28日 |
プロフィール | 宮崎県内で宮崎牛を使ったハンバーグ専門店を経営する家庭の長男として誕生。故郷宮崎から慶應義塾大学に進学。卒業と同時に父の会社に入社し、関東エリアの新規出店を任される。2017年社長に就任。念願の六次産業化を実現させ、事業のさらなる拡大を目指す。 |
主な業態 | 「平家の郷」「BRICK STEAK HOUSE」「大盛うどん」「牛鍋屋 和牛十兵衛」「焼肉十八番」 |
企業HP | http://www.heikenosato.jp/ |
宮崎県と首都圏で、和牛王国・宮崎の和牛を使ったハンバーグ店を展開する株式会社ハンク・ディーシーの朽木敬之氏。彼を紹介する前に、まずは彼の父親である朽木昌博氏について少し触れておきたい。
宮崎県出身の昌博氏は東京大学を卒業後、大手都銀でバリバリの銀行マンとして活躍した人物だ。高度成長期を経験し、若い時から30歳までに独立することを決めていた昌博氏は、29歳で銀行を退職。会社の元同僚だった妻とともに宮崎へ帰郷した。「これから伸びるのは、飲食か塾経営のどちらかだろう」と考え、宮崎にアメリカンダイナーをオープンした。
飲食経験は皆無で料理も接客もまったくの素人だったが、元銀行マンだけあって数字にはめっぽう強かった。アメリカンダイナーでは差別化が難しいと判断するやすぐさま業態転換し、長男の敬之氏が誕生した翌年の1983年に、地元宮崎が誇る和牛を使ったハンバーグの専門店を開業する。それが霜降りハンバーグと宮崎牛ステーキの店『平家の郷』だ。
敬之氏が小学生のころには、『平家の郷』はすでに県内でよく知られる店に成長していた。上場も視野に入れていた父は、直営店に加えFCも積極的に募集。最盛期には宮崎をはじめ鹿児島や福岡、熊本、兵庫、そして和歌山などに十数店舗を展開する規模にまで成長していた。
テレビをつけると『平家の郷』のCMが流れ、幼いころから「お前はここを継ぐんだぞ」「いつか東京に出すからな」と言われ続けていた敬之氏は、自分が家業を継ぐことを素直に受け入れた。特に反抗期もなく、親の商売を身近で眺めつつ育った敬之氏だが、忘れられない光景が一つあるという。
「ある日、会社の会議をちらっと覗く機会があったんですね。すると従業員の人たちが父にむちゃくちゃ怒鳴られていて。いつも僕に良くしてくれる優しい人たちが頭ごなしに怒鳴られている様子に、子供ながらに本当にびっくりしてしまいました」。
威厳があって数字に強く、コスト意識が飛びぬけて高い父。敬之氏によると、昌博氏の経営方針はまさに『ザ・昭和のワンマンスタイル』だったという。敬之氏はその後、父を尊敬しつつも父とはまた違った経営者の在り方を模索していくことになる。
東京進出の夢を繰り返し聞かされながら育った敬之氏だが、高校卒業後は慶應義塾大学の法学部に入学した。なぜ経営学部ではなく、法学部だったのだろうか?
「僕が高校のころ、うちはあるFC店との訴訟問題を抱えていました。業績が良かったにもかかわらず、FC契約を破棄したいと言ってきたんです。看板もメニューも変えるから契約違反にならないと言っていたのに、実はまったく同じことを続けていた。それで高等裁判所までいったりして、大変だったんです」。
最終的には勝ったものの、その時に憧れを抱いたのが弁護士という職種だったという。先の例にとどまらず、1986年にイギリスで起こったBSE(いわゆる狂牛病)や、1996年のかいわれ事件など、子供のころから飲食業の難しさを肌で感じてきた敬之氏だからこそ、異業種に憧れたのかもしれない。
ところが、いざ法学部に入ってみると、まわりの同級生たちの頭の良さに圧倒されることに。
「こいつらと勉強するのは嫌だなって思ったんですよね」。
敬之氏は弁護士の夢をあっさり捨て、経営者になる道を進む決意をする。元のさやに納まったという訳だ。
1年生の時の教授との口論をきっかけに、大学へはほとんど行かなくなった敬之氏。父から「マックにはオペレーションシステムのすべてが詰まっている。バイトをするなら、マクドナルドから始めろ」と言われ、とりあえず働き始めたものの、接客がやりたかった敬之氏はわずか3か月で辞めてしまった。その後は居酒屋やカフェでアルバイトをしたり、当時まだ学生団体だったベンチャー通信にも加わって、自ら教育した学生を企業に派遣するという仕事にも携わっていた。
「ベンチャー通信にいたのは1年半くらいです。ほかのベンチャー企業の社長に会う機会も多かったし、ここで学んだことは大きかったですね。家業に就く前には、ベンチャー企業もいいなって思っていました」。
大学4年時代にあるベンチャー企業の創業メンバーの社員として働いていたこともあり、「卒業したらこのままここで働けばいいか」とも考えていたそうだ。
「でも卒業する直前に、父から『東京に出店の予定がある。お前に任せるからやれ』と言われたんです。ベンチャーの仕事が面白かったし一度は断ったけど、『ほかに人がいない』と。それでベンチャー企業のほうは3月末に辞めて、卒業と同時に親の会社に入りました」。
彼が入社した時には、すでにもう1年半先までの出店計画が出来上がっていて、4月の八王子一号店を皮切りに、新店舗を3か月ごとに開業していくという多忙な日々が続いた。
順風満帆に見えた『平家の郷』の東京進出。しかし1年を過ぎるころから、既存店の売り上げに陰りが見え始めた。オープン景気後に売上げが落ちることはままあるが、いつまでたっても下降線のまま。気が付けば東京の店はすべて赤字になっていた。
新店舗の立ち上げに追われていた敬之氏は、宮崎から派遣された社員たちに既存店の運営を任せていた。ということは、宮崎のオペレーションに問題があるのだろうか?
「業態としての完成度が完全に低すぎたんです。チェーン店を目指していたのにオペレーションの完成度は低いし、社員教育もなってない。僕はうちのハンバーグはどこよりもおいしいと自負しています。でもいくら美味しくても、オーダーから提供まで30〜40分もかかっていたら…ねぇ?」。
会社としては過去最高の売り上げを記録したにも関わらず、3期連続の赤字に陥った株式会社ハンク・ディーシー。入社時の社長室長という肩書きから常務取締役へと昇進を遂げていた敬之氏は、自ら店長として現場に立った。
「もうそれから、社内会議ではいかにコストを下げるかという話しかなかったです」。
店長に依存していたオペレーション形態を見直し、不採算店舗は容赦なく切り捨てていった。父からは「もっとコストを管理しろ」と指令が飛んでくる。削れるところは1円でも削れ、とにかく切り詰めろ、と。
「当時はそれが嫌で嫌でしかたがなかったですね。お客様の満足を得るために最低限お金をかけないといけないところがあるだろうとあれこれ提案しましたが、ほとんど却下されました」。
商品には自信がある。でも経費はかけられない。だったらオペレーションを徹底的に見直し、サービスの質を上げていくしかない。
コスト管理とオペレーションの改善を続けた結果、数年後には売り上げも回復。社員たちに仕事のノウハウや従業員への想い、叱咤激励などを毎日伝え続けていった。
2017年、敬之氏は代表取締役社長に就任。宮崎銀行による無担保無保証第一回私募債発行を皮切りに、既存店のリニューアルにも着手。また宮崎に焼肉店やステーキの店をオープンするなど、攻めの姿勢に転じた。2021年にはオリジナルブランド牛の『八郷牛』を飼育する畜産事業を開始、翌年には工場兼本社を完成させ、「六次産業をやりたかった」という自身の夢を形にしている。
「あの時にはもう絶対戻りたくないけど、20代のうちに赤字の時代を経験してよかったですね。給料はもらえないし、毎日働いても何も返ってこない。店舗を拡大しているときは取引先も従業員も『おー!やりますよ!』って感じだったのに、赤字になったとたんみんなサーっと引いていく。あれを経験してればもう何でもできるでしょ」。
「僕の今のミッションはいかにリピーターを増やすか。なので、社員にも『売上げはあげなくてもいいよ』と言っています。リピーターが増えれば売上げも勝手に増える。今の客単価?2200円くらいですね」。
郊外でのFC展開はこれまで通りとしながらも、今後は直営店のビルインも視野に入れている。「宮崎牛の美味しさを一人でも多くの人に知ってもらいたい。」敬之氏の想いはますます強まるばかりだ。
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