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第1048回 株式会社あっぷるアイビー 代表取締役 丸田剛氏
update 24/10/01
株式会社あっぷるアイビー
丸田剛氏
株式会社あっぷるアイビー 代表取締役 丸田剛氏
生年月日 1969年12月2日
プロフィール 大学生活を仙台で送り、そのまま仙台で就職したが、24歳で、実家に戻り、ファミリーレストランなどを経営する父の下で飲食ビジネスを学ぶ。1年間、アメリカで先進の飲食ビジネスを体験。長野オリンピック開催で浮かれる長野にあっても、地域を第一に経営を行う父親をリスペクトし、その理念の体現に努める。しかし、長野オリンピックが開催された1998年、父親が急逝。父親の跡を継ぎ、急遽、代表に就任する。
主な業態 「あっぷるぐりむ」「焼肉のバーンズ」「カルビ牧場」「ピッツェリア」「きらび」他
企業HP https://appleivy.co.jp/

ファミリーレストラン、全盛期。長野にもファミリーレストランが誕生する。

「新潟・富山・長野にある、ローカルなファミリーレストランです」、と今回ご登場いただいた丸田さんが24歳の時を振り返る。
「創業は1952年で、私が24歳の時には43店舗くらいの事業規模だったと記憶しています」。大学を卒業した丸田さんは、大学があった仙台の会社に就職する。「家業を継ぐ」という思いはなかったそうだ。
ちなみに、丸田さんの出身は長野。むろん、実家も、会社も長野にある。
「あれは、私が小学1年生の時ですね。父がファミリーレストランをやりたいと言い出します」。
丸田さんが小学1年生といえば、1974年。「すかいら〜く」をはじめ、多くのファミリーレストランが台頭する頃である。1970年代初頭には、「マクドナルド」や「ケンタッキー・フライド・チキン」といった黒船も上陸している。
「かすかな記憶なんですが、父に連れられて、私も東京にある『すかいら〜く』さんの1号店に行き、食事をしています。当時のファミリーレストランのいきおいはとにかくすごかったですね」。
「父がやりたがったのも、わからなくない」と丸田さんは、いいたげ。とにかく、お父様は事業意欲が旺盛な人だった。

アメリカ仕込みの飲食ビジネス。

丸田さんは1969年12月生まれ。第二次ベビーブームのはしりで、小学校は45人のクラスが7つあったそう。授業参観ともなれば、教室に入りきれない保護書が、廊下にあふれかえったそうだ。
「もともと祖母が飲食店を創業し、その店を継ぐのがいやだった父が洋食屋をめざしたのが、今の『あっぷるアイビーグループ』の始まりです」。
とくに、厳しい時はなかったと、丸田さん。
「実際には、山も谷もあったんでしょうが、子どもの私たちは、そういうのを感じたこともなかったですね。比較的裕福だったようには思います。外食に行く機会もかなり多かったですから」。
丸田さんは、小学校では、野球。中学、高校とテニスをやっている。高校で日大系の私学に進み、大学は遠く、仙台の工業系で学んでいる。
「大学を卒業した私は、そのまま仙台の会社に就職します。当時、家業を継ぐことは頭になかったですね」。ただ、24歳、実家に戻るようにと言われる。
その後、丸田さんは、アメリカに渡り、アメリカで1年、飲食ビジネスを学んでいる。
「私が24歳の時、戻ってくるように言われ、アメリカに父の命令で向かいます。アメリカでの最初の3週間は、語学というか言葉の勉強ですね。少しずつ会話ができるようになって、行動半径も広がります」。
この1年間は、丸田さんにも大きな財産になったはずである。なぜならアメリカ仕込みの飲食ビジネスが、丸田さんの飲食人生のコアの一つになっている気がするからだ。

長野オリンピックでの父の選択。

「それから数年して、長野オリンピックが開催します。父が他界する年です。じつは、うちだけじゃないんですが、様々なオファーがありました。うちの場合は、スキーのナショナルチームの選手、コーチが利用するので、『1ヵ月、店をまるっと借りたい』とオファーがありました」。
<すごいですね?>
「ええ、光栄なことですね。しかも、利益率が高い。つまり、儲かる。だから、私はやりたかったんですが、父に一蹴されてしまうんです」。
お父様は、「利益がどうこうの話じゃないだろう。うちを使ってくださっている地域の人たちが利用できなくなるじゃないか。海外のレストランになりさがってどうする!」と言われたそうだ。
至極真っ当な話だが、一蹴する、お父様が素晴らしい。地域を愛する経営者の強い意思が浮かび上がる話である。
「あの時ですね。父を親ではなく、1人の経営者として認識し、リスペクトするようになります」。
つまり、経営者かどうか。その違いが、2人の違いに表れたといっていいのではないだろうか。
まだまだ、父から学ぶことがある、と丸田さんは思ったはずだが、だが、その父親が他界する。突然だったこともあって、準備はできていないまま、丸田さんが事業を継承することになる。

バトンを受け、継承する事業と理念。

「組織の体制も改めました。当時の店舗数は44店舗です。『チーズドール』のフランチャイズも行っていた叔父にサポートしてもらって、事業を進め、数年後には関連会社を吸収合併して1社にまとめました」。
年表でまとめてみると、「チーズドール」のフランチャイズ展開をスタートしたのが、1966年。1977年には、ファミリーレストラン「あっぷるぐりむ」1号店をオープン。1988年には、「焼肉のバーンズ」の前身となる焼肉レストランの展開を開始。1994年には、イタリアンレストラン「ピッツェリア」をオープンしている。
これらの店舗が44あったということ。
丸田さんが、1社にまとめたというのは、2004年のこと。 株式会社あっぷるぐりむを吸収合併し、株式会社あっぷるアイビーに商号変更。本社を須坂市に移転している。
父親同様、丸田さんも事業意欲が旺盛。2000年には、やきとり居酒屋「きらび本店」をオープンし、2003年には、エスニックレストラン「Sawasdee Cafe(サワディカフェ)」の展開を始めている。
その後も、ケーキ工房「スイートアージェ」や「ステーキハンバーグ&サラダバー けん」にフランチャイズ加盟、また、新ブランド「超!焼肉食堂まるとみ」を開店するなど、精力的に事業を拡大している。
ただ、株式上場を視野にいれているか、との質問には以下のようにも言っている。
「父は考えていたでしょうね。でも今は規模拡大より、内部の充実を重視してます」。

地域の人たちと、従業員に愛されるもう一つのりんご。

「父は、従業員や地域のことを考える人でした。私自身もその考えを引き継いでいます。うちの会社にとって、ここはいちばんのコアな部分です」。
従業員のことを考える。これは、コロナ禍で如実に表れた。赤字がつづくなかでも、雇用を守りつづけたのである。コロナによって影響を受けたことはいうまでもなく、いまはその傷跡を埋めているところ。といっても、守りだけではない。積極的な出店も行っていくそうだ。
「今後は、既存チャネルでもある郊外型の飲食店を主軸にしつつも、小型の郊外店をレールサイドにシフトしていければと思っています」。
東京と比較するまでもなく、知名度の高い長野といっても、地方は地方である。ローカルなロケーションだからの、戦略も、たぶん、あるのだろう。
それが、従業員や地域のことを何より大事にすることであれば、うれしい。
そういえば、長野といえば、「りんご」が有名。その長野には、「あっぷるアイビー」という、地域人と、従業員に愛されるもう一つのりんごが、実っていた。

思い出のアルバム
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