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第1058回 有限会社ケイキフードサービス 代表取締役 増田圭紀氏
update 24/11/05
有限会社ケイキフードサービス
増田圭紀氏
有限会社ケイキフードサービス 代表取締役 増田圭紀氏
生年月日 1969年8月9日
プロフィール 高校中退。小学生時代から独立を志し、高校を中退し、飲食店で修業を開始する。19歳で、東京へ。名店「魚真」でさらに修業を重ね、28歳で独立。1998年4月、自由が丘に1号店「魚ダイニング びんび家」をオープンする。
主な業態 「やさい巻き串屋ねじけもん」「おさかなや魚魚権」「オサカナヤ 魚哲」他
企業HP https://keiki-food.com/

少年時代に、はやくも独立を志す。

徳島県、出身。もともとお父様が徳島で和食店を経営されていたそうだが、増田さんが小学低学年の時に渡米。サンノゼで鮨屋をオープンされたそう。
父親の影響だろうか。少年時代から独立を志していたという。
「小学校の低学年の頃にはもう独立する気満々でした。算数や数学は独立に役立つと、それだけはちゃんと勉強していたくらいです」。
「高校はすぐに退学しています。このままだと流されてしまうと思ったからです。そのあと、居酒屋に就職します。父にも呼ばれてアメリカにも行きました」。
3ヵ月くらいいたそうだが、「アメリカはちっとも面白くなかった」と笑う。
「父は私にアメリカの店を継がせたかったようですが、言葉も全然、しゃべれないのに、そりゃ無理ですよね」。
数学だけじゃなく、英語もいるとは、さすがに想像外。もっとも心が動かなかったのは、父の店を継ぐつもりがなかった証。
ちなみに、徳島にあった和食店は、お母様が引き継がれたそうだ。
「小さい時は野球をしていました。ピッチャーかショート。キャプテンも務めていました。高校は、飲食の免許が取れるとの触れ込みだったので、そちらの高校に進んだんですが、さきほど言ったように、すぐに退学します。2週間しかいなかったです。入学してすぐに、この学校に3年通ったら、絶対、遊び人になってしまうと思ったからです(笑)」。
中退というレッテルは気にならなかった。中卒も、高卒も、大卒も経営者には関係がないからだ。

少年、東京へ。

海の向こうから、そんな息子をみて、お父様はアメリカに誘われたんだろう。増田さんが17歳の頃の話だそう。
ホームページで増田さんは、<私は実家が和食料理屋だったということから、自然な流れでこの世界に入りました。15歳から徳島、そして大阪で修行生活を送った後、ご縁があり19歳で東京に出てきました。>と綴られている。
大阪というのは、食い倒れの街のど真ん中、心斎橋。
「じつはその頃から、ちょくちょく東京に遊びに来ていたんです」。まだまだピュアな青年。「東京には、観たこともないようなレストランやカフェがあって、もう最高でした。それで、たまらなくなって、東京へ移住します。19歳の時です」。
<その時に出会ったのが「魚真」ですか?>
「そうなんです。有名な魚屋さんの飲食部門で、私はその『魚真』に就職します。父や母の背中をみて、飲食に惹かれ、独立を志しました。修業もしました。ただ、私の今の原点はというと、こちらの『魚真』です」。
増田さんが修業していた時から、かなり経つが、「魚真」さんは今も元気に経営されていて、都内に数店舗をオープンされている。さすが、魚屋の飲食部門、グルメサイトの評価点はすこぶる高い。

次の道探し。

「合計8年お世話になりました。社長が目をかけ、かわいがってくださいました。もう感謝しかないですね。『魚真』を選択した理由ですか? それは、たまたま下北沢を歩いていて。ちょうど魚を勉強したいと思ってたタイミングだったので、ここがいいかな、と。ほんと、偶然だったんです」。
<いかがでした?>
「むろん、勉強になりました。1年くらいで原宿に異動になります。東京なんて、徳島生まれの私からすれば、異国です。なかでも原宿ですからね。ただ、ネオン街の下でも、ちがった道に進まず、料理に真剣に向き合えたのは、やはり『魚真』だったからじゃないでしょうか。」
<それだけ仕事に魅了されたということですね?>
「そうです。『乾いたスポンジ』って、よくそういう表現をされると思うんですが、まさに、その通りで、吸収の8年間だったと思います」。
<少年時代から目標だった独立はどうなりましたか?>
「独立はもちろん、忘れていません。25歳で独立をめざしていたんですが、若くみられたのか、どこの不動産に行っても相手にされません。当時は、ネットなんかない時代です。だから、あっちの駅で降りて、こっちの駅でも降りて。まぁ、それも宝探しなんですが、みつけても若造だって相手にされない。それで、先に法人を設立しました」。

魚真からの独立。

さて、ここからが、今回の本番。
増田さんは28歳で、「魚真」から独立。自由が丘に創業店をオープンする。すると、初月から月商600万円を叩き出す。「600万円から翌月には700万円、さらに800万円となり、1000万円をオーバーするようになりました」。
22坪40席、家賃63万円。
「私のプランでは、2000万円は必要だったんですが、銀行、公庫を合計しても1000万円くらいしか貸してもらえませんでした。でも、もうあとにはひけなくて。じつは魚真の社長から800万円お借りしました」。
社長に相談すると、すぐに貸してくださったそうだ。もちろん、恩人からお借りしたぶん、プレッシャーはでかい。「半年は1日も休まなかったですね」。
<ふんばりどころですものね?>
「そうです。当時、自由が丘には、それほど多くお店がありませんでしたし、若い兄ちゃんが魚を巧みにさばいて、ライブでお出しするようなお店もなかった。それが、功を奏したんだと思います。社長にお借りした800万円はすぐに返済できました」。
<2年目には2号店をオープンしていますね?>
「55坪85席くらいで、個室を多くしました。家賃は150万円。ただ、私が新店をカバーすると、本店の業績が下がります」。
「月商300万円まで激減した」というからヤバイ。やはり、飲食はシステムではなく、人なのだろう。その一方で3店舗目を目黒にオープン。業績が落ち込んだ本店は、沖縄料理に業態変更する。
「最初は、さらに下がったんですが、しばらくしてV字に回復します」。
うまくいかなくても、ひるまない。類まれな行動力で突破する。

宝探しの旅は本当に楽しい。

「福岡によく行っていたのがきっかけで、『串焼きをやろう』と思い立ちます。向こうの串焼きを豚肉でやったら面白いんじゃないか、という発想でスタートしました」。
<福岡でも出店されていますね?>
「ええ。福岡の主要都市の一つ『大名』のど真ん中に出店します。ちなみに、『やさい巻き』を屋号に入れたのは私がたぶん最初です。こちらは、最初からめちゃくちゃ繁盛しました。先月6月に福岡3店舗目をオープンしています」。
東京、福岡。かなり、離れている。
ただ、ぎゃくに、その距離をうまく活かしている。
「博多やさい巻き串屋 ねじけもん 自由が丘 別邸」は、博多大名生まれと喧伝している。オープンキッチンで串を打たれた食材がその前にならぶ。豚肉も旨いが、野菜も旨い。女性にも大人気。
<小学生からの目標は達成済ですね?>
そういうと、増田さんはにっこり笑う。
「経営者となった今でも、私のお宝探しは続いています。そして今は私が19歳の時に感動した、お宝に出会った時のような気分を、今度はお客様や飲食業を目指す若者に味わっていただきたいという思いでお店づくりをしています。このエキサイティングな宝探しの旅は本当に楽しいモノです。そして、みんなにそれぞれのお宝さがしをして欲しいと思っています」。
これは、今、飲食を志す若者へのメッセージ。
「お宝はどこにある?」
宝があることを信じ、探すこと。たしかに、人生の楽しみは、その行為に凝縮されているのかもしれない。だから、子どもの頃の願いがかなった今でも増田さんは、宝物を探しつづけているにちがいない。

思い出のアルバム
 

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