株式会社鳳凰 代表取締役社長 網代代二郎氏 | |
生年月日 | 1982年4月26日 |
プロフィール | 大学を卒業し、アメリカへ。帰国後、クリエイト・レストランに就職し、飲食の道をあゆみ始める。30歳を前にオーストラリアに渡り、シドニーの日本料理店で勤務。飲食を天職と定め、帰国後、様々な飲食ビジネスを経験し、現在、勤務する鳳凰へ。型破りなオーナーの下で、社長に就任している。 |
主な業態 | 「焼き鳥 しょうちゃん」「焼き鳥 ショウチャン」「焼き鳥 割烹 しょうちゃん 別邸」 |
企業HP | https://www.shouchan-houou.jp/ |
今回、ご登場いただいた株式会社鳳凰の代表、網代社長は1982年に世田谷区に生まれている。お父様は着物職人だったそう。
「祖父の代から」とのこと。網代社長が小さい頃は業績もよく、海外旅行にも行っている。
「小学3年生のときオーストラリアに初めて連れていってもらって、このあとの人生でもでてきますが、海外好きになってしまいました笑」。
「中学までは世田谷でボーイズリーグに所属。評価をいただき、野球推薦で日大鶴ケ丘に進学しました。高校では2番手のキャッチャー。周りと比べてどうだってことではなく、もともとプロという意識はなかったです」。
野球は好きだが「真剣にはなれなかった」というようなことをおっしゃっている。
「大学はそのまま日大に進学しました。大学時代にもアメリカや東南アジアによく行きました。アメリカには4回、行きました。父親の知人がサンノゼにいましたので、そちらをべースにあちこちをみて回りました。バイトは飲食でしたが、とくに飲食の仕事に惹かれたわけじゃありません」。
大学を卒業した網代社長は5度目となるアメリカに渡る。
「就職という選択肢はなかったです。このときアメリカには3ヵ月滞在しました。そのとき出会った雑貨ショップを経営する日本人のオーナーから『30歳までやりたいことをみつければいい』と言われて。それが一つの指標になった気がします」。
<ジブン探しですね?>
「ええ、ただ父親も事業をしていましたので、なにか一つの仕事というよりも会社を経営するというのに興味があって。それで、飲食店だったらスケールは小さいかもしれませんが、経営のマネジメントが勉強ができそうだと思って、帰国後、クリエイト・レストランに就職します。これが23歳のときです」。
幼い頃に海外を体験する少年少女は少なくない。ただ、それがきっかけに海外を好きになる少年少女は案外少ない。網代少年はオーストラリアでなにをみたんだろう。日本の伝統的な文化を守る着物職人の父親をちかくでみてきたことで、異国の文化を鮮明に描き、知ることができたのかもしれない。
「クリエイト・レストランで配属されたのは汐留の地中海レストランでした。当時ですか? そうですね、もう300店くらいはあったんじゃないかな」。
クリエイト・レストランはいうまでもなく、日本を代表するレストラングループだ。ただ、網代社長はこちらを1年半で退職している。
「じつはヘッドハンティングの会社から電話をいただいて。ちょうどサービスは勉強できても、それ以上はないかなと思っていたタイミングだったこともあって。ただ、その電話がきっかけになりましたが、けっきょく自分でみつけた会社に転職します。そちらの会社は当時、FCを含め10数店舗だったと思います。クリエイト・レストランツと比較すれば小さな会社ですが、そのぶん社長との距離もちかく、29歳になるまで3年半くらいですが、こちらでマネジメントを含め、飲食の仕事を徹底的に叩き込んでいただきました」。
「その3年半でビジネスの根幹ができた」と網代社長は、当時の社長に感謝する。とにかく型破りの社長だったらしい。飲食の仕事は「コンサルティングだ」と言っておられたそうだ。
<2つの会社を経て、ジブンはみつかりましたか?>
「そうですね。クリエイト・レストランのときもそうですが、私はホールで料理は調理くらいしかできません。ただ、そのぶんお客様と接することが多いので直接、お言葉をいただくことも少なくありませんでした」。
網代社長は「鳥肌が立った」という。「お客様から『ありがとう』や『たのしかったよ』といっていただけるんですね。そのたびに、『ありがとうございました』と頭を下げながら、脳みそで鳥肌が立っていたんです」。
相手を思う言葉は「言霊」になる。多くの飲食経営者が「ごちそうさま」の一言に魅了され、飲食の道を進んでいる。ただし、もう一度、海外に渡る。
「ワーキングホリデーで海外に行けるのは30歳までなんです。だから、行くなら今だと、退職させていただきました」。
29歳になった網代社長は駆け込むようにして、海外を志向するようになった原点でもあるオーストラリアへ渡る。
「オーストラリアでは、日本の社長が経営されているマスヤさんという日本食のレストランで仕事をさせていただきました」。
飲食の経験は長い。
「たぶん、喜んでいただけたと思います。ふつうのワーホリとはちがってキャリアがありましたから。それに、マネージャーとも気があって。バーカウンターを担当させていただき、私もふつうじゃできない経験を積ましていただきました」。
カウンターの向こうには様々なお客様がいらしたことだろう。「ありがとう」「たのしかったよ」。海の向こうで投げかけられた言霊は、網代社長にどう響いたのだろうか。
「オーストラリアではアッシフィールドというシドニーから少し離れたところに住んでいました。離れているといっても電車で30分くらいですが」。
地図で確かめるとシドニーから少し離れたところにアッシフィールドという地名があった。
オーストラリアで、網代社長はしっかりとジブン探しの旅を終えている。
「異国の、そう小学3年生のときに渡ったオーストラリアで、改めてジブンの天職をみつけた気がしています」。それはお客様の「ありがとう」「ごちそうさま」を追いかける飲食という万国共通の仕事。夜空を見上げればもちろん南十字星がかがやいている。
「東日本大震災があって帰国します」。
帰国後、お父様のあとをついで、着物をアレンジして販売するアパレル会社を経営したが、うまくいかなかったそう。
「なかなかむずかしかったですね。そのあとダイニング・バーで3年くらい勤務して、独立ということではないんですが、フリーで様々なお店をサポートします。うどん居酒屋でも仕事をして、2018年、鳳凰に転職します」。
「当時はまだ3店舗くらいのとき」と網代社長。「鳳凰はオーナーが屋台からスタートしてつくられた会社です」。
ホームページをみると、その屋台の写真が現れる。
「2010年、株式会社鳳凰は屋台『焼き鳥 しょうちゃん』として飲食事業をスタートした」とある。もちろん、網代社長が入社する以前の話。
今では、そのオーナーにかわって網代社長が舵を取る。社長就任は2013年のこと。
「私は何人かの社長さんの下で仕事をしましたが、基本的には型破りの人が多くって、こちらのオーナーもまた型破り笑。ただ、事業は基本、任せていただいていて、話が合うというか、もちろん、意見がぶつかることもありますが、尊重していただいています」。
現在、鳳凰の店舗は7店舗。ひらがなと、カタカナの「しょうちゃん」「ショウチャン」があったので、そのちがいを聞いてみると、ひらがなの「しょうちゃん」は大衆、カタカナの「ショウチャン」は、イタリアンのメニューもあるそうだ。
たしかに、ホームページの写真をみると、カタカナの「ショウチャン」は、カジュアルでハイセンス。やきとりといえば煙がモクモクというイメージがあるが、まったくちがう。もう一つ「焼き鳥割烹しょうちゃん別邸」がある。
こちらはアッパーな雰囲気。やきとりというイメージより、ショルダー通り「割烹」といったほうがいい。写真に添えられたコピーには「異国情緒も感じられる」とあるから、またちがった味わいがあるのだろう。
おなじ「しょうちゃん」でも、客層も異なっているにちがいない。それもまた仕事人にとっては楽しみである。
型破りなオーナーをサポートする。これも網代社長がみつけた、もう一つの本職。ただし、海外へのあこがれは今もつよい。「セカンドライフは海外で」と、そういう野望ももっている。
ちなみに、意外なことに網代社長はお酒がまったく飲めないそうだ。冷静さを失わないという意味で、オーナーのサポート役には、ちょうどいいのかもしれない。
ところで、網代社長は「インバウンドで訪日客が増加するなか、島国である日本の文化だけではなく、海外の文化を知っているのは、大きなちからになるような気がする」とおっしゃっている。
まさに、そう。日本の伝統文化と海外の文化を知る網代社長がいうだけあって、言葉には重みがある。今後、海外を経験した経営者が、つぎつぎと登場するかもしれない。それも楽しみである。
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