株式会社Drapocket 代表取締役社長 塩川紘一氏 | |
生年月日 | 1985年11月11日 |
プロフィール | 福岡県宮若市で生まれる。小学2年生で、飢餓に苦しむこどもたちを知り、ショックを受け、将来、学校をつくろうと、計画を立てる。「ジョッキーになろう」と決め、乗馬クラブでアルバイトをしながら、トレーニングを積み、定時制高校に通う。その道を断念したあと、デザイン設計を志すが、就職した会社が倒産。フリーで現場監督をつづけるなか、一台のキッチンカーに出会う。 |
主な業態 | 「GoodayJuice」「ゴクゴク」 |
企業HP | https://drapocket.com/ |
ジョッキーになるには、パイロット同様、視力がよくないといけないらしい。今回は、そんな話から始まった。今回、ご登場いただいたのは株式会社Drapocketの代表取締役、塩川社長。
塩川さんは1985年、福岡県若宮市で生まれている。塩川さんによれば、若宮市はかつて炭鉱で栄えた町だったそう。地図で観ると福岡市と北九州の真ん中。炭鉱の名残りは今、炭鉱跡や資料館で観ることができる。
「うちの祖父は炭鉱が盛んだった頃に区画の整理などを行っていて、その時の功績が認められて石碑が建っています。まだ、健在なんですが。叔父は今、若宮市の市長を務めています」。
お父様は建設会社を興し、塩川さんいわく「今も細々とつづけている」とのこと。仕事が好きなんだそう。姉弟は4人。塩川さんは3番目で、長男。
祖父や叔父をみていたからだろうか。小さな頃から社会をみる目が育っている。
「小学2年生の時、世界には学校にも行けない、ご飯もたべられない子がいることを初めて知りました」。
貧困な子どもたちの映像が、ピュアな少年を奮い立たせた。貯金箱をあけ、お正月にもらったお年玉をそっくりそのまま寄付。
「ユニセフだったと思うんですが、機関を通して寄付をしました」。その額、3万円。大金だ。
「ただ、いいことをしたという思いはあり、お礼の手紙もいただいたんですが。具体的にどう使われたのかがわからないから不完全燃焼っていうか」。
なぜ、彼らは貧困なのか?
少年は、そこに目を向けた。
「根本的な原因は教育だとわかったんです。じゃあどうしたらいいか。学校をつくろうと」。
結論が早い。頭の回転が早い証。
「でも、それにはお金がかかるでしょ。それくらい子どもにもわかります。じゃあ、今度は、どうすればお金持ちになれるか」。
頭のなかで、ぐるぐると思いが走り回る。
「社長になるか、ジョッキーになるか」。
これが、少年が導き出した答え。
<ジョッキーってあの競馬の?>
「そうです。中学生のときに、友達と将来について話していたんです。私は背が低かったし、体重も軽い。『だったら騎手がいいんじゃないか』って話になって。小倉競馬が近くにあったんで、その影響もあったんでしょうけど」。
「引くに引けなくなった」と塩川さん。
「『塩川が騎手になりたいと言っている』と学校中に広がって。先生が何を思ったのか資料を一杯集めてくださって」。
「否定できる雰囲気じゃなかった」と苦笑する。本人も、その気になっていく。寄付の時もそうだが、こうだと決めたら突き進むタイプ。
「うちの両親は反対どころか、母親に至ってはノリノリでした」と笑う。
ただし、簡単にジョッキーになれるわけがない。道も狭い。そこをこじ開けるのも塩川さんらしい。
「たまたまですが、うちから自転車で30分のところに乗馬クラブがあったんです。そちらで、トレーニングさせていただきます。ただ、お金がかかるんです。だから、お願いして、厩舎の手伝いをする代わりにトレーニングを積ませていただきました」。
朝8時に出勤。馬の世話を一通りして、昼ご飯を食べて、トレーニング。
<進学はされなかったんですか?>
「定時制の高校に進学しました。トレーニングが終わって、夕方6時頃から学校です。カリキュラムを自由に組める学校だったので、トレーニングと学校を両立することができました」。
馬の背に乗ると、どんな風景が望めるんだろう?
サラブレッドの場合、馬の肩までがおよそ170センチメートル。座高が加わるから2メートルを超えることになる。
走らせれば、当然、スピードもでる。TVで騎手目線の映像を観たことがあるが、トップギアに入れば、風景が後ろにぶっとんでいく。
塩川少年は、障害のトレーニングを積んでいた。
「トレーニングを始めてから半年。大会に出場して優勝します」。
<優勝ですか?>
「大阪であった大会なんですが。将来はオリンピック選手になんて話もいただきました。じつはこの時、競馬の関係者の方とお話することができて」。
「騎手になるのを断念した」という。
冒頭の話だが、騎手になるには視力も問われる。だから、視力を矯正するために、塩川さんはわざわざ東京まで行っている。
「関係者の方と色々お話させてもらって、『騎手になりたい』というと『難しいだろう』って言われたんです。倍率が高い。それだけだったらいいんですが、騎手は『縁故の世界だ』って言われるんです」。
<つまり、外部からはむずかしい?>
「そうです。その話を聞いて、急に冷めてしまって」。
華やかで自由な世界が、急に束縛された色褪せた世界になった。
「ジョッキーになって、お金持ちになって学校をつくって貧困をなくす、というプランは、これでなくなります」。
<残すは、社長になるプランだけですね?>
「そうなりますね(笑)」。
「父親を継ぐ、というのも選択肢の一つでした。実際、実家でバイトをしながら建築系の専門学校にも進みます。父親は設備系の仕事をしていたんですが、私はデザイン設計をしたかったので。資格を取るには、実務経験もいるとわかり、設計会社に就職します」。
「ただ、」と塩川さん。「ある大きな事件に、そちらの会社もかかわっていたようで、倒産してしまうんです」。ある大きな事件とは、姉歯事件のことだそう。
「そのあとフリーで現場監督を、3年くらい仕事をつづけました」。
<今とはまったくちがう業種ですね?>
「180度ちがいますね。建設関係の仕事もけっこうしがらみがあるんです。職種も、内装業者から空調や電気工事業者など、もう様々です。そういう人たちが、それぞれの思惑で仕事を進めるわけですから」。
どこの世界にもあることだ。だが、交錯する様々な思惑を整理する現場監督の仕事は、たしかに骨が折れる。「そんな時に、偶然、キッチンカーをみたんです」。
たのしそうにはたらくスタッフ。笑顔で商品を受け取るお客様。その世界観に、いっぺんで惹かれた。
現場にはないシンプルな「幸せ」を観たんだろう。
「キッチンカーの周りには、現場にはなかったピュアな世界が広がっていたんです」。
いったんやると決めたら、行動が早い。今度もおなじ。フリーだったことも幸いしたんだろう。
「福岡にはキッチンカーっていう文化がなかったもんですから、勉強するなら東京だと思って」。
所持金わずか30万円。塩川さんは、30万円を握りしめ新幹線に乗り込んだ。ちなみに、やるなら、あの甘い世界をつくるクレープと決めていたそうだ。
話を加速させるとこうなる。塩川さんは26歳で上京。原宿でみつけた一つのキッチンカーの会社に就職。1年半後、務めた会社を辞め、独立している。
「そちらの会社に決めたのは、キッチンカーが牽引式だったからなんです」。
<一般のキッチンカーと牽引式ってどうちがうんですか?>
「みなさんが一般的にイメージされるエンジン付きだと思うんですが、牽引式はエンジンがついていなくて、車高が低い分、お客さんと同じ目線で接客ができるんです」。
お客様と同じ目線の高さ。オーダーいただいたクレープをお渡しすると、それだけで笑顔の花が咲いた。
「今、私はクレープじゃなく、スムージのお店をしているんですが、じつは、そこにも一つのきっかけがあるんです」。
そのきっかけを聞いて、何かが一つにつながった気がした。塩川さんという人の輪郭が明瞭になったというべきだろうか。
「毎日、来てくださる常連さんがいらっしゃったんです。クレープとタピオカをオーダーいただいて、毎日、クレープを食べ、タピオカを飲まれていたんです。もちろん、ありがたいお客様です。車高のあるキッチンカーだったら気づかなかったかもしれません。でも、私はすごく近い距離で、お客様と接していたからでしょう。最初は、ありがたいだけだったんですが、少しずつ、心配になってきたんです」。
<心配ですか?>
「決して悪いものが入っていたわけじゃないんですが、毎日、毎日ですからね。体に良いとは言えない気がしたんです」。
<それで体に良いスムージーですか?>
「毎日飲んでも飽きない。そして健康にいい。うちのスムージーには砂糖もつかってないんです。だから、とてもナチュラルで、体を内側から綺麗にしていきます」。
<おいしいうえに、からだにいい。もう無敵ですね?>
塩川さんが、力強く頷く。
「やるなら喜んでもらいたい」と、塩川さんはトマト型のキッチンカーをつくることにした。そもそもキッチンカー自体安くないが、オリジナルの「トマト型」となれば製作コストも格段にアップする。
「その時の、全財産が300万円。全部を注ぎ込んだとしても、なかなか引き受けてもらえなかった」と塩川さん。
当時、結婚もして、奥様もいらした。
「トマトは、やめておけ」。メーカーに依頼するたび、断られた。
「ただ、お1人だけ、ご自身も起業の際に苦労したという社長さんが、引き受けてくださったんです」。
その時の、社長さんの言葉がふるっている。
「『トマトのキッチンカーなんて、いくらかかるかわからない』とおっしゃったあと、『300万円以上かかっても、300万円以上は請求しません』といってくださったんです」。
それからしばらくして、桜井町の駅前にある複合施設「コレットマーレ」に、真っ赤なトマトが現れる。正確にいうと、2013年6月のこと。
この時のことだろう。塩川さんが「極貧生活を送った」といっていたのは。
トマトのキッチンカー。奥様と2人。最強コンビ。オープンすると、お客様が列をなした。
「そう、オープン初日と翌日だけ」と塩川さんは苦笑する。
なんでも「景観の問題」で、市の職員が「待った」をかけてきた。「2日間はコレットマーレの前でいちばん目立っていたんですが、それが『いけない』というんです。条例違反だと言われれば従うしかありません。けっきょく、目立たない衝立の奥で営業することになりました」。
まだ2日、客はついていない。「それで売上がガクッと減ります。貯金は、ぜんぶキッチンカーに注ぎ込んでいましたから、所持金がまったくない」。
カツカツの生活。奥様はどのように思われていたんだろうか。
「とにかく、節約するしかない。ご飯でしょ。バスの運賃。移動はぜんぶ歩き、です。あのとき、合計、どれくらい歩いたんだろう?」と塩川さんは、空を仰ぐ。
「でもね。お金がないからって、投げ出す選択肢はなかった。不思議なことに売上より、少しでもお店をよくしたいと。そればかり考えていました」。
トマトのキッチンカーは、朝から夜まで営業中。お客様とのキャッチボール。塩川さんも、奥様も、笑顔を絶やさない。「私は、営業が終わってから、ユニクロの洋服のタグを取る深夜のアルバイトをして、奥さんは、コンビニや、結婚式場でアルバイトをして、なんとか生計を立てていました」。
極貧。たが、2人して、灯をたやすことはなかった。
以来、今回のインタビューまで11年。現在は横浜ベイクォーター、横浜ワールドポーターズに直営3店舗、FC含めると23店舗をオープンしている。
2人でともした灯は、いまも赤々と灯っている。
ブランドは「Gooday Juice」と「ゴクゴク」。
映画のような話もある。
「コレットマーレで創業したあと表参道ヒルズなど多方面から色々お話をいただいて。そのなかの一つ、横浜ベイクォーターにキッチンカーを移動します」。
「オープンしてから毎日、飲みに来てくださるお客さんがいて。その方から色々アドバイスをいただきます。ある時『写真のパネルがあったほうがいい』とアドバイスをいただいて、すぐに用意したんですね。すると、業績もすぐにアップして。ありがたいお客様です。営業をノウハウをただで教えてくだったんですから」。
その、親切な紳士の正体を知ったのは「横浜ベイクォーター」の担当者と「親切なおじさん」の話をしていた時のこと。「『えぇーーー、それ、うちの社長です』って言うんです。私も『え?』って(笑)」。
<知らなかった?>
「ぜんぜん。失礼なことに、ただの親切なおじさんだと思って。常連さんだからフレンドリーに会話もさせてもらっていたんです」。
<それで、どうなりました?>
「最初は、短期契約だったんですが、その方に『知らなかった』と、頭を下げると『ずっといてくれていいよ』とおっしゃっていただけたんです」。
今もホームページを開くと「横浜ベイクォーター」にある、真っ赤なトマトが現れる。
今や、「横浜ベイクォーター」のシンボルの一つになっている。
「伊勢丹でもオープンしたことがあって、月商900万円をセールスしたことがある」と、塩川さん。あまりの忙しさに目が回る。そして、心が揺れた。
「私はキッチンカーにあふれている幸せに憧れて、ジュースのキッチンカーをはじめました。シンプルな言葉にすると『商品、接客を通じて、お客様を喜ばせたい、笑顔にしたい』。これが原点です」。
<思い描いた世界じゃなかった?>
「記録的なセールスの裏っ側で、私も含めてですが、スタッフみんなが疲れて」。
「疲弊していた」と塩川さんは表現する。からだも、心もボロボロという意味だ。
「心が傷んだのは、私たちが思い描いていた接客ができなくなってしまっていたからでした」。
「キッチンカーにあふれていた笑顔が霧散してしまった」ように塩川さんの目に映った。記録的なセールスだから、普通なら歓声をあげるところ。
何かが違っている。ただ、正体がわからない。スタッフの表情には、戸惑いがあったかもしれない。
「疲弊したスタッフたちの表情をみて、もうクローズしたほうがいいのかなって悩んだ」と塩川さんは当時の思いを、素直に、そう語る。
ただ、一方で「クローズするくらいなら、最初から、やる意味があったのか」という、ジレンマが生まれる。塩川さんは、起業の原点に立ち返った。
「私が起業した理由は、『人を笑顔にすること』や『学校建設など社会にとっていい影響を与える存在になること」です。そこに立ち返ると、クローズすることに意味はありませんでした。忙しくても来てくださったお客さんに喜んでもらえるような仕組みを考えないといけない」。
では、どうすればいいのか。
「セントラルキッチンが、一つの回答でした」。メーカーという発想は、製販一体のクオリティを生む。
「そうなんです。セントラルキッチンをつくることで、業務の効率化により、サービススピードの向上はもちろん、品質のアップが実現しました」。
<ゴクゴクというブランドもできています>
「農家の方ともお話を重ね、共栄共存ができるしくみを少しずつつくってきました。ゴクゴクをつくったことで、フランチャイズを進めることができて、今、FCが20店舗になっています」。
ただ、「20店舗になると、フルーツや野菜などを生産してくださる農家のキャパも一杯一杯で、新たに大型農家との契約もしなければならなくなってきました」とのこと。
うれしい悲鳴のように聞こえもするが、そうではない。塩川さんは、農家の未来を憂い、その対策も模索している。
もちろん、子どもの頃の思いも忘れてはいない。ホームページに記載されていたので、改めてその話を引用する。
<当社代表の塩川がジュース店を始めたのは、小学生の時に、世界には学校に行きたくても行けない子どもがいると知り、人を喜ばせることを通して、学校建設の一助になりたいと思ったから。>
この思いに共感した仲間が集まっているにちがいない。塩川さんのような人がいることを知って、応援したくなる人も少なくないだろう。
「そういうことも含めて、発信をつづけていきたいですね」と塩川さん。
じつは、ゴクゴクで1杯のスムージーを飲むと、1杯につき1円が募金される。塩川さんとスタッフ、そしてFC店がみんなで進める「Make a Gooday Project」だ。
すでに、学校にトイレを建設、生活用水に困っている子どもたちのために浄水器を贈るなど、幅広い支援を行っている。
創業時。奥様と一緒に。 | ポスト |
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