株式会社梅の花 代表取締役社長COO 鬼塚崇裕氏 | |
生年月日 | 1965年8月8日 |
プロフィール | 関西学院大学卒後、「阪神百貨店」に就職。経理や経営企画を務め、45歳の時に「家族亭」に出向。1年と少し経ち、今度は「梅の花」に出向。解除されるタイミングで退職し、「梅の花」の取締役に就任する。以来、子会社を含めグループの経営をハンドリングし、2024年7月、COOに就任する。 |
主な業態 | 「梅の花」「かにしげ」「チャイナ梅の花」「花小梅」「古市庵」「さくら水産」「すし半」他 |
企業HP | https://www.umenohana.co.jp/ |
奈良出身。いまでもイントネーションに関西弁が残っている。今回、ご登場いただいた株式会社梅の花の代表取締役社長COO、鬼塚さんの話。
小学校は奈良女子大学文学部附属。奈良女子大学は奈良公園にちかく鹿も学内を闊歩しているらしいが、ネットで調べてみると附属の小学校は少し離れたところにあった。
中学校もおなじ女子大附属に進学したが、中学2年の時に父親の転勤で兵庫県西宮市に引っ越している。
姉弟は姉が1人。
小学生時代は「積極的なのか、消極的なのかよくわからない子どもだった」と鬼塚さん。「内弁慶」とも表現されているが、野球チームを作り、練習のスケジュールや内容を決めていたというから、大人しい少年というイメージではない。
「当時の担任の先生から教わった 『人のふり見て我がふり直せ』が座右の銘」と鬼塚さん。
「中学進学時は東大寺学園を受験しましたが惨敗。それで、そのまま女子大附属に進み、野球部に入部します。その後2年生になる時に西宮の市立中学に転校しました」。
転校先の中学では野球部ではなく、水泳部に入っている。
「マンモス校だったこともあって部員が100名もいたんです。何より坊主頭にしなくっちゃいけなかったので。それがいやで。水泳部にしたのは、どう見ても一番ぬるかったもんですから(笑)」。
どんな中学生でしたか?と質問すると、鬼塚さん曰く、「ごく普通の中学生だった」とのこと。
鬼塚さんは「普通」というが、子どもの頃から「良いことは真似、良くないことは戒めとする。そして、 相手の立場で考える」ようにしていたというから、普通のレベルがちょっと高い。
ここまでが、鬼塚さんの少年期。話のなかで、ピュアな鬼塚少年が何度も姿を現した。
「高校は関西学院高等部に進みました」。もちろん、有名校だ。「苦手な英語の長文問題がなかったからラッキーだった」と鬼塚さん。
「高校に入学して両親が離婚します。これも一つのターニングポイントだった気がします。それと高校1年の秋くらいから楽器に目覚めて吹奏楽部に入ったことも、ターニングポイントだったかもしれません」。
「吹奏楽部での担当はパーカッションだった」そうだが、鬼塚さんは、「じつはドラムがしたかった」という。
「でも、軽音楽部がなかったから、吹奏楽部でしたし、マンションだったからさすがにドラムは置けないでしょ(笑)。それで、ベースギターを購入して、高2の時に山下達郎のコピーバンドに加入して」。
ライブハウス、学祭などで演奏したそうだ。つまり、かなり巧い。念願かなって軽音楽部に入ったのは大学に進学してから。
「ただ、しばらくして所属する意味がわからなくなって幽霊部員になりました(笑)。大学ですか? エスカレーターで関西学院大学商学部に進学しています」。
関西学院大学といえば、関西のなかでもトップの大学の一つ。仁川の阪神競馬場からちかいらしい。
「大学には原付で通っていました。ただ、あんまり行かず、勉強もしなかったですね」。
「先輩から『大学は勉強しなくてもやっていける』と言われていて、鵜呑みにしちゃったんです(笑)」。
かわりにアルバイトは熱心だった。
「『シェーキーズ』でしょ。『宝塚ホテル』のコーヒーショップ、『神戸オリエンタルホテル』ではフレンチレストランで働きました」。
当時の時給は、「シェーキーズが500円、ホテルが800円だった」という。いまと比較すれば半値程度。「それでも、ほぼ毎日、仕事をしていましたから10万円くらいにはなりました。ただ、バイトに専念していたおかげで、3年生で留年が確定。卒業には140単位がいるんですが、4年終了時点で残り、40単位」。
「さすがに5年の時には大学に通いました。なんとか、なんとか卒業できたって感じで、それから15年くらい『卒業できない』『卒業試験に間に合わない』って夢を見てうなされました(笑)」。
今や、大会社の社長にもそういう学生時代があったと知ると、人生、何をしてもマイナスはない。そして、社会も捨てたもんじゃないと思えてくる。
<就職はいかがでしたか?>
「時代は悪くなかったんですが、1年留年していますからね。それでも、まぁ、落ちたところもありましたが、阪神百貨店に就職することができました。これが1989年のことです」。
<百貨店と決められていたんですか?>
「大学時代、ホテルでアルバイトしていたでしょ。英語ができないんでホテルは除外して(笑)。ただ、ホテルで身についたホスピタリティがあったんで、百貨店がいいんじゃないかって。単純な発想ですね」。
いただいたプロフィールをみると、入社して3年後に経理部に。10年後に経営企画室に異動。
2005年には経理部経理課マネージャー、2006年には経営企画室マネージャーに昇格。
「もう一つのターニングポイントは2007年に『阪神百貨店』が『エイチ・ツー・オーリテイリング』の傘下に入ったことですね。そちらで経営統合推進室・部長を拝命します」。
阪神百貨店は大阪の中心地である梅田にあり、阪急百貨店と道路をへだて、ならんで建っている。2つの百貨店は今もそうだが、長らく大阪のランドマークだった。
もともと資本は異なっていたが、2007年、株式交換により「エイチ・ツー・オー リテイリング株式会社」の完全子会社となり、阪急百貨店と経営統合している。
「おなじ百貨店と言っても、言語が違っていて最初は戸惑いました」。経営統合と一口に言っても、現場では一言では済まされない苦労がある。混乱もあったに違いない。
その後も鬼塚さんは昇格を続け、2009年には経営管理室・関連事業担当部長、2010年には経営企画室・予算計画部長になっている。
だんだんと、経営の中枢にちかづいている。
「今まで資本がかわったと言っても、阪神百貨店というブランドの下で仕事をしてきたんですが、初めて外にでるというか、2011年に『家族亭』に出向します」。
<ご自身で希望されたとお伺いしています>
「そうなんです。当時私はM&Aの業務に関わっていて『家族亭』さんもそのうちの1社だったんです。いろいろとお話しているうちに惹かれて、社長さんにお願いして」。
<出向を希望されたのは、家族亭を買収されたからではないんですね?>
「買収したからではなくって。もともと飲食に興味があったのと、会社から少し距離を置いてみたかったんです」。
<それで「家族亭」の社長にお願いされたんですね?>
「そういうことです」。
プロフィールでは2011年10月「家族亭」経営企画室・執行役員、IR・広報部長となっている。
「ただ、出向期間は1年ちょっとと短かったです。その後『エイチ・ツー・オーリテイリング』と『梅の花』が資本提携することになって、今度は『梅の花』に出向になりました」。
2013年1月「梅の花」経営計画室部長。2015年12月「梅の花」取締役経営計画室長。
「出向期間は2013年1月から2016年3月のほぼ3年間。出向が終わるタイミングで今の会長ですが、本多さんから『残らないか』とお誘いいただいたんです。ちょうど私が50歳の時です」。
「梅の花」の本社は福岡県の久留米市にある。単身赴任。「子どもが中学進学ということもあって連れて行けませんでしたから」。
2015年12月、正式に「梅の花」に取締役として経営に参加。以来、経営の中枢を担って来られたことになる。
プロフィールをもとに簡単に触れておくと、2017年には「梅の花」にて取締役経営計画室長を務め、子会社である「古市庵」の代表取締役COOを兼務。2019年には「古市庵」の代表取締役CEOとなり、その1ヵ月前には同じく子会社の「三協梅の花」代表取締役を兼務。
同年「梅の花プラス」代表取締役CEOも兼務。「梅の花」では子会社を含めたグループのハンドリングを担当。そして、2024年7月「梅の花」のCOOに抜擢されている。
コロナ禍の下では、さすがに業績はふるわなかったが、コロナ禍があけた2023年5月からV字で回復。インタビューさせていただいた2025年10月現在は、通常ペースで業績が推移しているという。
「コロナが五類に分類され、街角に活気が戻るようになった2023年5月からV字で回復しました。現在も売上は悪くありませんが、食材が上がっているのでコントロールが難しいですね」。
価格改定や食材の見直しなど、お客様へのご負担をできるだけ少なくすること。そこが難しい。
「コロナ禍の下で、メインブランドである『梅の花』を5店舗クローズしました。スクラップアンドビルドならいいんですが、今後の新規出店には二の足をふんでいます」。
<どうしてですか?>
「『梅の花』を出店するには億単位のお金がかかるんです。そのぶん、参入障壁が高く、競合が生まれにくいメリットはあるんですが、環境がくるくると変わる時代ですから、さすがに今までのように莫大なコストをかけて出店するのは難しいかなと思っています」。
「梅の花」を知る人からすると「梅の花」はわざわざ不便なロケーションにあるように思えてしまう。ファンからすると、それもまた「梅の花」の価値なのだが。
その点について伺うと「そうなんです。創業者が、”わざわざ来ていただく”ことに価値を置く人だったもんですから。だから、郊外が多いんです(笑)」。
「それに、梅の花は800坪くらいないと、あのスケールはできませんから、そういう点でも郊外が多くなるんですね。もちろん、都心にも出店しています。都心は戻りも早いですが、郊外はちょっと戻りが鈍いですね」。
銀座や横浜、天神、大阪などの都心の店舗では、インバウンドも期待できるが、郊外ではそちらも期待できないそう。
「その他で言いますと、サトレストランシステムズさんから買い取らせていただいた『すし半』というブランドがあって、こちらは自社物件なんです。なので、集合住宅などに再利用してストックビジネスを展開していこうかと検討しています」。
ちなみに、2023年5月には「エイチ・ツー・オーリテイリング株式会社」と資本・業務提携契約を解消している。
「梅の花」の歴史は、1976年7月の「かにしげ」創業に始まる。現在の「梅の花」が設立されたのは1990年1月。当時の社名は株式会社ウメコーポレーション。
企業理念は「人に感謝、物に感謝」。創業以来のこの理念を大事にして、今日も、各店舗で喜びの花を咲かせている。
この花を咲き誇らせること。
それが、鬼塚さんの、今までも、そして今からも、最大のミッション。
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小学校入学の頃 | 少年時代 | 青年時代 |
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アルバイト時代 | アルバイト時代 | 阪神百貨店時代 |
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