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第1089回 有限会社らくちん 代表取締役社長 渡辺哲也氏

update 25/02/25
有限会社らくちん
渡辺哲也氏
有限会社らくちん 代表取締役社長 渡辺哲也氏
生年月日 1975年1月13日
プロフィール 生粋の京都人。20歳の時に実家が倒産、両親の借金2000万円を返済すべく、26歳で独立した。様々な業態を経て、2014年京都に「ビストロ・フレンチマン」をオープン。2020年大阪に出店した「大衆酒場 フレンチマン」が大ヒット、2024年10月開店の渋谷サクラステージ店も月商1,300万円の行列店に成長。
主な業態 「ビストロ・フレンチマン」「大衆酒場 フレンチマン」「炭火炉端イコール」他
企業HP https://www.rakuchin-kyoto.com/

寡黙な父と野球少年。

4人姉弟の3番目に生まれた渡辺哲也氏。彼の父はスポーツ万能で多才な人物だったが、子供の誕生を機に脱サラし、スルメなどの珍味を生産加工する工場を営んでいた。“寡黙”という言葉がぴったりな父親で、仕事のことはおろか、自分の過去についても一切語ろうとはしなかったという。渡辺氏も子供のころは地味で大人しく、両親が共働きだったことから2つ年上の姉やその友達と遊ぶことが多かった。
父は家族との時間を何よりも大切にしていたのだろう、毎日夕方6時には家族そろって食卓を囲み、近所の居酒屋にもしょっちゅう連れて行ってくれた。小学3年生から始めた野球の練習や試合への付き添いは欠かさず、家族思いであることは子供心にも伝わった。
中学、高校を通じ野球を続けていた渡辺氏は、守備を担当。甲子園出場こそかなわなかったものの、野球中心の生活を送った。ただ他にやりたいことは何もなく、彼の進学や就活について両親も口を出してこなかった。同級生のように進路を決めることはなく、高校卒業後はそのままフリーターになった。

飲食への興味と阪神大震災。

高校卒業から1年が過ぎたころ、当時タイで加工したスルメを日本に輸入・販売すべく多忙を極めていた父の代わりに、渡辺氏は家の仕事を手伝うことになった。その仕事がひと段落し、今度は父の知人が経営する車の整備工場で働くことになる。
「そこの社長とオヤジと、板金のおっちゃんらが、毎日近所の居酒屋に行くんです。で、僕も連れてってもらって、初めてビール飲んで。店のマスターが面白い人で、なんや楽しそうやし、いい車に乗ってるし、それで『あ、飲食って面白いな、こんな仕事あんねんな」って思ったんです。それが飲食との出会いですね」。
渡辺氏が成人を迎えた数日後。1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が関西の街を襲った。奇しくもその日は、父親が注文した加工品を積んだ船がタイから神戸港に寄港する日でもあった。船は港に到着したものの、日本中がパニックに陥り荷を降ろせるような状況ではない。社運を賭けた商品は船上で腐敗し、渡辺家には多額の借金だけが残った。消費者金融の連帯保証人には息子と娘が名を連ねている。その負債を肩代わりしてもらうため、父はなりふり構わず親戚に頭を下げて回った。
「その時、オヤジがおかんの兄貴と弟に(金)借りてるって、初めて知ったんですよ。おかんもそれまでまったく知らなかったんです。オヤジ、えぐいなーって(笑)」。

父の借金2000万を返済すべく、独立を決意。

消費者金融やカードローンの負債を肩代わりしてくれた親族への借金は、2000万円に膨らんでいた。20人を超える親戚の前で頭を下げる父。周囲の非難にじっと耐えるその姿に、初めて父の弱さを感じた。
「それでね、オヤジがかわいそうやと思ったんです。だから僕も働いて、一緒に(借金を)返したら早く返せるって」。
整備工場の仕事は気楽だったが、その分ときめくこともなかった。毎年の昇給が5000円程度では借金返済の目途すら立たない。やがて父の自己破産により親族への返済義務は免除された。しかし「親戚の借金だけは返さなあかん」と心に決めた渡辺氏は、飲食業での独立を目標に、京都市内の飲食店で働き始める。そうして複数の店を渡り歩き、売上げだけでなく原価や経費など経営に必要な数値も把握していった。何をどれくらいで出したら、いくら残るのか…それは渡辺氏にとって貴重な経験となった。

26歳で独立。

24歳で結婚し、独立のための物件を探し始めた渡辺氏。とはいえ、なんの実績もない若者に店を貸し出してくれるところはない。やっとチャンスをつかんだのは、26歳の時だった。もと焼き鳥屋というその物件はビル地下で10坪。父の借金返済で自己資金が枯渇していた身に月30万の賃料はこたえたものの、妻は夫の独立に賛成してくれたし、国民金融公庫の保証人は義父が引き受けてくれた。こうしてなんとか小さな居酒屋をオープンさせると、渡辺氏の前には次々と“支援者”が現れ始めた。「こいつを応援してやろう!」と周囲に思わせる不思議な力。それが渡辺氏の最大の強みかもしれない。
オープンから1年半後、「地下の狭い店じゃなく、地上のもう少し大きな店で勝負したい」と、出町柳に2軒目を開く。1号店は妻と若い者に任せ、渡辺氏は2号店の経営に専念した。その時「起ち上げの間だけでも手伝って」と声をかけた知人が、後に有限会社らくちんのメインブランド『フレンチマン』の総料理長となる吉丸清孝氏だった。

銀行の融資担当者が出店を後押し。

2号店オープンからさらに1年半後、3軒目の出店が決まった。そのお膳立てをしてくれたのが、銀行の融資係を担当している人物だったのである。
「その人は(店の)常連さんで、毎週来てくれてむっちゃ仲良くなって。それで出店の相談をしたら『ここを買ってやれ』って、ある物件を紹介してくれたんですよ。ローン組んで、改装費も出してやるからって、全部絵を描いてくれて。町屋を買うなんて考えたこともなかったけど、その辺からパーンと変わりました」。
融資係が薦めた物件だけあって、その店は大当たりした。借入金は土地代と改装費をあわせ4000万円近くに膨らんだが、月々約16万の返済で20年後には自分のものになると思うとやりがいもあった。渡辺氏はこれを機に「有限会社らくちん」を設立。10年後に前述の店を倍の値段で売却したことで、同社のキャッシュフローは著しく改善された。

税理士のアドバイスにより、両親は借金を無事完済!

会社設立当時から世話になっている税理士先生に、ある日「オヤジの借金をどう返していったらいいか?」と相談。それを聞いた先生の奥さんは、「親にお金を渡すんじゃなくて、自分たちで返済させたほうがいい」と言う。
「親にしたら嬉しい反面、子供に面倒を見てもらうなんて痛恨や。私やったら嫌やし、死んでも死に切れん。自分で返したいわ」。
その言葉にハッとした渡辺氏は、「店舗の契約や開業資金は僕が出すから、オヤジとおかんは自分で店を繁盛させて、その利益で借金返していくってのはどう?」と両親に提案。息子の助言で大いにやる気を出した2人は、やがて小さな焼肉屋を始める。
この焼き肉屋、当初は“渡辺氏がスタッフと一緒に賄い料理を食べに行く店”という立ち位置だった。同業者にも、「たまに使ってやって」と忘れずに声をかけた。そのうち“おっちゃん、おばちゃんがやってるアットホームな焼肉店”はみるみる評判になり、あっという間に繁盛。2000万あった借金を2人はたった2年で完済してしまった。
「(税理士の先生に相談した)あの時ね、相手の気持ちを推し量るってことを学んだんですよ。子供に借金返してもらうなんて、それこそ(気持ちが)重い、重い。こっちが良かれと思ってやっても、あっちは『迷惑かけたな』って辛いだけなんやって。あれが僕の経営の中の根幹にある感じ。あ、人を活かすってこれやなって」。

相棒への贈り物は「フレンチマン」。

渡辺氏の事業がすべてうまくいったわけではない。フグ専門店を知人に任されるも、夏場は完全に閑古鳥。仕方なくお好み焼き屋をやったり、他の店を出したりしてスタッフになんとか仕事を回していたが、もともと自分好みの業態ではなくやることなすこと失敗ばかりだった。一時は給料が払えないほどにまで追い詰められたが、それでも社員をクビにするのではなく、彼らがやりたい店を作ろうと奮闘し続けた。
「3〜4年はダメでしたねぇ。でも『自分の給料はここで稼いでな』ってスタッフに店を渡した途端、みんな自分で頑張るんですわ。利益の出る店だけ残して、ダメな店は閉めて、スタッフにも自分の店持ってもらって。オヤジも成功したし、弟も手伝ってくれたし、みんな繁盛店になって、いやー、もうやることないわーって思ったら、『あ、君(吉丸氏)の店がまだやったな』って(笑)。それで『フレンチマン』を出したんです」。
− 2号店を出す際に「ちょっと手伝って」とお願いしてからもう20年以上のお付き合いですよね。こんなに長くお2人が続いたのはなぜですか?−
「うーん、おもろいんとちゃいますか(笑)」。
同い年という友達感覚なのか、はたまた笑いのツボが同じなのか。互いに“おもろい(興味深い・魅力のある)”渡辺氏と吉丸氏、この2人がタッグを組んだ「大衆酒場 フレンチマン」の快進撃は止まらない。

思い出のアルバム

 

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