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第1094回 株式会社 ミキインターナショナル 代表取締役 三木智映子氏

update 25/04/01
株式会社ミキインターナショナル
三木智映子氏
株式会社 ミキインターナショナル 代表取締役 三木智映子氏
生年月日 1974年
プロフィール 大学卒業後プロゴルフ選手として渡米。順風満帆だった最中、突然もらい事故に遭い選手生命が絶たれる。ゴルフ指導者の路に転向。世界で唯一の日米LPGA A級資格ティーチングプロとしてレッスン。先代の社長である母親の病を知り帰国したものの、間もなく母親急逝。数億円の借金を背負うこととなったが、「最初で最後の親孝行だ」と、事業を継承、社長に就任。
主な業態 「La voglia matta」「Antichi Sapori」「PAPPAGALLO」「GHIOTTONE」「IL Bacaro」他
企業HP https://www.miki-international.co.jp/

世界でただ一人の日米ゴルフ・ティーチングプロA級資格保持者。

飲食業で名をあげる社長には多才な人が少なくないが、その中でも三木智映子氏のプロフィールは群を抜いている。
全米女子プロゴルフ協会(USLPGA)と、日本女子プロゴルフ協会(JLPGA)のティーチングプロフェッショナルA級資格を持つ世界でただ一人の女性にして、40年の歴史を誇るイタリア料理専門店・ミキインターナショナルの二代目社長。2021年開催の東京オリンピックゴルフ競技のテクニカルオフィシャルに指名される一方、在日イタリア商工会議所からは、『男性優位の日本の飲食業界で、女性ならではの感性とセンスを生かし、イタリア料理界に影響力を持つ女性経営者のひとり』として第1回「Phenomena賞」を授与されている。
ゴルフとイタリア料理。全く異なる2つの分野でプロとして活躍するのだから、どれほど切れ者の女性だろうかと思いきや、取材では開口一番「私はやんちゃで、すっごくおてんばでした(笑)」と屈託のない素顔を覗かせる。
それでは、「子供の頃は庭の木や塀に登ったり、木から木へと飛び移ったりして遊んでいた」という彼女のドラマティックな半生を見ていこう。

一世を風靡した「スパゲティーファクトリー」と、伝説の名店「パッパガッロ」。

智映子氏の父・三木忠彦氏が「スパゲティーファクトリー」をオープンしたのは、今からおよそ半世紀前。和風アサリや明太子、納豆など和風スパゲッティだけで100種類ものメニューがあふれ、そのジャンルの先駆けとして一世を風靡した名店である。寡黙だがインテリアセンスが抜群で、数字にも才覚があり、およそ10年で4〜5店舗を構えるほどに成長した。
「でも、料理人たちにこう言われたんだそうです。『スパゲッティはイタリア料理なのに、僕たちはスパゲッティしか作れない。しかも和風しか作れない。僕たちはスパゲッティ以外のイタリア料理も作りたい!』って」。
従業員の切なる訴えを機に、本格イタリアンの道に進むことを決意した忠彦氏が目を付けたのは、イタリア料理「カプリチョーザ」だった。忠彦氏は飲食業界に入る前はインテリア会社に勤務していた背景があり、カプリチョーザ本店の設計をさせてもらった関係だった。今では国内外に100店舗を構えるものの、当時はまだ渋谷の1店舗だけ。そこに料理人を送り本場のイタリア料理を学ばせた。
1985年には株式会社 ミキインターナショナルを設立し、今では伝説の名店と謳われる「パッパガッロ」を世田谷代田の環七沿いにオープン。元JALのグランドホステスで接客や折衝が得意だった智映子氏の母が社長に就任し、以後同社を拡大させていくことになる。
「円筒形で目立つ建物だったのですが、初めはお客様もまばらで。当時まだ小さかった私は、サクラとして毎日のようにお店に連れて行かれました。最初は美味しいものが食べられて嬉しかったのですが、さすがに毎日となると、大好きなアイスクリームさえ残すという、食いしん坊の私としては衝撃の出来事がありました」。
娘のサクラぶりが功を奏したかはともかく、「パッパガッロ」の人気は80年代に起こったイタ飯ブームに乗り上昇、テレビや雑誌に何百回も取り上げられ店はますます繁盛していった。
この第一号店の成功により、ミキインターナショナルも店舗を増やしていったが、日本の至る所でイタ飯屋が増えていった。そこで、他社との差別化を考え、「“本場・本物”に徹底してこだわる」というミキインターナショナルの基本方針が確立。今も料理人をイタリアの提携店で修業させ、日本流にアレンジしない本場に忠実な味を再現。そしてホールスタッフにはお手本とするイタリア本場の店舗と同じおもてなしを学ばせている。

「お嬢様」というレッテルが、独立心の糧に。

さて、今回の主人公である智映子氏に話を戻そう。
三木家の第二子として誕生した智映子氏は、前述のとおり木登りが得意なおてんば娘だった。母は兄の教育にことさら熱心な一方、娘に対しては放任、さらに通っていた小中高一貫校が自由な校風だったこともありのびのび育った智映子氏だが、幼いころから「三木家のお嬢様」という扱いには我慢がならなかったという。
「祖父や両親はすごいかもしれないけど、私は私。私自身を見て欲しかった。だから『自分の力で生きていこう』って、ずっと思っていたんです」。
高校入学後は傘屋でアルバイトを始めた。当時はバブル経済に突入したばかりで値の張る傘が飛ぶように売れ、雨の日には傘の売り上げだけで100万円に達したと話す。月々のバイト代が10万円を超えていたというから、なんとも景気のいい話ではないか。ただ、アルバイトにのめり込みすぎて、高校を欠席することもあったらしい。ところが、もともと放任主義の両親のみならず、学校からも注意されることはなかったそうだ。
「高校の同窓会で、当時の担任の先生に『あの時、なぜ私のことを注意しなかったんですか?』って尋ねたんです。そしたら『お前のスイッチは俺が押してもダメだと思ってたからな。お前のスイッチはいつか入る、いつかやるヤツだって思ってた』って言われました」。
ひとたびこの“スイッチ”が入ると爆発的な力を発揮するのが智映子氏だ。たとえば、試合が秒で終わるほど下手だった高校時代のテニス部では、負けた悔しさから一人で猛練習を繰り返し、3年生の引退試合では見事すべて勝利を勝ち取っている。生来の運動神経の良さと負けず嫌いがうかがえるエピソードだ。

ゴルフを始めたきっかけは、父の何気ない一言。

女子大に進学した智映子氏は、ゴルフ部の美しくきらびやかな先輩たちやユニフォームの可愛らしさに惹かれ、幼少期から時折言われていた「智映子はゴルフに向いていると思う」という父の言葉をきっかけに入部を果たす。高校時代はアルバイトに明け暮れて父親と少し距離ができていたが、父親は大喜びしてゴルフレッスンにも通わせてくれた。
「ただ体育会系にありがちな理不尽なルールが多くて、一年生はいつも走らされてばっかり。『もう走りたくない。スポーツは実力の世界だから、まっすぐ、圧倒的に遠くへ飛ばしさえすれば、私も歩けるはず!』と思って、人一倍練習しました。それで、いつの間にかすごく飛ぶようになっていたんです」。
それからはぐんぐん腕を上げ、一年生ながら学外の試合にも出場するほどになった。しかし、18歳でゴルフを始め、強豪校の選手でもない智映子氏のことなど誰も知らない。そのため、試合で無視されることも少なくなかったそうだ。
「ここは実力の世界。実力を示して、相手が会話したくなるようにすればいいって、また練習を重ねました」。
彼女のゴルフに対する“スイッチ”が、こうして「ON」になった。

夢を打ち砕いた交通事故。

さらなる高みを目指し、智映子氏はアメリカ西海岸にある世界最高峰の「レッドベターゴルフアカデミー」に通い始めた。ゴルフ部に入って初めてのラウンドは150台だったスコアもわずか1年で90〜80台、翌年には70台を叩き出し、メキメキと腕をあげていく。大学4年春と秋の大会ではフィールドでのベストスコア、メダリストも獲得した。プロの道を選んだ彼女は大学卒業と同時に渡米するが、猛反対していた母はそれ以降一度も連絡をくれなかったという。
LPGAの下部ツアー「ミニツアー」(野球でいうマイナーリーグ)に参戦して約3年が過ぎ、智映子氏のゴルフ人生は最高潮に達していた。そして「さあこれからトップツアーに参加しよう!」という矢先、人生最大の不幸が彼女を襲う。それは高速道路上の事故だった。まっすぐ運転していた智映子氏の車に左車線の車が後方から追突した。ハンドルを握っていた左手の関節が一瞬で7つずれた。ゴルファーの命ともいえる左親指を大きく損傷し、ツアープロへの道は完全に絶たれた。全てに絶望して泣きながら実家に電話した智映子氏に、母はこう言い放った。
「せっかくそこまでいったんだから、何らかのカタチにしてきなさい」。
母の厳しい言葉に智映子氏は、悲しさから一転、できる事に目を向けられるようになった。選手として習っていたアカデミーの先生を訪ねる。すると、「智映子はティーチングが向いている」という意外な言葉が返ってきた。こうして新たな希望を抱いた彼女は、指導者として再びゴルフと向き合う決意をする。その後は修練を重ね、ついに日本人で3人目(当時)となるUSLPGAのティーチングプロ資格を取得した。しばらくアメリカ西海岸でレッスン活動をし生徒が増えていたが、先代の社長である母の病気を告げられ、帰国を決意する。
帰国後にはJLPGAのティーチングプロ A級資格も取得し、ゴルフ指導の道に進むつもりでいた智映子氏だったが、母の急死を機に人生で三度目の転期を迎えることになる。それは二代目としての社長就任だった。

母亡き後、飲食未経験のまま社長に。

「私は当社のレストランがたとえ、他社のお店だったとしても通います。それくらい大好きなお店なんです!だから、世界で唯一の『アメリカと日本のLPGA A級ティーチングプロ』ではあったものの、それはいつか2人目が生まれるだろうと思いましたし、私でなくてもいい。でも当社を愛しているのは、誰よりも私だったので、継ぐ覚悟をしました」。
「就任当初、ゴルフ経験しかない私に付いて行くことに不安を抱き、何人かのすごく大事な人たちが去ってしまいました。でも当時の私には、彼らを止める能力もなくて……」。
飲食業に関しては確かに素人だったが、「これを成し遂げよう!」という“スイッチ”の入った智映子氏は本当に強かった。同業他社との交流も積極的にこなし、父をはじめ信頼できるスタッフたちの力を借りながら見事に8店舗を采配している。
「あれから10年ちょっと経ち、自分がやりたかったことも徐々に形になり始めています。だから今、社長就任当初に去ってしまった人たちにも少しずつ会いに行っているんですよ」。
「“現地をそのままに再現する”って言うのは簡単ですが、ここまでこだわっている店は他にありません。しかも1業態ではなく、ミラノだったり、ヴェネチア、ローマ、プーリア…とイタリア料理だけで色々な業態をやっている会社って世界で唯一だと言われています。イタリアは20州ありますから、これからまだまだたくさんやる事がありますね!イタリア料理だけで40年。これを極めたら面白いなって」。
人生のどん底を幾度となく乗り越えてきた智映子氏は、はるか彼方にある理想という名のゴールを目指して今もまっすぐに歩み続けている。

思い出のアルバム

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