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第1097回 株式会社バルニバービ インターフェイス 代表取締役社長 中村雅仁氏

update 25/04/22
株式会社バルニバービ インターフェイス
中村雅仁氏
株式会社バルニバービ インターフェイス 代表取締役社長 中村雅仁氏
生年月日 1980年2月4日
プロフィール 大阪府堺市出身。京都外国語大学卒。フリーターを経て、バルニバービに入社。2004年、「カフェカーブ」に配属。子会社制度の1号店となり、のちに執行役員を経験。2016年、株式会社バルニバービ インターフェイスの代表取締役社長に就任。
主な業態 「GARB GREEN WALK」「GARB CASTELLO」「monochrome」「MEAL TOGETHER ROOF TERRACE」他
企業HP https://www.balnibarbi.com/group/detail.php?id=12315

ピアノと、少年と。

教室にピアノの音が響く。メロディが流れだすと、だれもが口を閉ざした。
「授業でピアノを弾いたとたん噂になって」。
これは、今回、ご登場いただいたバルニバービ インターフェイスの代表、中村さんが中学生の時の話。「小学2年生のときに、ともだちがオルガンでドラクエを弾いていて、かっこいいなと思って、ピアノを習いにいったのが始まりです」。
「中村はピアノがめちゃくちゃ巧い」。噂は学校中に広がって、合唱コンクールでも卒業式でもピアノを披露することになった。ホームページの自己紹介では「ピアノはショパンまで」と書いてあった。
「運動は苦手だった」と中村さんは正直だ。
「サッカー部に入りましたが、ほぼ幽霊部員。運動はイマイチでしたが、音楽は得意でしたから、将来は音大へ、なんて思っていました。でも、実際は京都外大です(笑)」。
「うちはガチガチの公務員一家ですから、息子の私にもとにかく『公務員になりなさい』と言っていました」。
実は、中村さん、公務員の試験を受けている。
「数学が苦手で、大学も外大でしょ。語学はできたんですが。公務員はマルチな分野の知識がないと、ちょっと無理。で、だんだん就活自体も面倒になって、公務員どころか就職もせずフリーター生活をはじめます」。
中村さんは、高校時代、大阪・梅田にオープンした「リッツカールトン」のオープニングスタッフとして採用されている。「こちらは高校時代の話です。リッツカールトンに直接採用いただたわけじゃなく、配膳会社に登録していましたから、ほかのホテルや芸能人のディナーショーでも配膳の仕事をしています」。
中村さんは、大学4年までこの仕事をつづけている。もっとも、就職で外食は選択肢になかった。
「車が好きだったんで、ディーラーもいいかな、とは思っていたんですが」と中村さんは苦笑する。飲食はもちろん、音楽の道もまた、なかったようだ。

バルニバービと、カミングアウトと。

「卒業してからは俗に言うフリーターになって、倉庫の仕事と、ワインバーの仕事をかけもちしていました。倉庫の仕事がいま一つだったこともあって、ワインバー1本にします。そうなると昼が暇でしょ。そのとき、バルニバービの求人に出会ったんです。7月にアルバイトで入り、翌年1月に正社員に登用いただきました」。
バルニバービは1995年、大阪の南船場に1号店となる 「アマーク・ド・パラディ」をオープンしている。以来、様々なカフェをオープンし、現在は「地方創再生事業」にも乗り出している。
「当時は、まだ10店舗程度で、何者かもわからないようなフェーズでしたが、バルニバービの世界観が私には似合っていたんだと思います」。
「でなきゃ、今頃、息苦しくて」と中村さんは笑う。中村さんは「セクシャリティがバイセクシャル」なんだという。
「カミングアウトは25歳のとき。バルニバービに就職していて、ある上司に相談したのが最初です」。
そのときの上司とは「バルニバービ オーガストの田中亮平社長」のこと。
田中さんとの関係についてもうかがった。
「田中さんにお会いしたのは、2004年にカフェカーブに配属になったときです」。
「田中さんのほうが3つ上」と中村さん。たがいにないモノをもっていたという2人は、上司と部下という関係でもあったが、ともにたたかってきた仲間でもあった。
田中さんの役職が上がると、いっしょに中村さんの役職もあがった。
「田中さんも経歴がユニークで、大学時代に柔道で世界2位になっていたり、前職が警察官だったりで。でも、公務員って頑張っても、頑張らなくても給料はおなじでしょ。そういう世界が、いやになってバルニバービに転職してきたそうです」。そういって、中村さんは可笑しそうに笑う。

バルニバービの初の子会社。

「田中さんと出会った『カフェカーブ』は、バルニバービの初の子会社です。そこからも、だんだんと分かれ、今(2024年)では、10の子会社があります。私が社長を務めるバルニバービ インターフェイスもその一つ。バルニバービが店をオープンして、子会社が、その店を運営するというスタイルです」。
「会社単位ですから、ハンドリングもわりと自由です。利益は、本体とシェアしますから、利益を上げれば当然、みんなのギャランティもあがる。運営の方法も私たち主導で行っていきますので、実績があがれば自信になりますし、失敗も含め、それが経験になっていきます。この経験はグループの新たな店づくりに参加したときや、独立して店をするときにも役立ちます」。
たしかに、たしかに。すでに独立した人も少なくないらしい。「うちでは、独立希望者も積極的に採用し、独立の支援も行っています。バルニバービのネットワークをそのまま利用することもできますから、比較的独立のハードルは低いです」。
ところで、田中さんに最初にカミングアウトしたときの話。田中さんは、どんな反応だったんだろう。
「田中さんは、ぜんぜん驚かないで、逆に半泣きになってはやく気づいてやれなくて、ごめん、って。田中さんのおかげでマイノリティっていう意識が、いい意味でなくなりました」。
以来、2人は、互いの得意分野と苦手分野をカバーするようにして、二人三脚で、業績を上げてきた。
「仕事のパートナーっていうとおこがましいですが。そうそう、じつは、このインタビューが始まる少し前にも話をしていたんです」。
2人の関係がうかがえる話ですね?。「そうですね。実際、いっしょに店をやったのは3〜4年ですが」。田中さんが子会社の社長になると、中村さんが、執行役員となって田中さんをサポートしてきた。
切磋琢磨、というのは、この2人のことをいうのだろう。「性格もちがうし、思考もちがう。ちがうからこそ、気づきもあるし、おぎなうこともできたと、私はそういうふうに思っています。もちろん、感謝は尽きません」。

中村というタレント。

バルニバービ インターフェイスのホームページをみると、期待通り、バルニバービらしい、素敵なカフェが現れる。今現在の、中村さんの現在地は、このバルニバービ インターフェイスのなかにある。
「多様性があり、ものごとに寛容な世界ですから、いろいろ個性的な人材が応募してくれます。そういう人たちを活かすのが、私の仕事」。
ホームページのなかで、中村さんは「中村の約束」として、つぎのように語っている。
「僕自身に個性があるように、一人ひとりのキャラクターを活かせる環境をつくります。自分らしさを恥じることなく、胸を張って生きていける、そんな会社、よくないですか?」。
来春、つまり2025年春からはベトナム人6人が、新たに入社するという。
「この夏にベトナムにいって、40人くらい面接させてもらって、そのうち6人を採用しました。異文化で育ってきた、新たな仲間が入社するのは、今から、楽しみですね」。
そういって笑う中村さん。
控えめな話ぶりのなかに潜む、ギラギラとひかる強烈な個性と、つよい志。バルニバービのなかでも、ひときわかがやきを放つタレントの1人にちがいない。

思い出のアルバム

 

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