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第1105回 有限会社野村興業 代表取締役 西川洋右氏

update 25/07/01
有限会社野村興業
西川洋右氏
有限会社野村興業 代表取締役 西川洋右氏
生年月日 1980年1月5日
プロフィール 大学2年の春、カナダに短期留学。4年時に1年休学して、今度は、1年の留学。二度目のカナダで出会った知人から、ケニアの仕事を紹介され、卒業と同時にケニアに渡る。4年間、NPO法人の一員としてケニアで生活。その時、知り合った女性と結婚。彼女は1947年からつづく、飲食店の、5人姉妹の長女だった。
主な業態 「旬菜炭焼 玉河」「串焼き たまがわ」「たれだくやきとん 玉河」他
企業HP https://www.tamagawa-japan.jp/

少年、西川洋右くん。

唐突だが、忍者の里は2つある。甲賀と伊賀だ。今回、ご登場いただいた野村興業3代目の西川洋右さんは、後者の伊賀。ただしくは三重県名張市に生まれている。
名張市は近鉄電車で大阪にも1時間。忍者の里は意外にアクセスが良好。西川さんによれば、奈良県までは歩いて行ける距離だそう。ウィキペディアで調べてみると「大阪のベッドタウン」とあった。
実際、西川さんも生まれは大阪。小さな頃に名張市に移った。お父様は大阪の八尾市にあるシャープに勤務されていたという。
電車で1本。1時間程度なら十分、通勤圏内。西川さんは3人きょうだいの末っ子。兄と姉がいる。
子どもたちにとって、自然豊かな忍者の里は楽しさに満ちていたに違いないと思っていたが、西川さんの話をきくと、イメージはだいぶ違った。
「とにかく引っ込み思案だった」と西川さん。
なんでも、やさしい兄に寝かしつけられ、姉のあとにくっついて歩く少年だったそう。
どんな少年だったのか、もう少し話をきいてみた。
「小学校では剣道を習っていました。母が坂本龍馬好きだったんです。特技はなく、これといったエピソードもありません。ただ、そうですね。掛け算をマスターするのがクラスでいちばん早かったくらいかな。あ、そう、それに演劇で、ウケた。これで、ちょっと自信がついたかな」。
<それも、小学生時代の話ですか?>
「そう。中学は卓球部。最初はまじめだったんですが、先輩とゴタゴタしているうちに、だんだん距離を置くようになりました(笑)」。
高校でも西川さんは、そのまま。兄姉とおなじ高校に進学し、おなじようにテニス部に入部している。
「高校まで、私自身の意思で何かをした記憶はありません。すべて流れに従って生きていたような」。
ただ一つ、小さなエピソードがあった。
「ある日、好きな子に告白したんです」と西川さん。
<どうなりました?>と聞くと、西川さんは、照れ笑いする。
初めての彼女。2人の初々しく、微笑ましい様子が頭に浮かんだ。

カナダへの留学と、西川青年と。

「天理教ではなかった」と断ったうえで、「天理大学に進学した」と西川さん。なんでも進学する頃、仏教に興味があったそうだ。天理大学は西川さんが歩いていけるくらいと言った奈良県にある。
「奈良はすぐですが、大学までは車で1時間くらい」と西川さん。
高校を卒業して、きょうだいは別々の道を進む。
「兄は福祉系の専門学校へ。姉は京都の芸大へ。そして私はちかくの、天理大学。やっぱり冒険心がないのかな(笑)」。
<でもこのあと、カナダへ。大胆な冒険のはじまりですね?>
「そうですね。2年の春に1ヵ月、短期留学します。高校からいっしょで、当時から憧れていた先輩がカナダに留学して、彼女から土産話を聞いているうちに行ってみたくなったんです」。
もちろん、簡単に行ける距離じゃない。世界地図でみると、かなり遠い。西川さんが留学したという「レジャイナ大学」は、中西部サスカチュワン州の州都レジャイナにあった。
西川さんによると、「ロッキー山脈から吹き下ろしがあり、マイナス40度になる」そうだ。
そのカナダでの話。
「カナダには1ヵ月、ホームステイをして。じつは、帰国して1年、バイトをしまくって、150万円ためて、1年休学して、今度は1年間、おなじレジャイナ大学に留学します」。
短期留学のときとは異なり、ともだちもできる。「韓国人の彼女もできた」と西川さん。その彼女とおなじシェアハウスに住んでいた青年が、つぎの運命をひらくことになる。
「彼がね、思いがけない話をもってくるんです」。
<どんな話ですか?>
「『ケニアに行かないか?』って(笑)」。

キリンとライオンと、ナイロビの4年間。

<ケニア?> 話をきいて、ふたたび世界地図を広げた。なんでも、内定を辞退し、大学卒業と同時にケニアに渡ったそうだ。
「彼の父親がケニアのナイロビを中心に活動するNPO法人の代表だったんです」。
法人の活動は、「微生物をつかって、スラム街を、」うんぬんというむずかしい話だった。
「日本での就職を辞め、ケニアに渡ったのは、私自身のアイデンティティが『海外』にあると思ったからなんです」。
しかし、今度も、遠い。
ナイロビは、アフリカ大陸の中央にある。赤道近くだが、「標高が高く、日本でいうと軽井沢のよう」と西川さん。クリスマスになると、欧米人が保養のためやってくるそうだ。
「もともとイギリス植民地でした。だから、ヨーロッパ建築の建物が少なくありません。市内には、有名なナイロビ国立公園があって、キリンやライオンが住んでいます」。
「飼われている」ではなく、「住んでいる」という言葉で、広くはてしないサファリと、そのなかで暮らす動物たちの様子が浮かんでくる。
ちなみに、ウィキペディアによると、ナイロビは、マサイ語で「冷たい水の場所」という意味らしい。むろん、ケニアの経済の中心地でもある。だが、中心部でも、治安はいいわけではない。むしろ、その逆。
「私も、何度か財布をすられて、そう、空き巣にも2回入られました。でもね。部屋に取るものなんてない。暮らしては行けましたが、給料だって5万円でしたからね」。
何もなかったからだろう。
「空き巣が取っていったのは、冷蔵庫にあるバナナだけだった」と、こちらを笑わせてくれる。
結局、西川さんは、このケニアには4年いることになる。その間、1人の日本人女性と知り合っている。その女性が今の奥様。奥様もおなじNPO法人で勤務されていたらしい。
ケニアで日本人の男女が出会う。奇跡的な出会いだが、ぎゃくにいうと、だから仲が急速に深まったのではないだろうか。
「彼女は私より1年早く帰国するんですが、最初は『ケニアでいっしょに暮らそう』と話していたんです。ただ、NPOの団体内部がゴタゴタして、彼女との間でも色々あって、私もケニアを離れて、帰国しました」。
帰国した西川さんは、日本の設計関連の会社に就職する。
<4年ぶりの日本はどうでしたか?>
「ぜんぜんちがいますよね。ケニアの道は、舗装もされていない赤土でしょ。治安もまったくちがう。向こうはさすがに怖かったです。ただ、周りには世界中の人がいて、私も世界のなかの1人でした」。
「自分の肌の色を忘れた」と西川さん。
「でも、日本にもどると、やはり、日本人ということを意識せざるをえなくなった気がします」。
貴重な経験は、カバンにしまい、就職したのは、海外とは縁のない会社だった。
「向こうで頑張ってきたと思っていたんですが、時間軸とか色々と違うところがあったからでしょうか」。
「なかなか思うように結果がでなかった」という。
「そういうときにお義父さんから、『一度、真剣に考えてくれないか』って、声をかけていただくんです」。
<跡取りの話ですね?>
「そうです。妻は5人姉妹の長女でしたから。つよく勧められたわけではいですが、お店をたたみたくないという義父の思いが伝わってきました」。

跡取りと、逆風と。

少し説明がいる。
奥様の実家は、1947年、立川で今川焼の「玉川」を創業。「戦後すぐですから、大豆は貴重な配給品で、あんこはさつまいもだったそうなんです。ただ、創業者の祖父は、中華街で大豆が使われていることを知って、生産者と交渉し、大豆100%の今川焼をつくり、販売します。それが、今の野村興業のルーツです」。
大豆のあんこ入りの今川焼は、価格は高かったが大ヒットする。商才があった創業者は、今川焼のショップに食堂を併設し、「食堂玉河」を始める。1950年には、有限会社玉河を設立。店名を「酒亭玉河」に変更。多摩地域で初めて生ビールの提供を始めたそうだ。
立川を舞台に、「食」が戦後の復興を彩る。
1956年には有限会社るもんを設立。「喫茶店るもん」を創業。1971年に有限会社野村興業を設立。1975年には、「ろばた焼き玉河」をオープン。
創業者の一言がふるっている。
当時は、だれもが、猛烈サラリーマンだった。競争に競争を重ねるサラリーマンたち。グチもやまほどある。しかし、吐き出すところがない。
だから、創業者は、こういった。「愚痴を家庭に持ち帰らなくてよいように」、と。それが、「うちの役目なんだ」と。
そして、時は流れ、2011年。3代目の候補として西川さんが入社。西川さん、31歳のときである。
「義父は4人兄弟の末っ子です。義理の祖父は、大学教授になった長男以外の息子たち1人ずつに事業を譲ります。次男が食堂、三男が喫茶店、そして四男の義父が炉端という感じです。私が入社したとき義父は、炉端と、もう一つ高単価な居酒屋を経営していました」。
義父と義理の息子の間で話はついたが、現場では、突然、ふって湧いたように跡取りが現れたことになる。
「総スカンでしたね。当然、本店の炉端からスタートするんですが、すぐに、もう一つの『かぶら』という高級居酒屋に追いやられます」。
本店のベテランは、飲食の経験もない跡取りを認めない。
「当時、『かぶら』は業績が良くありませんでした。『どうするのか見ものだな』くらいに思われていたんじゃないですかね。そこで手を差し伸べて下さったのが立川の飲食店の先輩、株式会社MOTHERS保村社長と株式会社ちゃんばら尾作社長。社内に味方が少ない状況で助けて下さったのは、社外の飲食業の先輩達でした。4年かかりましたが、なんとか立て直すことができました。その一方で、今度は、本店の業績が落ち込みます。そういうこともあって、義父というか、社長から、本店にもどれと辞令が下りました」。
<でも本店には、牙をむくベテランばかりだったんですよね?>
「そう。ベテランだけじゃなく、若手もいました。全員、私にもどられたくはありません」。
<とはいえ、社長命令ですよね?>
「そうなんですが。私がもどるなら『全員辞める』と社長を脅します。それで社長が私にいうんです。『辞められたらどうにもならない。土下座でもなんでもして、ひきとめてくれ』、と」。
保身ばかりでお客様の方向を向いていない連中に下げる頭はもっていなかった。
「社長にいうんです。『お義父さん、それじゃだめだ。彼らに残ってもらっても、なにも改善しない。業績が落ち込んだから、ぼくは帰ってきたんです。任せていただけるんなら、ぼくを信じてください』って」。
少年のひ弱な面影はない。そのときの心境を西川さんは次のように語っている。
「カナダに留学しただけじゃなく、ケニアで4年間、はたらき、生活した。それだけで、すごいねって言ってくれる人もいます。でも、ぜんぜんすごくない。興味本位ではたらいていただけで、失敗したら人のせいにするような姑息な人間だったんです」。
<でも、もうだれかの責任にはできない?>
「スタッフは全員、せせら笑うようにして店をあとにします。私1人、もう、だれの責任にもできないし、できる相手さえいません。興味があるかないかも、関係がない。『やる』それだけです」。
だれもいない厨房をみても、西川さんは下を向かない。むしろ、奮い立つ。
「定休日がなかったこともあって、週に2日休みにします。また、メニューを『刺し身』と『やきとり』だけにして、ベテランの料理人でなくてもできるシンプルなオペレーションにします。助けてくれる人も現れました。一度、退職し、ご自身で店を経営されていた方がもどってきてくださったり、私がみていた、もう一つのお店のスタッフが応援に来てくれたり、と」。
そうなったとき、「初めて人に感謝する気持ちをもつことができた」と西川さんは言っている。
奥様のサポートもあった。弱気になるタイミングがあると、その都度、励ましてくれたという。
西川さんの奮闘もあり、本店の業績もまた、回復。だが、今度はコロナ禍が、襲ってきた。もちろん、苦境になればなるほど、西川さんはつよくなる。とはいえ、相手は、コロナだ。
それでも、西川さんは「たいへんだったが、ぎゃくに楽しかった」と、コロナの時代を振り返る。そして、コロナ禍のなかで社長に就任。婿養子の青年は、晴れて、3代目、店主となった。

愛ヨーーー。

「数字のための軍隊」と、西川さんは飲食人をみる。
「数字のために、客単価をあげなきゃいけない!とかね。たしかに、数字は大事ですが、理念や、会社や個人の目標、そういう大事なものを見失ってはいけないと思います」。
「私たちのお店って結局なんだっていうと、やはり創業者からつづく、お客様への思いなんです。うちのような大衆的な居酒屋は、『息抜き』でいいじゃないですか。いやなことを、水じゃなくハイボールで流す。3杯も飲めば、たいてい流れていっちゃいます(笑)」。
スタッフは、3杯目のグラスの底が上を向くと、すかさず、水をだす。店では「おせっかい水」と言われている。
「私たちのビジョンは、明日のためのおせっかいです。そりゃ、売上数字のためには、たくさん飲んでもらいたですよ。でも、それじゃだめ。うちは、お客様に元気になってもらうために、商売しているんですから」。
スタッフにも、当然、元気と活力を求めている。
「無理やりじゃない。私たちはフラットな関係で、スタッフがやりたいことをちゃんと実現できるよう応援しています。そんななかで、転職してきたスタッフがやる気を起こしたり、再生したり、笑顔になったり、そういう姿をみていると、今度は私が元気になるんです」。
独立志望のスタッフも多いからと、新規オープンも行っていく予定だ。「立ち上げなど、貴重な経験を積み、将来的には、店を譲るなど、うちらしい方法で、彼らの目標を支援していきたいですね」。
ケニアで、ケニアの人たちを支援・応援したときと、どこか似ている。
そんな西川さんが、最後にこう付け加えた。
「うちでは、『はいよーーー』じゃなく、『愛ヨーーー』っていうんです」。
愛ヨーーー、いい響きだ。
「愛」という言葉が似合う人は少ないが、今、目の前にいる人は、その少ない人の1人かもしれないと思った。
「愛ヨーーー」。
そんな掛け声が、今日も、西川さんのお店には溢れている。
ちなみに、外国人の受け入れも行っていくそうだ。自身の経験があるだけに、スムーズに行くのではないか。また、独立支援や、しくみづくりも行っていく。
オープンの目標は、2030年までに15店舗。
今、魚屋さんを買う話が出てるそう。「そうなれば、競り棒をもって市場に入れる」と西川さん。
さて、その話はどうなるのだろう。数年後に、また話のつづきを聞いてみたいと思った。
もし、その思いを口にしたと、西川さんは「愛ヨーーー」と言って笑ってくれたにちがいない。

思い出のアルバム

 

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