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第1107回 株式会社ホイッスル三好 代表取締役社長 三好一太朗氏

update 25/07/15
株式会社ホイッスル三好
三好一太朗氏
株式会社ホイッスル三好 代表取締役社長 三好一太朗氏
生年月日 1987年1月6日
プロフィール 高校入学と同時に、父の命令に従ってアルバイトを開始。マクドナルドなどで経験を積み、大学入学と同時に、父が経営する「中国ラーメン揚州商人」の深夜バイトをはじめるなど、英才教育がスタートする。大学卒業後、コンサルティング会社に就職して、9ヵ月後、ホイッスル三好に転職する。
主な業態 「中国ラーメン揚州商人」
企業HP https://www.yousyusyonin.com/

曽祖父、祖父、父、そして。

日本の敗戦で、日本と中国は戦勝国と敗戦国の関係になった。今回、ご登場いただいたホイッスル三好の2代目社長、三好さんの曽祖父様が事業を起こしたのは、そういう頃だった。
「初代の曽祖父が来日したのは日中戦争の頃です。床屋からスタートして、日本人女性と結婚します」。
曽祖父、祖父、父。初代の曽祖父から数えると、三好さんで4代目となる。だから三好さんは、「ワンエイス(1/8)」だそう。
「曾祖父が日本に来て年月が流れ、生まれたハーフの祖父は、戦後、千住大橋でラーメン『正華』をオープンします。これは太平洋戦争のあとで、中国は戦勝国でしたから、その特権で、小麦がいくらでも手に入ったそうです」。
-------かなり繁盛したそうですね?----
「ええ。のちに浅草の雷門の近くに5階建のビルをつくり、新たに店をオープンします。祖父は事業家で14軒くらいの飲食店をつくったそうです。日本ではじめて会員制のバーをオープンしたとも聞いています」。
飲食だけではなかった。パチンコ店もオープンし、利益は相当、膨らんだ。「鬼怒川にロイヤルホテルがあったんですが、それも祖父の事業の一つでした」。
少し気になって「鬼怒川ロイヤルホテル」を調べてみると、創業は1962年。創業時の名称は「ホテル正華」だった。ラーメン店とおなじ「正華」。ちなみに、「鬼怒川ロイヤルホテル」となったのは1972年のこと。
祖父は、日本に帰化し、松田と名乗った。
「三好というのは、祖母の姓です。私の父は4人兄弟の3男で、大学を卒業して、祖父が経営する中華料理店に就職します」。
ウエイターからスタートしたお父様だったが、半年で専務に昇格。前回、お父様である三好比呂己氏にインタビューさせていただいたときに、お父様は当時のことを次のように振り返られている。
「父(三好比呂己氏にすれば祖父)が事業家で、私といったらお金持ちのボンボンの典型です。父の中華料理店に就職したときも、次期社長くらいに思っていてね。ところが、入社すると『ウエイターからはじめろ』と言われるんです」。
「ウェイター?」、様子がちかうぞ。

父、三好比呂己の話。

「突き放すようなトーンだったもんですから、あのときは、いくらチャランポランな私でもさすがにまずい、と。だから、心を入れ替えて、がむしゃらにはたらきました。そうこうしているうちに、半年が経ち、父に認められたのか、専務に昇格します」。
「しかし、半年、がむしゃらにはたらいてきたでしょ。そう長くつづきません。当時、鬼怒川のホテル(「ホテル正華」のこと)がオープンして、父はそちらにいたもんですから、私を監視する人がいない。そうこうしているうちに、またいい加減な性格が顔を出して。今度は、ぐうたら専務の出来上がり。専務という立場ですから、そりゃ、まずいですね」。
お父様である三好比呂己氏が25歳の頃の話。
「それから3年経った頃に、祖父がからだを悪くして、専務の父が会社を継承するという話になったそうです」。これは、三好さんの言葉。
「で、社長業なんてできないと悩んでいたときに、あの自己啓発プログラムに出会ったそうです」。
三好さんが「あの」というのはアメリカの教育家ポール・J・マイヤーの提唱した教育プログラム「サクセス・モチベーション・インスティチュート」(SMI)のこと。
のちに、お父様の三好比呂己氏は、SMIの代理店をつくり、7年連続、セールス世界1位を獲得されている。こちらについては、お父様にインタビューさせていただいた前回の記事に詳しく描かれている。2億円の遺産をけり、裸一貫で飛び出されたときの様子も含めて。

167人中、165番目。

「ここまでは、私が生まれる前のお話です」と三好さん。
ちなみに、裸一貫でスタートしたお父様は、SMIプログラムの代理店の権利を獲得し、セールスを開始。のちに「株式会社ダイナミックスパースンズ東京」を設立。
設立2年目から7年間、世界一を獲得。なんでも世界に3000社の代理店があり、1万人のセールスマンがいるなかでの世界一。快挙である。
「株式会社ダイナミックスパースンズ東京」の設立は1985年とあった。三好さんが生まれる2年前のこと。
それはともかく、ここからは改めて三好さんの話を始める。
「運動できないし、勉強はもっとできない少年だった」と三好さんは笑う。
「中学2年生の頃ですが、この成績ではどの高校にも進学できないと太鼓判を押されたくらいです(笑)」。
-------社長にもそんなときがあったんですね?-----
「長男がボンクラのままじゃいけないってことで、とにかく、次々と習い事をさせられ、塾にも通います。でも、いっこうに成績は上がりません(笑)」。
------なにか別なことに興味があったとか?-----
「ズバリ、そうなんです。うちの父もそうなんですが、とくに叔父がモーター雑誌で有名な『三栄書房』の創業者で、自身もレーサーで大会で優勝もしたこともあって、何よりあのカーオブザイヤーの審査員長でした」。
ポルシェ911にも、BMWにもよく乗せてもらったという。
「そういう叔父の影響をもろに受けて、車に興味をもち、スポーツができないのに、将来、レーサーになると誓っていたんです」。
レースのテレビゲームに熱中。スポーツはかろうじてサッカーはしたが、勉強はまったくしない。
------レーサーとはかっこいいですね?------
「目標はかっこいいんですが、さっきの中学の話でいうと、生徒数が167人で、私はちゃんと学校にも通っていたんですが、165番目でした。中2になった頃、あまりの成績の悪さに、父が激怒して3人の家庭教師をつけられてしまいます」。

猛特訓の結果は?

1日10時間の猛勉強。「猛特訓」といったほうがいいかもしれない。
「父の昔を知ると、チャランポランな性格をちゃんと受け継いだんだなと笑いたくもなりますが、当時も、今もですが、父は私にとっても偉大な存在です」。
------お父様とお祖父様のような関係ですね?------
「かもしれません、私の人生は、すべて父がレールをひき、その上をトロッコ電車のように走るノロマな存在が、私だったんです」。
サーキットをかけるレーサーとは、だいぶ、異なる生き様だった。
もっとも、10時間の猛特訓は伊達ではない。最終的には英語ではトップ校に合格するレベルだったそうだ。
ただし、高校進学は、三好さんが思い描くようなバラ色ではなかった。

高校1年生。親子の盃?

高校に進学したものの、たのしい高校生活とは無縁だった、と三好さん。
------玉川学園高等部に進学されています------
「ボンボン高校です(笑)。合格が決まり、これで父の呪縛からも解放されたと思ったその日のことです。父が、初めて『オレの事業を、継ぐか、継がないか、どっちだ?』っていうんです。そりゃ、少しは、父の事業にも興味があったのは事実です。しかし、レーサーにチャレンジしてもいない。だって、高校1年生ですよ」。
ちなみに、お父様が「継ぐか」といったのは、世界トップを獲得したダイナミックスパースンズ東京ではなく、のちにオープンした「中国ラーメン揚州商人」を経営するホイッスル三好のこと。
------高校1年生、それはまだ決められないですね------
「でしょ。でも父は迫るわけですよ。最初はレーサーが、ぐるぐる頭のなかをかけまわっていたんですが、だんだんと、そうはいえないような気になって。4代目という響きも悪くない」。
「それで、『継ぐ』といったら、父は『そうか』といって、語り始めるんです。なにか特別な、秘伝みたいなもんだろうかと思っていたら、先代、つまり父が『オレも言われて、その通りにしてきた。先代のいうことは絶対、逆らうな』って。先代が、白といえば、カラスも白だって」。
まるで、親分、子分。
最初の指令が親分のお父様から下りる。
------アルバイトの話ですね?-----
「そうです。『継ぐんだったら、じゃあ、アルバイトだ』と。父の相手、つまり私ですが、まだ、高校生ですよ。父親が高校1年の息子に言いますか? でも、もう、父の命令は絶対です」。
マクドナルド下北沢店9ヵ月、サイゼリヤ浜田山店半年、お父様のお店でもある揚州商人9ヵ月、ポポラマーマは4ヵ月、どうとんぼり神座4ヵ月。合計32ヵ月。単純計算でいうと、高校生活36ヵ月のうち、32ヵ月、バイトしたことになる。
「部活もできないし、勉強もできない。高校から、跡継ぎ修行です」。僧侶の修行のような厳格な、精神修行のようなイメージがある。
------印象に残っているバイトはあるか?------と聞くと、マクドナルドと三好さん。なんでも鉄拳がとんできたという。
「ミスを連発していた私も悪かった。でも、胸ぐらをつかまれてね。その日は、泣きながらバイトです。父に恐る恐る辞めてもいいかと聞くと、『いいよ』って軽く言うんです。いいんだって胸をなで下ろすんですが、そのあと、『だがな、いま逃げ出すか、皆から惜しまれて辞めるか、そのちがいは大きいぞ』っていうんです。ピュアな高校生には、その一言が刺さります。『だよな』って」。
改心して高校生は目覚めたようにシフトを入れまくって、ときには学校まで休んだ。ボンクラが、貴重なプレイヤーになるまで、9ヵ月。
「9ヵ月経った頃、数ヵ月前、私を殴った先輩が猫なで声で『これからも頼むわ!』って言うんです。その一言をきいて、『じゃぁ、辞めさせてもらいます』と(笑)」。
恨みがあったわけではなく、目標を駆け抜けたから。
「もともと父から5ヵ所って数字も指定されていたんです。だから、マクドナルドだけにいるわけにはいかない(笑)」。

高校時代の修行が終了。大学に進学すると、深夜のシフトに入れと、指令が下りる。

「2件目は、サイゼリヤと決めていました、マクドナルドともちがって、こちらも衝撃的でした。すべてが、合理的。歩幅から、からだの向きまですべて理論立て、計算し尽くされています」。
感動した、と三好さん。あまりに感動して、毎日、マニュアルを読んだ。
「そういう一つひとつが、頭に残るんです、学校では、教えられない貴重な体験でした。もちろん、まだ2件目、3件目は、父が経営する揚州商人のオープニングに入れと、初めて父から指定されます。経営者の息子っていうのは、シークレットにして、オープンに参加します。店長だけには、父が言っていたようで、だからでしょうね。周りが驚くほどこっぴどく叱りながら育ててくださいました」。
「効率や、合理性でいうと、マクドナルドやサイゼリヤと比較するまでもありません。ただ、父はSMIプログラムの世界一の経営者です。気合と根性と言えばそれまでですが、店全体がモチベーションにあふれて、お客様へのハートは、マニュアルやシステムとはちがう、強烈なパワーをもっていたように思いますね」。
------そのあとも、ポポラマーマと、どうとんぼり神座、こちらもお父様の指示?------
「いえ、揚州商人以外は、すべて私が決めてはたらきました。神座で修行終了かというと、そうではありませんでした。大学に進んでからは、深夜の仕事ができるようになるでしょ。だから、1年間、揚州商人の深夜の現場ではたらきます」。
------勉強きらいで、チャランポランな三好さんはいったい、どこにいったんでしょうね------
「そうですね。なんだかんだと言って、父親が絶対だったからでしょうね。今思うと、きょうだいは私の下に妹と弟がいるんですが、長男の私に、父も母も何かを掛けていた気がします(笑)。大学2年生になると、『もう現場はいい』といって、ちがった宿題がでてきました」。
------どんなふうな?------
『今度は、これはと思うショップに行き、レポートしろ』って」。
レポートは200店を超えたそう。なかでも印象に残っているのは? と聞くと「モンスーン・カフェ」との回答。グローバルダイニングの名店だ。
「記憶に残っているのは、サービスもそうですが、やはり料理ですね」。
息子がマーケットリサーチに精をだす頃、父親が経営する「揚州商人」は、初めて赤字を計上していた。「私が大学3年の夏かな。父がはじめて弱音を吐くんです。『赤字の原因は、オレの経営ミスだ』って。父は『出店を急ぎすぎた』というのです」。
-----初めてのお父様の弱音、どう受け取られましたか?------

ホイッスル三好、入社。

「びっくりした」と三好さん。「それで、父をサポートしようと、その夏から父のカバンもちをはじめました」。
お父様を車に乗せ、全店を回り、ふたりそろって朝から掃除もした。「あのときがあったおかげで父の、また経営者の思いと、経営者の仕事の本質が少しわかった気がします」。
大学を卒業したあと、三好さんはホイッスル三好ではなく、経営コンサルティング会社に就職する。
スタッフの顔ぶれを聞くと、三好さんがしきりに「プロ中のプロ集団」というのも頷けた。
「その会社には縁があって、もともとうちのコンサルティングもお願いしていたんです。ただ、減収増益という結果で。それが原因ではないですが、なかなかうまくいかないんで、じゃぁ、私がもどろうか、と」。
増益は、ある意味、むずかしくない。経費を削減すれば、利益はあがる。
「経費削減は進めるべきですが、そこだけにシフトすると、大事なものがなくなってしまいます。売上も、その一つです」。
およそ9ヵ月、コンサルティング会社に在籍したのち、三好さんは、ホイッスル三好に転職する。
前回、お父様、つまり今の会長にインタビューしたとき、活躍する息子の三好さんを手放しでほめておられた気がする。そのことを思い出していうと、三好さんは「そんなことをいっていましたか。」と、はにかんだように笑った。どうやら、直接はおっしゃっていなかったんだろう。
23歳で、入社した三好さんは25歳で専務に昇格する。ほぼ、お父様とおなじ年齢での昇格。ただし、お父様とちがって、ボンクラ専務にはなれなかった。業績がいいと言えなかったからだ。

ホイッスルを鳴らせ。

「私が父親に代わり、社長に就任したのは2018年の夏、31歳のときです」。若い三好さんだが脇を固めるのは優秀なメンバーばかり。
三好さんも負けてはいない。業績が低迷するなか、専務時代に企画室を立ち上げ、アプリやサブスクにチャレンジ、成果を残している。
その一方、お父様に似て、エネルギッシュ。167人中、165位だったことがなにかの間違いだと思うほど、本を貪り読み、ときにセミナーにでかけ、教えを受けた。
経営の真理とはなにか、人の心を動かすにはどうすればいいか。その修行僧にも似た真摯な姿は、たぶん、25歳で専務になったときと比べても、別人だったにちがいない。
そんな三好さんに「いちばんきびしかったときは?」と質問すると、「飲食ならみなさんそうだと思いますが、コロナ禍ですね」との回答。
「実際、潰れそうになった」とトーンを落とす。「毎週、銀行と折衝。からだに刻まれるように財務がわかった」とも言っている。
借入金額は、億単位。プレッシャーはハンパない。経営の指南書を貪るように読んだのも、この頃。経営者がかわることで、スタッフも再生する。
「経営者の下で、スタッフみんなが一つになって前を向いているかどうか、それが経営の一つの指標になると思っています」。
コロナ禍のなか、ホイッスル三好は、三好さんを中心に一つになった。「サブスクや、オンラインショップ、今もそうですが、それもまた功を奏したと思います」。
コロナ禍が終焉したのちの業績は、驚くほど拡大している。「おかげ様で」と三好さん。物価高も、なんのその、というイメージだ。
和食ブランドの開発や、海外進出。世界へ向けた活動もすでに開始している。
ホイッスルを鳴らせ。
すでに、会社のなかには、三好さんが鳴らすホイッスルの音が高らかに響いているのかもしれない。
余談だが、三好さんのいうサブスクは月額300円のプレミアム会員のこと。使い方によっては1000円以上得になるから、これははずせない。
もう一つ、中国ラーメン揚州商人は、「中国ラーメン」とショルダーについている。ラーメンだが、日本の醤油、豚骨、塩といったカテゴリーとは異なる。いわゆる中国料理の一つ。ホームページのメニューを観ると納得いただけるはずだ。

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