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第118回 株式会社エイジアキッチン 代表取締役 吉崎英司氏
update 10/04/06
株式会社エイジアキッチン
吉崎英司氏
株式会社エイジアキッチン 代表取締役 吉崎英司氏
生年月日 1970年、東京に生まれる。
プロフィール 物心がついた頃には、すでに両親は離婚しており、3つ違いの兄と共に、母の手ひとつで育てられる。母が経営する居酒屋を16歳の頃から手伝い始め、高校卒業と同時に社員に昇格。
店長などを任されるが、26歳で退職し、海外出店を夢みて、海外へ。
その時、出会った人物から、「まず日本で成功してから」と言われ、日本に戻り、株式会社エイジアキッチンを設立する。
現在、「成ル」など渋谷、世田谷に4店舗を出店。海外出店も検討中。
主な業態 「成ル」「巖」など
企業HP http://www.asia-kitchen.co.jp/

母の背をみて育った少年は、自らの力で歩くことを覚えていく。

「人間力がある人だな」。話を聞いていて、そう思った。株式会社エイジアキッチンの代表取締役、吉崎英司のことである。一般論として、人間力とは実行力や行動力、包容力などを指すが、この人の場合は、謙虚な人間性が、彼の人間力を形成しているように思えてならない。吉崎はどのようにして、この謙虚な人間性を身につけてきたのだろうか。彼の生い立ちに迫ってみた。
1970年、吉崎は世田谷区に四人家族の次男として生まれる。ただ、物心がついた頃には父の姿はすでになく、母が一人で息子たちを養っていた。「昼間は、自動車ディーラーで、夜はスナックで働いていた」と吉崎は当時の母の様子を振り返る。「晩御飯は、スナックで出すお惣菜。それがなければスナックで客と一緒に食べた」という。
その母は、スナックの経営も任されていたらしく、やがてその店を買い取り自立することになる。この小さな3坪程度のスナックが、その後の、吉崎家の3人の人生を描くうえでのベースになる。
さて、子供の頃の、吉崎はどんな人間だったのか。「お手本は3つ離れた兄でした。悪いことは何でも兄が先行してやってくれた。だから、その後を追っかけつつも、自制心が働いた」と、笑いながら振り返る。母の目線でみれば、この二人の息子はどのように映っていたのだろうか。学校からも、警察からも何度も呼び出しを受けた。兄だけでなく、吉崎もまた小学生の頃になると渋谷で補導されるなど、母を困らせている。
「さすがに母に迷惑をかけてはいけないと思っていました」「母からは、自分の責任は自分で取れと。そういう風に言われ、育ちました」「母は、明け方3時ぐらいまでスナックで働き、家に帰って数時間眠った後、朝ごはんを作り、子どもたちを学校に送り出して、自分も会社に出勤するという毎日を送っていました」。そんな母の背中をみて吉崎は育つ。仕事の厳しさ、生きる厳しさを理解し始めたのは、すでに小学校の頃からではないだろうか。

母の店で始めた皿洗いが、飲食店での初仕事だった。

中学生になった吉崎は、新聞配達のアルバイトを始めている。また中学卒業と同時に、一時、兄が働いていたバイト先に事情を説明し、高校生になる前から本格的にアルバイトを開始している。母が、居酒屋を経営すると言ったのは彼が高校生になる頃。スナックで貯めた資金をもとに、居酒屋の経営に乗り出した。有名な居酒屋から、のちに吉崎が大ボスと語る有能なスタッフをはじめ、数人の社員を招き入れたのもこの時である。
吉崎もこの時、母から皿洗いを命じられている。吉崎と飲食業との付き合いは、この時の皿洗いから始まった。一方、この新店は順調に売り上げを上げていく。「10坪程度の店で、300万円ぐらいの月商を上げていた」そうだ。
余談だが、母が直接経営する「スナック」のほうでも、300万円くらいの月商があった。何度もいうがわずか3坪あまり。坪あたりの売上でいえば驚異的な数字を叩き出していたことになる。吉崎が、母としてはもちろん、経営者としても尊敬しているのはこのためである。
高校卒業後、吉崎は母の会社の社員になるのだが、その社員時代を語る際に「…してもらった」という表現を使う。たとえば「海外旅行に連れていってもらいました」という風に。他人行儀である。しかし、ここに謙虚さがある。遠慮ではなく、母を経営者として尊敬するからだろう。だから公私は明確に分けることもできた。2店舗目を出店する際、吉崎は、まだ若かったが、仕事ができ、部下からの信頼も厚かった。しかもオーナーの息子である。だから、自分が店長になるだろう、と思っていたそうだ。だが、大ボスという人間は、彼ではなく、もう一人を店長に抜擢した。悔しかった。それが3店舗目ではじめて店長に抜擢された時のエネルギーになっていく。箱は大きかったが、立地としては他の2店には劣る。それでも、吉崎は、既存の2店舗を上回ることを目標に、徹底的に戦った。自分の力を証明するかのように、必死に。いったん、母の会社から離れていた兄が戻ってきたのはちょうどこの頃である。

自立した青年が選んだのは、海外への進出だった。

普通、オーナーの子息であれば初めから、跡継ぎとして迎えられる場合が多い。しかも、まだ小さな会社である。家族経営があたりまえだ。しかし、吉崎家では、母も、息子らも一線を設けていた。「自分の力で」という教育が行き届いていた結果ではないか。ともかく吉崎も、兄も、葛藤しながら、店の運営、会社の運営に関与するポストを手に入れていく。
さて、先を急げば、吉崎は、この数年後、この母の会社を退職する。親が経営する順調な会社を退職するという決断は、なかなかできることではない。「アメリカなど海外に憧れていて、そこで勝負したかったから」と吉崎は振り返る。
しかし、この吉崎の決断がちょっとした波乱を引き起こす。大ボスと呼んでいた責任者が、吉崎が店を去ることをきっかけに、社員を引き連れ、店を離れてしまったのだ。当然、店の運営は成り立たなくなった。「それで1年間、海外に行くのを先に延ばし、兄といっしょに立て直しに邁進した」と吉崎。信頼していた人間に裏切られたという気持ちも少なからずあっただろう。
吉崎は人間を大事にする。なぜか。こんな逸話がある。吉崎が3号店の店長になった時、他の店の業績が落ち込んだ。「どうして、他の店は業績が落ちたのでしょう?」というインタビュアーの質問に答え、「やはり人間だと思いますね。たとえば、店が終わってから飲みに行く。翌日は二日酔いの赤い目でやってくる。そういう人間が包丁をふるう。それを見ている周りの人間がよしがんばろうなんて気持ちにはなりませんよね」と。たしかに飲食業は、人がすべてである。
さて、1年遅れでアメリカに渡った吉崎は、ニューヨーク、サンディエゴに2ヶ月滞在。その後、イタリア、スペイン周り、約3ヶ月を海外で過ごしている。
サンディエゴで、すし店を経営する店主に出会い、海外で店を出したいことを告げ、相談を持ちかけた。店主は吉崎に何をみたのか、以下のように、答えている。「君は一介のすし職人でいいのか。君なら日本で成功することもできるだろう。こちらで勝負するのはそれからでもいいのではないか」と。吉崎はその助言を素直に聞き入れた。1999年、株式会社エイジアキッチンが誕生した裏には、こうした経緯もあった。
ちなみにこの社名にも、海外を意識した吉崎の考えが透けてみえる。今年、もしくは来年、初の海外進出が実現する。「それがどこになるか、まだちょっとわからないですが、アメリカの物件も、ずいぶん安くなっている。だから、いまがチャンス」と吉崎。偉大な母から独立した青年が、その母も思い描かなかった遠くへ飛び立とうとしている。謙虚に、力強く。それもまた彼の人間力のなせるわざかもしれない。

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