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第148回 株式会社KUURAKU GROUP 代表取締役 福原裕一氏
update 10/07/06
株式会社KUURAKU GROUP
福原裕一氏
株式会社KUURAKU GROUP 代表取締役 福原裕一氏
生年月日 1965年4月、神奈川県横浜市に生まれる。
プロフィール 父はタクシーの運転手。母は専業主婦。3人兄弟の末っ子。高校卒業後、花王に就職するが、22歳で退職し日本マクドナルドに転職。同社でマネジメントなどを修得するものの、事業立ち上げに失敗。苦難の道をあゆむ。「くふ楽」設立は1999年。同年4月に「炭焼BARくふ楽」本八幡店を開店し、その後は、順調に拡大。現在は外食店の経営から店舗プロデュース、教育事業、コンサルティング事業、ウェディング事業など多岐に渡る事業を行っている。2010年5月現在、飲食店は国内に19店舗・海外に4店舗、個別学習塾を2校舎展開している。
主な業態 「くふ楽」
企業HP http://www.kuuraku.co.jp/
「母を幸せにしたい」、株式会社KUURAKU GROUP 代表取締役 福原 裕一は、そう思いつづけた。うまい野球に専念し、プロのスカウトの目に留まるまで練習に明け暮れたのも、その一心からだった。しかし、この思いには、たぶんに己の華々しい成功も同時に描かれていたのではないか。母が願ったであろう、地道な幸せとの間には大きな隔たりがあったに違いない。今回は、この福原の人生をたどりながら、「幸せの正体」について、また起業家が追いかけるべきことについて考えてみよう。

ガキ大将。

福原は、1965年4月、神奈川県横浜市に生まれた。父はタクシーの運転手をやり、母は専業主婦として家族を支えた。3人兄弟の末っ子だった福原は、2人の姉と共にスクスクと育っていく。幼稚園の頃はわんぱくで「良く母に連れられ友人の家に謝りに行った」そうだ。運動神経も良く、学力もあった。福原の父親は苦労人だったが、運転手として稼ぎが増えるとギャンブルにのめり込み、家庭をこわしてしまった。福原が7歳の夏休み。一家は逃げるように千葉の銚子に移り住む。この後、福原家は、福原が小学3年生の時に、神奈川県の藤沢に引越し、6年生の頃にもう1度、銚子に戻っている。再度、銚子に移るときには母と父が離婚。その後、福原は、母の苦労をみながら育つようになる。福原が野球を始めたのは小学生時代から。多分に父の影響があった。福原の父は野球がうまく、運転手の頃にはアマチュア野球に所属し、新聞にも採り上げられたことがあるそうだ。父の素質を引き継いだのだろうか。中学になり、本格的に野球を始めた福原はみるみる頭角を現し、野球推薦で高校に進学。キャプテンを務め、プロのスカウトの目にも留まるようになる。「プロになれば、母を楽にしてあげられる」。白球を追いかけながら、福原は、そう考えていた。

プロの道

プロに注目されるようになった福原だったが、結局、高校時代はプロから声はかからなかった。大学からは特待生での誘いもあったが、人に援助されながら野球をつづけることに疑問を感じ、進学をあきらめた。高校を卒業した福原は、「花王」に入社。石鹸工場で勤務するようになる。母はこの進路を喜んだに違いない。「職場はたのしく、人間関係も良好だった」。だが、一方で、若い思いが野球とは異なる新たなステージへと福原を駆り立てた。当時、通勤の合間に読んだのが、「邱永漢」や日本マクドナルドの創業者「藤田田」の著書。これらの著書に感銘を受けた。そんな折、偶然、日本マクドナルドの求人広告に出会う。「『2億円をあなたに任せます。経営を学んでください』というキャッチフレーズでした。すでに起業したいと思っていましたから経営を学ぶ最良の機会だと思ったんです」。実は、飲食店ではたらきたいと思ったのはこれで2度目だった。1度目は、高校時代。ラーメン店でアルバイトを経験した。「お客様から『ごちそうさま』『ありがとう』といわれ、そのうえお金までもらえる、そんな商売に惹かれた」と福原。実際、その道に進むことも検討したが、この時は母の猛反対を受け断念している。当時は、日本マクドナルドといっても認知度は低い。「母は、ハンバーガー屋さんでしょ」と息子の転職に反対。それが当時の一般的な評価だったかもしれない。しかし、今度は、福原が気持ちを曲げなかった。まぎれもなくプロへの第一歩だった。

甘すぎた起業。

「数日もすれば、辞めたくなった」、入社当時のことを福原はそう語っている。ハンバーガー一つ作れず、アルバイトにも怒られるような日々がつづいたからだ。だが、次第にマネジメントのコツを覚え、経営のノウハウを修得するにつれ自信も生まれてきた。もともと素直な性格だ。先輩たちの言葉を吸収し、日本マクドナルドの秀逸な教育を通し、ストアーマネジメントを修得していくことになる。自信がつくと、独立起業が、現実的なことのように見えてくる。友人たちと話合い貿易会社を立ち上げた。25歳。3年半で日本マクドナルドを退職した。しかし、立ち上げた事業は、一銭にもならなかったそうだ。その後も、新聞に採り上げられるような斬新なアイデアで事業を興したが、借金が膨らむばかりで、結局、売り上げたのは数万円に過ぎなかったという。消費者金融にもお金を借り、お金を返すためにまた借金を重ねるといった自転車操業に陥っていく。結局、この時、立ち上げた会社は27歳で休眠状態になる。

返済の日々。

500万円まで借金は膨らんだ。消費者金融の利息は高い。利息だけで相当な額になる。返済のために、保険会社に就職。9時〜18時まではたらき、会社には黙ってカラオケBOXで真夜中まではたらいた。「死にたい」と思ったこともある。オレって何なんだ。頭を抱え込んだ日々もあった。だが、それでは何の解決にもならない。甘かった事業計画に、甘かった資金の借り入れに、けりをつける。そのために寝食を忘れ、懸命にはたらいた。ようやく借金返済のメドが立ったのは29歳の頃。そんな中、浮かれて友人とスノーボードに行き骨折。1ヵ月の入院生活を余儀なくされる。入院費がかさむ。目の前がふたたび真っ暗になった。時を同じくして地下鉄サリン事件が起こった。TVを観ながら、心に衝撃が走った。一度、死ぬことも考えた男が、簡単に多くの人の命を奪った凶悪な犯罪を観て、「全力で生きよう」と思った。人生がリセットする。過去を振り返り、たのしかった仕事は何か、と模索した時に思い浮かんだのが、ラーメン店でのアルバイトであり、日本マクドナルド時代だった。「飲食業」。このとき福原のなかに明確な指針ができる。「お客様やスタッフたちに喜ばれる」仕事をしよう、と。

独立はゴールではない。揺ぎない起業。

お金はもう関係がなかった。実際、ある「焼鳥店」のFCをめざしたが、150万円の資金がなく断念。だがもう安易な借り入れには頼らなかった。就職情報誌でみつけた「焼鳥店」に就職。イロハを教わった。この店で福原の上げた業績はすさまじかった。すぐに店長になり20万円だった給与は、60〜70万円にと、わずかなうちに跳ね上がった。まだ残っていた借金をキレイに片付けた。その後、友人がやっていた「焼鳥店」の経営を委託され、そこで次の開業に向けて資金を貯めた。800万円。33歳、その資本をもとに晴れて、独立。1999年4月1日「炭焼BARくふ楽」本八幡店開店。同年11月16日「心やくふ楽」船橋店、翌年8月31日「串焼BISTRO福みみ」銀座五丁目店と、創業の年から複数店舗を出店。ことごとく成功に導いていく。その後の出店状況はホームページで確認してほしい。飲食だけではない多彩な事業を行っていることも理解してもらえるはずだ。これらの事業は、苦労と、それを乗り越えたことによって生まれたといってもいいのではないだろうか。すべての事業に、福原のいままでが凝縮しているといえば言い過ぎだろうか。

「独立は、ゴールではない」と福原はいう。「起業して社長になれば、母を幸せにできる。そのときのゴールは社長になることだんです。それがいけなかったんでしょうね」。それに気づくまで福原は長い時間を要した。だが、それもまたけっして無駄ではなかったこともお伝えしていこう。

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