第199回 ダイキチシステム株式会社 代表取締役社長 牟田 稔氏
update 11/01/18
ダイキチシステム株式会社
牟田 稔氏
ダイキチシステム株式会社 代表取締役社長 牟田 稔氏
生年月日 1958年5月18日生まれ。
プロフィール 長崎県佐世保市生まれ。九州大学卒業後、サントリーに入社。福岡支店また南大阪支店で8年半、経験を積んだ後、ダイキチシステム(株)と運命の出会いを果たす。担当者となったばかりか、4年半の出向期間を経て2005年、正式に専務として招かれる。その3年後には社長に就任。カリスマ経営者、辻成晃氏(現会長)の意志を引き継ぎつつ、新たな「やきとり大吉」の創造に力を入れている。
主な業態 「やきとり大吉」「やきとり吉鳥」
企業HP http://www.daikichi.co.jp/
「ダイキチシステム」というより、「やきとり大吉」のほうがぴんと来るかもしれない。そう、今回は、あの「やきとり大吉」をピックアップ。店舗は、全国に900店舗以上展開。そのすべてが独立店舗であるのが、なによりダイキチシステムの運営方法の特長だ。今回ご登場いただくのは、このダイキチシステムの2代目社長、牟田稔。カリスマ経営者である辻成晃氏(現会長)からバトンを受け、「150万円で経営者になれる」というダイキチシステム独自の開業システムを、いま風にアレンジし、更なる展開をめざしている。

中学の卒業文集に残した、一篇の予言。

牟田は、1958年5月18日、長崎県佐世保市に生まれる。佐世保市といえばハウステンボスで有名だが、当時は、旧海軍の軍港が置かれた港町として、また造船の町として知られていた。この佐世保市の一角で暮らす牟田家は、両親も子供たちも仲の良い5人家族。牟田は長男であり、一つ下に弟、三つ下に妹がいる。小学生の頃から頭が良く、中学生時代は、校内一の秀才でスポーツにも長けたマルチな少年だった。そのうえ品行方正。必ず学級委員長に任命された。そんな牟田は、中学の卒業文集に一遍の予言を残している。「書いたことも忘れていたんです。社長に就任した時、母親がそう言えばと、中学の文集をひっぱりだしてきたんです。ちゃんと書いてあるんです。焼鳥屋になりたいって」。まるで、予言。ただ、本人も忘れるぐらいだから、その後、焼鳥屋を意識することはなかった。

2丁の猟銃と猟犬と。

少し、時間をさかのぼり幼少の頃の牟田を追いかけてみよう。1958年といえば、いまよりもずっと自然が豊かだった。少年、牟田は、父に連れられ山に入るのが好きだった。山に入る時には猟銃を携え、猟犬を従え、野兎を追った。「狩った兎は母が調理します。私も、皮を剥いだりした。それどころか、猟銃をぶっ放したこともある。親父の趣味だったのですが、いまでいえば本格的なアウトドアスポーツですよね(笑)」。たしかに、ワイルドな話である。この兎狩りや豊かな山や川が、牟田の強い肉体をつくっていった。中学に上がると、父に負けないほどのちからがついた。ある日、両親のケンカを目撃。反抗期もなかったという牟田が一度だけ、父に刃向った。「おやじを羽交い締めにしたんです。その後、おやじは、息子にとめられたって吹聴していました」。照れ臭さの反面、嬉しかったのだろう。「息子にとめられた」と言いながら、嬉しげに笑う父親の顔が想像できる。さて、そんなワイルドな日々を過ごした牟田だが、前述したように秀才で、高校入学時の成績は、全校で4番目だった。だが、ご多分に漏れず、勉強から次第に遠のき、高校3年の7月から半年間、猛勉強を開始し巻き返しを図る。もともと秀才だったこともあったのだろう。難関の九州大学に現役で合格することができた。

いまだから言える話。

スポーツに、バンドに、麻雀に。当時の学生たちはおおむね、この3つをたしなみにしていた。大学時代は、寮に入り、そこを出ると福岡の大繁華街天神のど真ん中のマンションの管理人アルバイトに就き、ねぐらを確保した。人生の縮図を見たというように、この仕事を通して、さまざまな事件に巻き込まれている。「カギを貸してくれって突然、女の人が管理人室のまえに立っているんです。話を聞くと、ご主人が愛人と暮らしているとのことで。部屋に行ってみると、窓が開いていて。愛人はそこから逃げたんでしょうね。笑えるような、笑えないような事件でしたね」。24時間管理のため、外出する時には友人たちに留守を任せた。たまり場のようにもなっていたんではないだろうか。○○組の事務所の人達に好意を持たれたり、上階からの水漏れ事故の処理をしたり、キャバレーの寮に使用されてた部屋で子供が泣いてるのをあやしたり…ともあれ、この、さまざまな事件を経験した管理人のアルバイトによって、牟田は、子どもと大人の間のあいまいな立ち位置を、大人の方向へと動かした気がする。

「やってみなはれ」のサントリー入社。

カツサンドが決め手になった、と牟田は就職時代を振り返る。「当時は4年の10月1日が、解禁日だったんです。その日の朝に、サントリーで面談を受け、次に大手家電メーカーの面接を受けました。すると、君、採用だからとその日から特別扱いされ、缶詰めにされたんです。まだ若かったこともあって、カチンときました。3日後、ようやく解放されて、サントリーの担当者に会いに行くのですが、たいへんだったな、って。そうだ。腹も減っているから飯でも食いに行くかと、カツサンドを食べに連れてくれたんです。それがご縁の始まりです」。なぜ、サントリーだったのですか?と伺うと、単純におもしろそうだったから、という答えが返ってきた。おぼろげながらもサントリーの自由な風土を感じていたのだろう。それがイの一番にサントリーに向かわせた理由である。サントリー時代のお話はとにかく豪快だ。最初の配属先は福岡。大学時代4年過ごした庭のような街である。せっせと店に顔を出した。経費もバンバン使うことが許された。金はだすから、とにかく『酒』と名の付くところには全部顔を出せといわれた。ちなみに当時のサントリーは、超目玉商品、オールドの人気が少しずつかげりはじめた頃。ビールのシェアは、もちろん少なく、ビールを酒屋においてもらうために自動販売機の設置など、あの手この手の作戦を展開していた。やがて、このビールが縁となり、「ダイキチシステム」と「サントリー」の関係が強固になるのだが、福岡にいた牟田には知る由もなかった。「とにかく店を回るでしょ。最初は食べて、飲んで。次も食べて、飲んで。その次には、飲んで、食べてとなり。それ以降は飲んで。飲んで」。酒を流し込んで、店主との距離を少しずつ縮めていく。それがサントリー流、もしくは牟田流の営業方法だった。

南大阪支店に異動。ダイキチシステムとの出会い。

ここで少しだけ、ダイキチシステムの創業者、辻成晃氏についても触れておこう。牟田によれば、辻氏は苦労人で、進学校である大阪府立八尾高校を卒業したにもかかわらず、進学せず就職。中学校時代の盟友と30歳過ぎに事業を興し、それがいまのダイキチシステムの始まりとなっている。当初から直営店は1店も持たず、独立支援システムを核に独立希望者を支援し、店舗網を拡大してきた。独立希望者は、当然、年齢層も、キャリアもバラバラ。そんな彼らに、一つひとつ経営を教え、1000名以上の経営者を育ててきたのが辻氏である。一代で巨大なネットワークを築いたことはもちろんだが、多くの経営者を輩出したことが、「カリスマ経営者」と言われる由縁であろう。さて、ダイキチシステムが展開する「やきとり大吉」が、50店舗を超える頃、辻氏はビール会社との価格交渉を行う店主たちの様子をみて、供給会社を1社に絞ることを思いつく。そして絞り込んだ1社がサントリーであり、偶然、経営陣に知人がいたこともあって、交渉もうまく進んだ。サントリーとすればもっとも弱いのはビール類である。「やきとり大吉」の店主たちは、サントリーの社員たちから最新の情報などを仕入れることができる。ある意味、WinWinの関係が成り立った。以来、いっさい「やきとり大吉」ではサントリー以外のビールを置いていない。この「やきとり大吉」の店舗数が、300店舗程度に膨れ上がった時、牟田は初めて辻氏と顔を合わせる。ダイキチシステムの担当者に任命されたのである。「福岡から南大阪に転勤になっていましてね。ちょうど2年半ぐらい経った頃でしょうか。前任者が急病で入院し、私が後任に指名されたんです。私も、3日後にはギックリ腰になったぐらいもの凄い迫力の会社でした(笑)」。ところで、牟田のイントネーションは、すっかり関西弁のそれ。福岡や長崎の方言は出てこない。このギックリ腰から始まった辻氏との関係がいかに深く、濃度が密なるものだったかを語らずとも物語っている。

専務に、と要請され、サントリー退社。その後、社長に就任。

さて、サントリーから出向して4年半後、牟田は正式に専務として迎え入れられている。2005年のことである。その3年後、社長に就任。すでに辻氏との付き合いは、20年以上を超える。師弟のようであり、兄弟のようである。関西弁以外にも、人の評価も似てきたはずだ。でなければ、「やきとり大吉」の店主は選べない。「大吉は人がすべて」、そう話す時の表情も似てきたのではないだろうか。「店主によって店はガラリとかわる。売り上げが2倍にも、3倍にもなっても不思議じゃない。でもね、うちは成功してほしいんであって、無理やり働いてもらおうなんて思っていない。だから、150万円程度の売上げでも食べていけるなら、それでいい」「10坪、家賃は12万円まで。基本20席、これは店主がお店全体を見渡せる限界。経験は不問。サラリーマンをやってきた50代の人も、何人も成功している。20代、お金がないけどやる気は旺盛。そんな人には150万円つくってこい、っていう。こつこつ貯めてきたらホンマモン、店を預ける。まだ少ないけど、女性の店主も千葉や長野で頑張ってる。5時〜25時まで。店主とおかみさん2人でもできる、そんな小さな店やけど、一杯、夢が詰まっている。それが、やきとり大吉」。たぶん、創業者の辻氏に負けないほど、店を、店主たちを愛している。だからこそ、辻氏も、牟田を社長に選んだのかもしれない。新メニューも、積極的に開発しているという「やきとり大吉」。牟田のもとで、新たな店と、店主が、これから何人も生まれていくに違いない。

最後に。

ダイキチシステムの独立支援システムについても、触れておく。
俗にいうフランチャイズシステムとは一線を画す。まず出店希望者を募る。希望者は150万円の入会金を出すか、出店費用分の約1100万円をだすかによってオーナーになれる。前者の場合は、店舗使用料が発生するが、ロイヤリティに相当する毎月の費用は、いずれのケースも3万円。食材も、各オーナーが仕入れるため、本部に3万円以上の費用を支払う必要はない。希望者はどうすればいいのだろうか。ホームページ上でも、詳細が語られているので、そちらを参考にしてもらったらどうだろう。経験も、年齢も基本的には不問だが、面談が極めてきびしいことも付け加えておこう。

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