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第215回 株式会社EPLGA 代表取締役社長 中島晋哉氏
update 11/05/10
株式会社EPLGA
中島晋哉氏
株式会社EPLGA 代表取締役社長 中島晋哉氏
生年月日 1968年3月5日生まれ
プロフィール 大阪府東大阪市で生まれ、大阪府南エリアである高石市で育つ。父は、一部上場企業に勤め、母はブティックを経営。2つ離れた姉が1人。小学生時代はスポーツ少年だったが、中学になって不良仲間と遊ぶようになる。進学校に進んだが、そこでまた事件が。京都産業大学を卒業後、高島屋に就職。1年目からラグジュアリーインポートグッズを担当。頭角を現し、9年後、ニューヨークに赴任。その後、伊勢丹の名物バイヤー藤巻幸夫氏と出会い、高島屋を離れ、老舗バッグメーカーの再生にチャレンジする。だが、失敗。悔しさをバネに、2003年、スターバックスに入社。当時、業績に陰りが見えていた同社を見事、再生させる。39歳、2007年8月に株式会社EPLGAを設立。現在、コンサルティング事業やレストラン事業などを展開し、日本を再発信する Japan Platformの構築に努めている。また、一般社団法人 志友会を立ち上げ、代表理事を務めている。
主な業態 「THE PLATFORM」「WANOBA」
企業HP http://www.eplga.co.jp/
一般社団法人 志友会 http://www.kokorozashi.or.jp/

卒業文集の「将来の夢」に書き込んだ思い。

奈良県と大阪府の境に生駒山脈がある。大阪府は西側に位置し、中島が生まれた東大阪市は、山の稜線を下り降り、河内平野の一部まで広がる都市だ。中島が生まれたのは、1968年。大阪府吹田市で万国博覧会が開催される2年前。戦後の復興の足音がより高まり、高度成長期に突入するような時代だった。中島はその後、大阪府南部の都市、高石市で育ち、大学に入学するまで過ごしている。父親は、一部上場企業のサラリーマン。母はブティックの経営者。「父は、まだ日本の円が360円の時代にもよく海外に出かけていました。当時は、誰もがそうだったのでしょうが、父もまた猛烈なサラリーマンでした。一方、母は私が小学生の頃に、病を患います。その後、ブティックを経営するようになるのですが、中学、高校の時代に再発。小学生のときには、毎日、病院に出かけるような少年だったんですが、中学ぐらいになると横道にそれてしまいます。病気がちな母には、その意味で心配をかけました。ただ、その後、再発していないのが救いです。私のためにも、負けちゃいけないと思ったのかもしれません」。母もそうだが、祖父たちも経営者であり、親戚の大半が商売人。そんなことも影響しているのだろう。小学校の卒業文集〜将来の夢〜に、中島は「企業経営者」という目標を書き込んでいる。「親戚たちの暮らしぶりをみていたのでしょうね。いつか、オレも経営者に、そんな思いを抱いて中学を卒業するのですが」

受験を前に、猛勉強を開始した、不良少年。

中学生になって横道にそれた。「悪ぶるのが、ファッションだった」と中島は当時を振り返る。中学生の頃は、誰しも「自立」の意味をはき違えている。不良がカッコいいと、もてはやされた理由だろう。「隣の中学に木刀を持って殴り込んでいくような、そんな時代でした。とにかく、悪いことがカッコいい。ケンカもしょっちゅうです。今でも、そのときのケンカの跡が残っています。でも、それだけケンカに明け暮れていたにも関わらず進学前には猛勉強を開始するんです。アルバムに書いた『企業経営者』になるためには、ちゃんと高校に行かないといけない、そういう思いがあったんでしょう」さて、高校受験を前に、猛勉強を開始した中島。はたして、努力は報われるのだろうか。

トイレでせっせと制服を着替えた。

「清風高校」は大阪の、特に南エリアの中学生なら誰でも知っている名門進学校である。中島は、この名門高校に合格する。猛勉強と引き換えに、進学校の門を潜った中島だったが、潜った瞬間、「こんなヤワな学校、すぐにオレがしめたる」とまたまた不良の中島が目を覚ました。「入学式の日からケンカです」。仲間と共に事件を起こし、新聞沙汰になる寸前までいったこともある。「剥きだしの暴力」。中島は、何かに飢えていたのかもしれないし、仲間という言葉に酔いしれていたのかもしれない。ただ、この事件を境に、暴力から距離を置き始める。「そんなに危ないことをしなくても、たのしいことならほかにもある、そう思ってナンパに走るんです(笑)」。高1の頃からバイトを始めている。中元の配送。自転車に乗り、配送先一つひとつ回る。1つ届ければ、80円。「前日から配送ルートを考え、いかに効率的に回れるかを考えて仕事していた。だから、いつも一番。車を使う人間より、バイクを使う人間より、自転車の僕が一番だった。とにかく、一番にならないとすまない性格なんです。」というから、不良というレッテルの一方で、計算能力の高い経営センスの一端を伺わせるようなエピソードも残している。高3になると、当時、いちばんおしゃれと言われていた「プランタン」というカフェでアルバイトをするようになる。「とにかく、格好良くなる為に努力してました」。制服を駅のトイレで、せっせと着替えた。少年、中島は、ある意味、必死に少年時代を駆け抜けた。

7人のバックパッカー。頭に拳銃を突きつけられた夜。

中学卒業時から3年経ち、ふたたび受験の季節が巡ってきた。中島は、再度、猛勉強を開始する。だが、さすがに大学受験の壁は高い。なんとか京都産業大学に滑り込んだ。勉強は、もちろんそっちのけ。サークルをつくって会長におさまった。青年時代からリーダーシップもハンパじゃない。大学の2年生のとき、海外へ行った。子どもの頃、父が良く出かけていた東南アジアへ。ここで初めて震え上がる経験をする。「仲間7人で出かけたんです。成田からバンコク。ジャカルタから成田のチケットはあったものの、持って出かけたのはそれだけです」。つまり、バンコクからジャカルタへ、バックパッカーのような無銭旅行が始まった。「1泊100円のホテルに泊まるんです。食べ物も現地で調達。7人で行ったんですが、体調をこわす奴が続出しました。それでも男7人。もう無茶苦茶な旅です。大学でインドネシア語を勉強していたので、現地の人と会話をすることもできました。結果、それが良かったんですが、監禁されたり、拳銃を頭に突きつけられたり。ちょっとお店でいざこざになって、最初はこちらも啖呵を切るなど威勢が良かったんですが、拳銃を持った男が現れて。さすがにヤバイと、友だちの分も合わせアリガネを全部置いて逃げました。(笑)」。破天荒な珍道中が続く。バイトもした。ディスコではたらきはじめると、責任あるポストも与えられた。たのしくて、たのしくて仕方のない時代。

高島屋、入社、10年後の目標。

「受けた会社、全部、受かった」。時代は超売り手市場。大学生が、大手企業の社長と対等に会話できる。中島の就カツ時代の話である。商社か、百貨店と悩んだ末、高島屋に入社した。ここから中島は、己が持つ才能を見事に発揮し始める。「ラグジュアリーインポートグッズを担当したくて、希望を出したら、OKがでたんです。インポートブランドが好きだったからです。もちろん新人ではなかなか配属されない部です。結局、9年間、手がけることになるのですが、この9年間がある意味、ぼくを育ててくれた気がします。ヨーロッパのカルチャーが持つ凄さをみせつけられたのもこの時です。また2年目からロイヤルホテルを担当することになります。客層がまるで違う。ふらっと来られて、4000〜5000万円の買い物をされるんですから。僕がマネジャーをする売場で年間40億円を売り上げていました」。ただ、いかに売上を伸ばしても、サラリーマンである限り、給与はかわらない。入社前から目標にしていた、独立を明確にする。目標を10年後の、32歳に置いた。

藤巻氏との出会い。初めての敗北。

起業まであと1年となった10年目を目前に、ニューヨーク行きの希望が通った。1年間、向こうでバイヤーの経験を積み、帰国後、9店舗のバイヤーを務めることがミッションだった。32歳での起業の目標を忘れたわけではなかったが、中島は海を渡ることにする。帰国後、一つの出会いがあった。伊勢丹の名物バイヤー藤巻幸夫氏との出会いである。「たまたま、ぼくの名前を知って藤巻さんのほうから誘っていただいたんです。それで、初めて会った、その日に朝まで語り合って。まだまだかなわない人がいるんだと、もう少し修行することにします。結局、高島屋には13年間、お世話になりました」。すでに、「中島晋哉」の名前は、業界内で知れ渡っている。「中島晋哉」というブランドが、独り歩きを始めるのは、高島屋、退職後だろう。藤巻氏に誘われ、老舗バッグメーカーの再生にチャレンジした。「ナンバー2としてMD、人事、商品、営業を担当します。ひとつの賭けでした。でも、会社を辞めてきたのですから、もう後戻りはできません。必死になってがんばりましたが、オーナー経営者と、再生のために乗り込んだ我々の間でボタンの掛け違いが起こってしまい、結局、撤退することになってしまうんです。私たちが、すべてに我流を通そうとしすぎたことが原因でした。自信もあっただけに、あのときほど悔しい思いをしたことはありません」。中島の人生を振り返ってみれば、思い通りにいかない、これが初めての経験だった気がする。

スターバックスコーヒージャパンへ。新たな出発。

企業再生、ブランド再生は、さまざまなシーンを私たちにイメージさせる。だが、どのような再生にせよ、再生に、魔法はない。託された者の強烈な意志、またそれに見合った才能が、唯一、困難な道を切り開いていく武器なのだろう。これは中島、本人にもいえることだ。どのような要因があったにせよ、1度、再生に失敗したことは、「中島晋哉」というブランドを毀損させたに違いない。どう、挽回するか。自身のブランドも賭けた戦いが始まる。スターバックスの再生。相手にとって不足があるはずはなかった。スターバックスの一員となり、この戦いを制し、見事に再生の道筋をつけた中島は、いよいよ起業に舵を取った。39歳、2007年8月に株式会社EPLGAを設立。中学生の時に志した「企業経営者」になる。2008年、スターバックス在職中に「人が繋がれる場所を作りたい」と恵比寿に「The Platform」をオープン。2009年 スターバックスを退任し、自身の事業を本格的にスタートさせる。現在、事業の中心はコンサル事業だという。むろん、飲食店事業も行っている。その一方で、一般社団法人志友会を立ち上げ代表理事を務める。今後、世に出る有能な人材を支援する組織ということだ。かつての不良が、時代をかえる「志」を持つに至る。その「志」とはなにか。志と志を、つなぐ。これが中島のテーマである。そんな志を持った中島の話を聞いていると、人より多くの利益を出した経営者が評価される、そんな時代はもう終わったんだよと、言われているような気がした。一人ひとりの「志」をつなぎ、「日本、再生」という難問にもチャレンジする、そんな中島の今後に注目していきたい。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
中学生の頃 高校生の頃 大学生の頃
思い出のアルバム4 思い出のアルバム5 思い出のアルバム6
ニューヨーク赴任時代1 ニューヨーク赴任時代2 スターバックス時代
   

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