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第265回 ナッティジャパン株式会社 代表取締役社長 金杉裕正氏
update 12/02/21
ナッティジャパン株式会社
金杉裕正氏
ナッティジャパン株式会社 代表取締役社長 金杉裕正氏
生年月日 1972年2月14日
プロフィール ホテルに就職し、社会人生活を始めるが、1年後に3億円の借金があることがわかり、退職。カラオケルームやクラブを経営し、返済に努めるとともに、敏腕経営者の片りんを覗かせる。返済に一定の目途が立った時点で、いったん店を閉め、充電。数年間の雌伏後、幕張メッセで音楽イベントを開催するなどして復帰。その後、ナッティジャパン設立。現在、「外食事業部」「企画・サービス事業部」「リフォーム事業部」「ネイルサロン事業部」を展開。2012年には、「ネイル」と「飲食」で、シンガポール・タイ・台湾・インドネシア等への進出を予定している。
主な業態 「えび&和DINING 一期邸」「焼酎Bar Colors」「炭火焼Bar ホルモン'S」「JUICE」「焼肉一番星」「桜乃邸」
企業HP http://www.natty.co.jp/

祖父は、先生であり、政治家。

千葉で生まれ育った。祖父は千葉の有力な市会議員。政治的なセンスに長けておられたのだろう。国会議員も、相談に訪れるほどだった。金杉が、祖父と暮らすようになったのは小学4年生から。その時から、祖父のマンツーマン指導が始まった。
「小学校の低学年から夜遊びをしているような少年だったので、祖父が見かねたんでしょう。家族で祖父の家に移り住み、私は学校から帰って夕方まで勉強。食事が終わると今度は、筋トレが始まり、終わらないと風呂にも入れてもらえないんです。祖父はもう引退していましたので、休校日もない」。
「愛情はたしかに感じましたが、時にはいじめられているんじゃないかと(笑)。まだまだ子どもでしたから、祖父がどんな思いで私を教育していたか分からなかったんです。ただ、この時、話し、諭してくれたことは、いまの私のコアになっている気がします。言い替えれば、政治家の祖父、男としての祖父が、私のなかで、まだ生き続けているんです」。
祖父とのマンツーマン教育で「何よりプライドが植え付けられた」と金杉は回顧する。
ただ、この教育は4年でピリオドが打たれた。祖父が他界したからだ。財産のいくつかは教育費にと母に残された。この遺産がのちのち問題を引き起こすのだが、それはまだ先の話。

3億円の借金。

小学生の頃から野球とサッカーをやっていた。中学では野球部を選択。ただ、坊主頭がいやで先輩ともめて、直ちに退部してしまう。思い悩まないところが、金杉らしいところだ。思い切りの良さがいい。
18歳の時、サービスを勉強しようと幕張のホテルに就職した時も、特に思い悩んだりはしなかった。大学への進学など全く考えていない。
「とにかくレベルの高いサービスを学びたかった。このホテルに勤めたのは1年ですが、ゼロからサービスを学んだことは大きな財産になりました」。
1年で退職。問題を起こしたわけでも、イヤ気がさしたわけでもない。一つの事件が起こったのである。
「母が、話があると私と姉に神妙な顔で言うんです。普段、そういうことはあまりなかったので、なんなんだ、と。よくよく話を聞くと、祖父が残してくれた財産で投資をしたが、失敗し、おまけに3億円の借金を作ってしまったというんです。正確には不動産屋に騙されたようなものですが、もう契約が済んでいてどうすることもできないと」。
「手元にある資金と、銀行からの借入3億円でビルを買い、テナントを誘致することで賃貸収入が得られる、という話です。不動産屋がいう通りの家賃収入が入れば問題なかったのですが、千葉の田舎で、調べてみると想定された家賃は通常のほぼ3倍。テナントが入るわけはありません。母が騙されたという話も頷けます」。
ただ、そんなことを言っていても始まらない。いきなり3億円の借金と言われても、理解しろというほうが酷だ。そのとき金杉は社会人1年生。そしてまだ19歳だった。

利息と元金〆て月の返済額160万円。

翌日さっそく母をともない銀行に行った。母の話だけでは何が何だか分からなかったからだ。「支店長がいらして、ともかく返してもらわないといけない、というんです。あたりまえですが、こちらにも返すあてはない。利息、元金合わせ月に160万円。母に払えるわけはないので、なら、息子のオレが払います、と。ただ、私にしたってあてなどない。月給は20万円もなかったんですから」。
サラリーマンに見切りをつけた。
「ホテルを辞め、事業を興す。あてはなかったんですが、それ以外、月に160万円も返済する方法が思いつかなかったんです。たまたまカラオケルームで働いている友人から、すごく客が入っていると聞き、カラオケルームなら私にもできるだろうと。母が買ったビルには、テナントも入っていませんから、そこを使えばいい。だが、肝心なものがない。そう、初期投資の原資です。考えられるのは、銀行からの借り入れです」。ただ知っているのは、例の支店長だけ。金杉の支店長詣でが始まった。

支店長詣で。

「ホテルを退職し、1ヶ月間毎日、支店長のもとに通い始めました。通うと言っても、経営の知識もないから、交渉なんてできるわけもない。カラオケルームをするといっても、アルバイトの経験すらありません」。
返済のためなら、なんだってする。だが、思いだけで簡単に銀行が貸してくれるわけがない。
「銀行に行くでしょ。すると支店長が私に質問するんです。これはどうする、あれはどうするつもりですか、と。その場では答えられないから、とにかく質問を持ち帰って、調べまくります。ネットもない時代ですから、本屋で調べたり…。とにかく翌日まで答えを持っていなかいといけないから必死です。なんとか調べ上げて、翌日伺うと、また次の質問が飛んでくるんです。その繰り返しです」。
貸す気があるのか、ないのか。大事な答えはいっこうにいただけないまま、1ヵ月が過ぎた。
そんなある日、支店長が、これが最後の質問だと前置きし、「裕正くん、ホンキで返す気があるんですか?」と言った。
頷いた。そのために1ヵ月通い続けたんだ。強く頷くと、初めて質問ではない言葉が返ってきた。
「いままでのやり取りをまとめると事業計画書ができます。それを持ってきなさい」。
支店長決裁で融資された額は1000万円。これが3億円を返す原資になる。だが、あくまで計画の一里塚を過ぎたところ。当時、カラオケルームがブームだったのはたしかだが、はたして返済は進むのだろうか。

9部屋のカラオケルームからすべては始まる。

9部屋、カラオケルームの数である。料金をいくらに設定すればいいか。金額は逆算で決めた。とにかく月160万円の利益をださないといけなかったから。「朝から晩まで仕事漬けです。休むこともない。サーフィンをしていたので、早朝に海に行きリフレッシュし、そこから1日ずっと仕事です」。
「返済額の160万円はかろうじてキープできました。ただ、スタッフたちに給料を払い、母にも10万円ぐらい渡すと、私には一銭も残らない」。
返済のためにすべてが費やされる。どんな思いだったのだろうか。
「1年経ったぐらいの時です。これではダメだ、1店舗では限界がある、そうハラを括りました」。
ふたたび支店長の元を訪れ、事業計画書を再度提出した。今度は2000万円をスグに融資してもらえた。1年間で2000万円近くの返済実績を作ったからだろう。
2000万円の融資を受けた金杉は、カラオケルームとおなじビルでクラブをはじめた。これが、想像以上にヒットする。30坪弱の店に1日400人が集まり、音楽に合わせ、踊りまくる。
「オレたちと同年代の青年が凄いクラブをやっている」。若者たちの間でたちまち情報が駆け回る。TVが入り、マスコミの取材も殺到するようになると、全国から客が押し寄せてきた。たちまち、金杉は時代の寵児となる。
たが、金杉は天狗にならない。なろうにもなれなかった。上がった利益で、せっせと返済しなければならなかったからである。

マスコミ、警察、そして…。

ただ、当時、マスコミ同様に押しかけてきた大人たちがいる。これには手を焼いた。
「一つは警察です。夜になれば、店のまえに車がズラリと並びます。多い時には300メートル向こうまで。すべて違法駐車です。何度も指導を受けました。とはいえ、まだ話が通じる相手でした。人気になると、もう一つやっかいな連中も群がり始めます。暴力団です。頭は借金で一杯だったので、付き合いを一切拒否していたところ、あちらもゴウを煮やしたのでしょう。刺される寸前までに。スタッフが110番してくれたおかげで、難を逃れることができたんですが、色々と問題が大きくなり思い切って店を閉めたんです。24歳の時です。返済も、かなり進んでいましたから」。
むろん、命には代えられない。金杉の伝説的な歴史は、ここでいったん幕を閉じる。

ナッディジャパンの始まり。

この後、金杉はネイルに目を付け、アメリカに渡ったり、足つぼマッサージに目を付け、香港に飛んだりした。しかし、いずれも時期尚早。いわば充電期間でもある。
その後、幕張メッセで音楽イベントをレギュラーで開催し、華々しく復帰。全国から人が集まった。
立ち上げた事業、すべて良かったわけではない。29歳の時には、排気ガスを浄化する機器の会社を立ち上げたが、全然売れない。
「あの時は、さすがに途方にくれました。そんなとき、知り合いの社長が好条件でテナントひとつを貸してくれたんです。金杉くん、キミは人を引き付ける才能がある。テナントを貸して上げるから、もう一度、外食事業をしてみなさい、と」。
カラオケやクラブ時代を知っている社長からすれば、何とかサポートしたいという思いがあったのだろう。いずれにせよ、この店が、ナッディジャパンの始まりとなる。

ナッディジャパン、世界へ。

現在、無事3億円は完済し、ナッディジャパンは、飲食事業はもちろんのこと、企画・サービス事業、ネイル事業を展開している。ネイルといえば、金杉がクラブのあとにやろうとした事業だ。
すべてがつながっている。祖父の教育も、ホテル時代も、3億円の借金も、すべてつながっている。クラブの盛況も、ネイルにほれ込み海を渡ったことも、音楽イベントの盛況も、趣味のサーフィンも。すべて。
ちなみに社名の「ナッティ」は、「粋」や「イカした」という意味だそうだ。なんでも、ジャマイカ辺りで使われる英語らしい。
20歳で人気のクラブのオーナーになり、20代後半には、幕張メッセで音楽イベントを開催する。たしかに、その生き様は「粋」だ。
だが、本質はそうではないだろう。借金から逃げず、懸命にはたらいた。その姿こそが「粋」であり「ナッディ」なのだ。

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