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第287回 株式会社NEXT STAGE JAPAN  代表取締役 藤野康治氏
update 12/05/08
株式会社NEXT STAGE JAPAN
藤野康治氏
株式会社NEXT STAGE JAPAN  代表取締役 藤野康治氏
生年月日 1963年3月22日
プロフィール 大阪市平野区出身。新聞配達で生活費を捻出し、独り暮らしを始めたのは中学1年の時。高校時代は音楽の大会で3年連続グランプリ獲得。コンテストなどいくつもの賞を総ナメにする。メジャーをめざし、音楽に没頭する一方で、さまざまな職種、仕事も経験。CM制作、格闘技テーマソングを手がけ、「ジョニー大倉、」「秋川雅史」らをプロデュース、「電撃ネットワーク ギュウゾウ」との共同プロデュース、「茉奈佳奈」をサポートした経歴を持つ。現在、音楽家ユニオン作編会議事務局長、。音楽、映画、フラダンス・ハワイアン、また各種ショー製作までを手がける日本を代表するマルチプロデューサー。日本最大のファッションショー「東京コレクション」の演出も手がけている。
企業HP http://www.nextstagejapan.com/

13歳の独り暮らし。

祖父は宗教家、父は発明家、そんな会話から藤野の昔話はスタートした。「祖父は、とある宗教団体で幹部まで務めていたんですが、占い師になり、別の宗教を立ち上げます。父は、祖父とは異なる宗教に入り、疎遠になってしまったそうです。父は発明家で、昔からウチには部品がゴロゴロ転がっていました。でも、大発明はなかったんでしょう。ぜんぜんお金はなかったです(笑)」。
藤野が生まれたのは、1963年3月22日、大阪市平野区。
小学3年生から、新聞配達のアルバイトを開始。
中学1年の時に、父親とケンカし、バイト先で知り合った先輩のアパートに転がりこんだ。これが独り暮らしのスタートとなる。13歳の独り暮らし。生計も立てた。だから朝・晩の新聞配達は生活の糧。月6万円になった。朝3時には起きだした。自炊もしたが、先輩たちにもずいぶん奢ってもらった。「ワルと言われる人たちばかりでしたが、付き合ってみると違うんですね、いい人ばかりでした」。
中学卒業までは、雨が降ろうが、アスファルトが凍っていようが、朝3時の起床はハズせなかった。

悪役宇宙人は、音楽のコンテストで賞を総ナメする高校生シンガーだった。

高校に進学すると、バイトの幅が広がった。新聞配達より割のいいバイトができるようにもなった。その一つが、キャラクターショーだった。遊園地で開催されるショーに出演する。悪役宇宙人にもなった。光の巨人にもなった。子どもたちが笑う。地方にも遠征した。たのしかった。友人を誘い、ひとクラス分の人間を引きこんだ。
その一方で、音楽にのめり込んだ。
高校1年の時から、地区の高校数校が主催する大会で3年連続グランプリを取った。さまざまなコンテストに出場し、優秀賞など、各種の賞を総ナメにする。
夜な夜な、大阪ミナミにも出没した。「スナックでギターを弾くバイトです。ショーのバイトと弾き語りのバイトで月20万円ぐらいになりました」。
ところが、高校を卒業と同時に、いったん音楽を捨てた。「高校1年から付き合っていた子がいて、ちゃんとした仕事に就かなくてはと思ったんです」。
それで始めたのが、学童保育の先生だった。

19歳。300万円の借金をつくる。

「ショーのバイトで知り合った人から、『手伝って』とお願いされたんです。えっ?って。だって、オレまだ19歳でしょ。子どもらの面倒なんてみられません、って言ったんですが。その人は『できる、できるって』。そう、言われたもんですから、じゃぁやってみようかと」。
人に頼まれたらイヤとは言えない性格なのか、乗せられるタイプなのか。とにかく、やんちゃな子どもたちの尻を追いかける日々が始まった。
ただ、好きな音楽を捨てたことで、ストレスが溜まった。彼女とケンカが絶えなくなる。彼女を大事にしたいから、音楽を捨てた。なのに、それがもとで、別れることになってしまった。学童保育の先生は、1年で辞めた。
これが、きっかけになったのか、いよいよ藤野の破天荒な人生の幕が切って落とされる。19歳で会社を興した。むろん、うまくいくほど、甘くはない。スグに300万円の借金を抱えた。「こりゃあかんわ、と。借金を返済せなあかんので、月50万円のサパークラブのボーカルに応募するんです」。オーディションを受けたら、あっさり合格した。飲み食いしなければ、6ヵ月で返済完了できるはずだった。

タダでええですから。

ところが計画はわずか2ヵ月でとん挫する。早い話、クビになってしまったからだ。「バンドのメンバーは年も上でプロばかりです。奴らにしたら、いきなりボーカルの若造がやってきて腹立たしかったんでしょう。ギャラもいっしょでしたから(笑)」。
ステージに立つと、いつものようにうまく歌えなかった。調子が狂う。首をひねった。「なんでやろ?」。ある時、女性のボーカルがあきれ顔で言った。「アンタ、まだ気づかへんの? 音、外されてんのよ」。頭にきて、楽屋に怒鳴りこんだ。もちろん、相手は取り合わない。
「アホんだら、いつかシメたる」、そんな思いを胸に、歌いつづけたが、人気がでない。それはそうだろう。バックが全員、敵。これで客を魅了できたら、そもそもバックの存在価値もない。2ヵ月過ぎた時に、クビを宣言された。だが、藤野は、しがみついた。「給料はいりません。つづけさせてください」。「こんなんで、終わられへんから」。
生意気なガキを追い出したつもりのメンバーたちは、藤野がいつものようにやってきて、首をかしげた。「おまえ、クビにされたんちゃうんか」。「え? タダで。給料いらんいうたんか」。
「オレは音楽でメシを食っていきます。こんなんで、負けてられません」。啖呵を切った。
この時からメンバーの態度がいっぺんした。
「おまえ、歌、ウマなりたいんか。ほなら教えたる」
「ドラムも叩けたほうがええから、教えたろ」
「メシ食わしたろ、とドラッグを渡された(笑)」こともある。
20時からのステージのため、17時に入った。藤野を教えるために、メンバーたちが入れ替わり立ちかわり、17時に入るようになる。「そのうち、みんな5時にくるのが習慣になって、ステージのまえに3時間、みっちり練習するようになるんです。そりゃ、プロです。音合わせだけじゃなく、3時間も練習する。客の反応が、いっぺんにかわりました」。
人気が出た。藤野の歌を聴きに客があつまる。「2ヵ月後、もと通りの給料がでるようになりました」。ただ、この仕事はずっとつづけていくような仕事ではないと思っていたのも事実。メジャーをめざすには、ルートが違うと思っていたからだ。そんなとき、メジャーへの足がかりに組んでいたもう一つのバンドから、勘違いがもとで外されてしまった。
「ウソやろ」。とほうに暮れていた時、一人の紳士が声をかけくれた。

タイガージェット・シンと共に海外を転々としたことも。

大手住宅メーカーの役員だった。カバン持ちをしろと言われた。バブルに向かっていく頃だ。財界の著名人にも会ったし、億単位の金が動くところもみたはずだ。その紳士から、店を任された。イベントの仕事も任された。不安がる藤野に、紳士はその度に「できる」「できる」と、かつて言われたのと同じ言葉をかけられた。「できる」「できる」、そんな言葉が藤野の新たな人生の幕開けになる。
ここからは少し足早にいこう。
先輩に誘われ、ログハウスを建てた。完成目前に、ボヤがもとで全焼してしまう。「逃げるなよ」先輩にすごまれた。結局、大工の不始末とわかったが、こっちは正真正銘のただ働きになった。代わりに、仕事を教えてもらいログビルダーになった。
借金を抱え、東京にトンズラした。アーティストと知り合った。アブドラザ・ブッチャーとも知り合った。タイガージェット・シンについて、海外を転々とした。元大の海、石川敬士に誘われて、プロレスのリングアナもした。1回、5万円。ブッキング事業もした。バブルがはじけ、とたんに借金が残った。借金にあえいだ時、宝くじがあたった。1000万円。ある画家に、150万円を貸したら、1億円貸してくれた。プリクラがあたって、借金を返済した。残った金で、スタジオをつくった。これが、「横浜マウンテンスタジオ」「ベイジャングル」。たちまち有名になった。

藤野の骨格をつくるもの。

高校生の頃、良く行くライブハウスで、桑名正博や上田正樹など有名なミュージシャンたちと出会った。「うまいな」とかれらはと口をそろえて言ってくれた。
「当時は、コンテストでも賞をもらったりしていたでしょ。だから、オレは凄いと思っていたんです」。でも、京都のサパークラブで、鼻をへし折られた。音楽を捨てようと思ったこともある。高校1年から同棲を始めた。好きになった女の子もいっぱいしるし、心を交わしたアーティストも数多くいる。それ以上に、多くの人間に出会った。その一つひとつが藤野の骨格をつくっている。
現在は、コンセプトレストランの経営プロデュースも行い飲食にも参集している。多数のコンセプトレストランのコンサルティングも行っている。
歌手の卵が全員スタッフの「シンガー&タレントバーegg横浜・赤坂」では、開業より2年半で、300名をオーディションし、50名を採用、プロの歌手として15人以上をデビューさせている。音響・演出家を100人以上育ててきた藤野だから、できることだ。全員がダンサーの店「ダンサー&タレントバー横浜ROCK」も経営している。
これらは、藤野のゼロからの新しい挑戦だ。
格闘技(キック・プロレス・総合格闘技)の演出では、パイオニアとして数多くの弟子を育て上げ、その活動も継続中。マルチプロデューサーならではの活動はまだまだ続く。
音楽を喰らった男。
一言で藤野を言うならば、そうなる。
音楽で食べてきたわけではなく、音楽を喰らってしまったのだ。だから、いつも熱い音楽がからだに流れている。その音はまだまだ藤野を走らせるに違いない。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
高校時代 高校卒業後 京都祇園のサパーメンバー(左端)
思い出のアルバム4 思い出のアルバム5
25才バンド時代(上段右端) 30代  

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